Fate/Lineage 傾:シリアス
作者: 片桐   2007年10月01日(月) 23時10分41秒公開
 豪雪が体を叩く。嵐に舞う雪は見ない拳のように強く硬く身体を叩く。
 視界は雪に閉ざされ何も見えない。精々自分の手足を確認するのがやっとだ。いや、足先に関しては降り積もる雪に隠れてしまって見ることは適わない。
 声は吹雪にかき消され、どこまで通っているのか知る由もない。
 天を仰ぐ。暗雲に遮られているのか、それとも日が落ちているだけなのか。虚構の闇に舞い飛ぶ雪が見えるだけ。
 そんなモノクロの檻の中に、間桐桜は立っていた。
 身に着けるものは何も無いが、これほどの厳冬に晒されながら不思議と寒さ冷たさは感じなかった。
 故に、桜は自然とこれが夢であることを悟った。
 肌に当る雪は勢いこそ伝えるが頭髪や肩に積る事はなく、そのくせ吹雪に押されて数歩踏鞴を踏んで動いてしまった桜の足跡は綺麗に埋め去ってゆく。
 確かにこんな不可思議な雪は夢でしかありえないだろう。

 自分は、どうしたものか。

 夢中の呆けた思考を、崩れかけた姿勢を戻しながらゆっくりとまとめていく。
 元から能動的ではない間桐桜だ。それは夢の猛吹雪の中においても同じで、ゆらゆらと雪の流れに身を任せるだけで何をしようかとは思わなかった。

―――唯一あるとすれば、愛しの人がこの夢から引き上げてくれるのを待つだけ。

 冷温を伝えない雪に膝ほどまで絡め取られても気にすることなく、彼女は目覚めの一瞬に彼が居ることとだけを望んだ。

「あーあ、色ボケちゃって。ホント、サクラってシロウのことばかり考えているのね」

 冷気ではなく不意に聞こえた声に身体が凍った。夢現に緩んでいた顔は驚きに固定された。
 動きの鈍い体が疑問と混乱に埋もれる意思から離れ、ゆっくりと振り返る。
 まず見えたのは白いちいさな脚。意図せずに俯いていた顔があがり、緩やかな曲線で縁取られた幼い少女の肢体を捕らえる。
 髪は銀。魔術を執り成す女の常で、長く背中にまで掛かっている。
 瞳は赤。一千年続けられた魔道の血脈を示し見せる様に赤い。
 間桐桜を挑発しているのか、彼女は薄く冷笑を浮べて猛吹雪の中揺らぐことも無くしっかりと立っていた。

 冬木における第五回聖杯戦争に参加したバーサーカーのマスター。
 英霊を留め置く器として作られたホムンクルス。
 魔法の奇跡を遣い桜が愛する人の命を救った少女。
 『この世全て悪』に汚染された大聖杯を閉ざした彼の姉。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。


 *** Heaven’s Feel After / Lineage ***


 目を覚ます。
 朝日は薄く、僅かな採光から曳きこまれる木洩れ日程度では地下室の全てを浮き上がらせることは出来ない。

―――ここは……。

 思考が纏まらない。寸前にまで自分が居た場所と今の状況が結びつかない。
 霞む目に力を込め視覚に意識を傾ける。石造りの天井が見えた。
 ここは、遠坂の地下室。
 余剰魔力に体調を崩した為、急遽霊地に触れ流れを整える事を決めたのが昨晩。お屋敷の門まで送ってくれた愛しい人の顔をはっきりと思い出す。
 桜は現状を受け入れる途中で、自宅では鳥の声が当たり前に聞こえていたことに思い至った。

―――自宅。

 それはどこのことだろうか。
 今一働かない頭でも桜にとってはとても大切なことなので、直ぐに言葉に意味を添えることが出来た。
 生家である遠坂の屋敷でもなく、苦痛に沈んだ間桐の洋館でもなく、安らかに過ごせる衛宮の家。
 安堵が胸に落ちる。
 深くゆっくりと呼吸をして間桐桜は上体を起こした。被っていた土が零れる。
 自分の中を見やってオドが安定していることを客観的にも確認して見るが、どこか違和感を感じるので暫らく座ったままじっと時を待つ。
 しばらく経っても、特別身体のどこかが痛むとか引きつりを感じることはなかった。魔力不足から眠気に囚われることも、逆に魔力過剰から神経を引き裂くような痛みを感じることも無い。
 どうしたのだろうと、もう一度魔力の流れを確認しようとした時、きゅ〜とお腹が鳴いた。強烈な空腹感が襲ってくる。
 誰かに聞かれるはずもないのだが、つい桜は周囲を見渡してしまった。年頃の娘としてとても恥ずかしい。
 一先ず魔術回路は良しと見た桜は、立ち上がり両手で全身から土を払い落とす。地下室にある湿り気を帯びた土は素肌に張り付き、手だけでは全て落としきれない。このまま服を着るのはさすがに気が引ける。遠坂の地下室で休んだ日は朝一番で身体を洗うことにしていた。
 霊地の恩恵を受けた土を粗方払い終えたところで、バスタオルを身体に巻きつけて地上階に上る。

 いくら利用許可をもらっているからとはいえ、姉のシャンプーを使い切れるほど桜は無神経ではなかった。桜なりに気を使ってのこと、遠坂邸のバスルームには家主が置いていったものとは別ラベルの品が色々と入り込んでいる。自分用のシャンプーもこれで二本目になる。
 髪と身体を入念に洗い磨く。
 タオルに水気を吸い取らせ、彼が修理したドライヤーで髪を乾かし、衣服を纏う。
 居間に移るドアの前で彼女と顔を合わせた。
「おはようございます。昨晩は良く眠れましたか」
「おはよう、ライダー。ええ、目覚めはよかったわ」
 それはよかったと表情を綻ばせるライダーがドアを開けて桜を先に促がす。まるで従者のようだ。
 まるでも様でもなく、ライダーはれっきとした桜のサーヴァントだ。魔術師としてこの感性は間違っている。しかし神秘の結晶を家族同様に扱う彼と共感している自分に嬉しさを感じて、自然に笑みが零れる。
 微笑む主人に向けライダーがどこか呆れたように言う。
「なにを考えて笑っているですか」
「ライダーを召還してよかったなって思って……。聖杯戦争も終わっているのに、こうしてわたしと居てくれて。本当に感謝しきれないから」
 笑顔での称賛。
 思いもよらない反撃に騎乗兵が言葉を詰らせる。
「わ、私の個人的な想いとして、サクラのこれからを見ていきたかっただけです。自らの理由で聖杯を求め活動しているサーヴァントなのですから、私の選択したことにマスターであるサクラが感謝する必要はありません」
 いつに無くライダーが早口に喋る。頬をうっすらと上気させてもいる。
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
 照れを隠し切れないライダーに、笑いを堪えようともせず、桜が居間を通りキッチンに入っていく。
 昨日泊まり用具一式と一緒に持ってきた材料を使って軽い朝食を作り二人で食べる。家主が英国に留学しているため遠坂家の冷蔵庫は空っぽで電源を抜かれてしまっている。水や器具は揃っているが、食事をするにはその都度持ち込む必要があった。
「午前中はこの屋敷の掃除をする予定でしたね。私はともかく、サクラはこれだけで昼まで保ちますか?」
 トーストに炒り卵、小鉢のよそったグリーンサラダと簡単なメニューを召し終えたライダーがナプキンで手を拭きながら問い掛ける。
 三枚目のトーストに伸びようとしていた桜の手が止まり、恨みがましくも情け無い涙目でライダーを睨む。口元は泣き出すの堪えるようにふにふにと波揺れていた。
 自らの主が日々体重を気にして食事量に悩んでいることをライダーは思い出した。慌てて弁明する。
「そうではなく。単純にサクラの身体を心配しているのです。折角霊的スポットに触れて魔力を安定させても、身体の方からそれを突き崩しては意味がありません」
「お昼には先輩がお弁当を持ってきてくれるから、これでいいのよ」
 桜は諦め半分の様子で、自分が用意した朝食を平らげに掛かる。どこから見ても足りていない様子だ。
 ライダーは諦め八割微笑ましさ二割で食後のカフェオレを啜った。


 少し前のこと、この冬木市にて凄惨で痛ましい戦争が起こった。
 戦争といっても誰にでも知られるほど大きくも無く、参加したのはたった七人と七騎のみ。
 それでも戦争の名を関するのは、参加者全員が神秘を操る魔術師であり、召還される七騎の使い魔が英霊であり、勝利者に与えられる栄光が全ての願いをかなえる聖杯だったからである。
 だが、それは全て過去のこと。

 戦争の戦利品であるはずであった奇跡を生み出すはずの聖杯は、
  超越者に仕立て上げられた平凡な男に汚され、絶望を吐き出す奈落に変わってしまい。

 200年で五度開かれた戦争は、
  偶然に巻き込まれた一人の男の平穏への願いにより、儀式の終結を以って閉じられた。

 日本有数の霊地冬木における聖杯探求の試みは、人々の心身と営みに傷と痛みを残して終了したのだった。
 その後人々は、傷ついた体と心を治し癒し、今日まで続けてきた日常を回復させている。
 間桐桜はそんな人々の一人であり。
 そして、黒く染まった聖杯そのものでもあった。

 聖杯戦争が終結して二年。
 現在、聖杯顕現の儀式に参加した魔術師(マスター)の一人であり、桜の実姉たる遠坂凛は倫敦の時計搭に入っている。
 そしてもう一人の生存者である衛宮士郎は戦争で負った“ダメージ”をなんとか回復させ、一年の留年を食らいつつも無事恋人の間桐桜と共に穂群原学園を卒業することになっていた。
 そんな慶びの式日を間近に控えて、いまだ聖杯から供給される魔力に手折れた桜は、少し自己嫌悪に陥っていた。
 体調の崩れとまでいかずとも、少しだけ身体の中に違和感を感じていたときに、一先ずの句切り目が見えた事と姉の休暇予定を聞いたためだろう。気が緩んだのだ。この数ヶ月間いつに無く魔力が安定していたのも油断を誘った。

 開いた心の隙間に、血に縁取られた、真っ黒で闇色の、罪の意識が滑り込んだ。埋め込まれた。突き刺さった。

 聖杯戦争の中で間桐桜に襲い掛かった悲劇、自らが犯した罪の重たさが、心を引き裂こうと、重圧をかける。爪をたてる。刃で撫で舐める。
 どうして自分は生きているのだろう。
 名前も知らないたくさんの人たちの命を暗い闇の中に放り投げて飲み込んで、それなのに安穏と平穏の中に暮らしている。
 それだけのことなのに。
 何気ない日常を営むだけで、胸の奥で言い表せない痛みが生まれる。

『わたしの事なんて忘れていいです……!』

 自分なんか消えてしまえばよいと、何度思ったことか。
 12年前。姓を変えたばかりの幼い桜に、冬木の地に根付く聖杯の欠片が植え付けられた。
 それが本来の目的通り無色透明の純然たる願望機であるなら、桜の進む道も変わっていたであろう。
 しかし現実には、マキリが桜に施した人体改造に使われた破片は、世界全ての呪いによって既に黒く汚染された死と苦痛の源でしかなかった。

その呪いにより、
 引き起こされたのは最悪の悲劇だった。

 更には、引くことが出来ない理由を得てしまったがために、間桐桜は黒の聖杯へと堕ちてしまった。
 彼女に襲い掛かる罪の意識は、近しい人を傷付けたことと、無為に被害を広げてしまったことが多くを占める。

『ちゃんと、ちゃんとここで死にますから、ひとりでもちゃんと死にますから……!』

 夢に見たのは、身体のほぼ全てを内からの剣に貫かれた彼に激白した言葉。
 終局の手前で姉に傷を負わせた桜が叫んだ言葉に、彼女の苦悩と憤りと哀しみと―――、全ての痛みが篭っていた。
 世に秘匿される魔術の領域での出来事故、死に怯える少女を真っ向から断罪する声は無いが、自分の命と他者のそれを量りにかけて掛けて、自己を優先しない人間が如何ほどいるというのか……。
 だが、間桐桜のケースに置いてはその選択に対する同情も、悲劇が始まるその直前にある男が吐いた忠告によって封じられしまっていた。

『女、苦しみたくなければ、今のうちに自決しておけ―――』

 金色の男の言葉を聞いた時点で自殺しなかったのは、はたして桜の罪となるのだろうか……。

 悔やむ。悩む。どんなに考えようと、ひたすらに漆黒の闇の中に埋もれてゆく感覚。
 心が傷つけば、魂が揺れ、魔力の流れが荒れる。
 多くの魔術師ならば魔力回路の開閉と魔術を用いて安定させることができる内面の凶事も、膨大な魔力に翻弄される桜の場合は容易く収まることがない。結果氾濫した河川が川辺を削り取るごとく溢(あぶ)れることになる。
 昨日の朝、桜は起き上がることもできないほど麻痺してしまった身体に激しい怒りをぶつけ、必死に起き上がろうとした。
 耐えられると自分に言い聞かせる。愛する人たちが間桐桜の幸せを願ってくれている。倒れることはできない。
 しかし、願いは届かず主の異常を即座に察したライダーによって無様にうめく様を発見されてしまう。そのまま昨日一日は寝具に拘束され、休養とその晩に遠坂邸を訪問することが決められてしまった。
 自分を慮る家族に対し、間桐桜は自責の念を蓄積させる。しっかりしなければ。立ち向かわなければ。桜を自分を叱責する。
 これが正すべき悪癖であることも理解しているが、生来の性格はいかんともしがたい。
 昨晩別れの際にも、士郎から内に溜め込む癖を今一度指摘されている。
「桜はがんばりすぎなんだよ。倒れたっていいんだ。そうなったら、俺が引き起こしてやる。その代わりに、俺が寝込んだら桜に世話してもらうからさ」
 これも一種の等価交換だろ。桜は微笑む彼に知れず抱きついていた。
 間桐桜を愛しているといってくれた人、衛宮士郎。彼は悔い悩む桜と一緒になって生きてくれると誓ってくれた人だ。
 内罰傾向の桜にとって、自分以外の誰かに背負うべき物を受け渡す行為は考えられないことだったが、彼だけは特別であった。

―――この人がいるから、わたしは生きてゆける。

 間桐桜は、自分を愛してくれる衛宮士郎を、心から愛していた。


 結局朝食は桜がほとんどを一人で片付けたのだった。その後ライダーと一緒に食器を洗い、続けて遠坂邸の掃除を開始する。
 渡英際に姉が魔術師的な視点から施錠していった部屋を除いても、霊地管理者の砦として造られたこの屋敷は広い。主従一体のコンビネーションを以ってしても午前中清掃してまわることになってしまった。
「おつかれさま。いまお茶を煎れるわね」
「この程度のこと疲れはしません。ですが、お茶は戴きます」
 律儀なライダーの言葉に微笑が漏れる。
 桜が紅茶を用意している間に、ライダーが道具一式を片付ける。
 二人でリビングに陣取り、昼の暖かな日差しを眺める。
 歓談に耽り不意に時計を見ると、正午まで幾ばくもなかった。
 もうすぐ士郎がやって来る。
 そう思うと、桜は急に落ち着きを無くした。
 ランチデリバリーというなんということもないことだが、彼が自分を追って来てくれる。桜にとってはそれがとても嬉しかった。
 気も漫ろに会話が途切れがちになった桜の様子をみて、ライダーが呆れた声で言った。
「どうしたのですかサクラ? やはりまだ魔力が安定していませんか?」
「だ、大丈夫よ。魔力は溢れていないわ」
 ライダーは桜の焦った返事に苦笑した。桜の頭から爪先までを一瞥して魔力の流れを確認すると、小さく息を吐いた。
「体調は問題無いようですね。でしたらよいでしょう。待ち遠しいならコチラから迎えに行ってみますか?」
「そうね。ちょっと先輩の様子を見て……」
 途中まで答えて、桜はライダーが誰を迎えに行くのか明言していないことに気が付いた。
「本当にサクラは、士郎のことばかり考えていますね」
 微苦笑するサーヴァント。
 羞恥を感じて桜の頬に朱が散る。だが、それは一瞬。
 ライダーの笑顔が、冷たさを宿し、美しい髪が白金に変わり、顔立ちは幼く、

―――ホント、サクラってシロウのことばかり考えているのね。

 桜は、今朝方みた夢を、はっきりと思い出した。





 白雪。
 吹雪。
 豪雪。
 間桐桜は、闇の中に舞い飛ぶ猛吹雪の只中に立っていた。
 周囲を見渡しても同じ。どこぞとも知れないモノクロの世界が広がるだけ。
 自らの肢体に目を落としても同じ。素肌に雪はあたりはしても、冷たさも感じない。降り積もることも無い。
 ああ、またここに来たのか。
 保と白む思考の中で、再見だけが感じられた。
 また彼女に会うのだろうか?
 自分の場所と前回の出来事を意識した瞬間。突如吹雪の一部が晴れ、桜の眼前に白い人影が現れる。

「もー、サクラってばにっぶーい! 折角繋げられたのに驚いて閉じちゃうなんてサイッテー! このレイラインの開設に尽力したわたしの貴重な時間と労力に対して謝罪と賠償を要求してやるんだからー!」

 講義の印なのだろうか、白い少女は両手を上げて声を荒げる。
 それは、ごめんなさい。
 桜は素直に頭を下げた。
 しかし少女はそれすらも気に入らないのか、不機嫌な表情を変えようとしない。

「すぐに謝る悪癖はそのままなの? シロウも手緩いわね。いいわ。わたしがじっくりと矯正してあげる、感謝しなさいよね」

 衣類を何一つ纏わぬ真白の肩に掛かる髪を手で払い、少女は居丈高に言い放つ。
 彼女が何を言っているのか周りに吹きすさぶ雪に思考を埋め尽くされている桜には理解できなかった。
 違う。正確には、ただ一つの言葉だけに集中していた。

 シロウ。エミヤシロウ。
 衛宮士郎。士郎。

 一人でいるときに思うのは、いつだって彼のことだった。
 暗く沈んだ自分に日に当たる場所を分けてくれた人。心から思いを寄せる愛しい人。
 彼の顔を見たい。ずっと、ぎゅっと抱きしめていて欲しい。心安らぐ彼の胸に頬を寄せていたい。
 彼に、会いたい。
 無意識に腕を広げた桜。何かを抱き締めるものを探しているかのように、掲げた腕が振れ揺れる。

「あれ、もう起きちゃうの。……まあ、これで足掛りは出来たわけだし。うん。本題は今度にするわね」

 勝手に納得する少女を残して桜は雪の中に倒れこみ、止まぬ吹雪が瞬きの間も置かず桜の姿を埋め消した。


 時計の秒針が一秒を刻む音が聞こえる。
 本来小さな機械音がはっきりと聞こえるほどの、部屋の中は清んでいた。
 目に見えるのは最早見慣れた天井。衛宮邸にある桜の自室だ。
 ベッドに横になっていた体を起こし、間桐桜は霞む思考を正そうと軽く頭を振った。
 今日の出来事を順に思い返してゆく。
 魔力安定のために遠坂邸に泊まった事。霊地による補正効果は十分で、しばらくは安心して過ごせるだろう。
 午前中はライダーと一緒に遠坂邸の清掃に勤しんだ。屋敷の維持は姉との約束であり、桜たちのことで苦労を掛けた彼女への恩返しである。
 それから士郎が持ってきた昼食を三人で食べて、衛宮邸に戻ったところで腹痛を感じた……。
 体調不良を悟られまいとした桜だったが、無理に隠そうとしたのが悪かったのか士郎とライダーに気づかれてしまった。
 特にたいしたこと無い痛みだったのだが、二人の手により強引に寝かされてしまった。どうも最近、あの二人は心配しすぎだ。藤村大河の奔放さを見習えとは言わないが、もう少し桜を信用してくれてもいいような気がする。

 ―――だがそれは単に、本当に間桐桜が信頼できないだけなのではないか?

 入り込んできた黒い思考を、強く頭を振って追い出す。
 士郎とライダーは甚大なる狂気の祭典(聖杯戦争)の只中に置いても桜を信じ、桜を救おうとしたのだ。今更疑うなど意味の無いことだ。
 桜が考えを切り替える間にも時を刻む針の音。時間を読むと、もう夕方だった。案外ゆっくりと眠っていたらしい。
 不調の原因は、蓄積していた疲れが休んだことで溢れ出したのかもしれない。
 仮の結論をつけて、桜は自室のある離れから母屋へと移動した。
 このぐらいの時間なら、あの人はもう既に夕食の準備を始めている頃だ。自らが作れずとも、せめて調理の手伝いをしたい。自然と桜はそう考えていた。
 極一般的な家庭の中に幸せを見出す桜にとって、家事を取り仕切ることはある種幸福である。
 だが、衛宮邸において、家事は争奪するモノなのだった。この家では黙っていても服が洗濯され、部屋は片付けられ、料理が出てくる。逆を言えば、黙っていると何から何まで相方に片付けられてしまうのである。実に恐ろしき家政夫婦……。不精のトラが住み着く原因は、きっと家主とその相方の性根によるところが多いだろう。

 居間の近くまでくると、美味しそうな匂いがした。この分でも既に料理が終っているかもしれない。
 多少の無念を胸に、桜は襖を開いた。
 しかし居間には誰もいない。となれば台所か。そのまま足を進める。
「先輩。お夕飯……」
 料理人に声を掛けようと桜が覗き込んだ台所の隅に、何かがいた。
 それらは狭い隅っこに大きな身体を小器用に丸めて収まり、ぼそぼそと言葉を交わしている。
「けど一体どうしたんだ桜の奴。遠坂の屋敷で休んでもダメだったのか?」
「魔力の方は大丈夫だと思いますが、どうも精神的に不安定な状態になったようです」
 何か心当たりはありますか?
 いいや、さっぱり……。
 魔眼殺し越しに問うてくる視線を受けて、士郎は首を捻る。
「ここ最近トラブルになるようなものは無かったはずだけど」
「ですが、サクラは私たちの要です。彼女の望みも私たちの願いも、聖杯から供給される膨大な魔力によって支えられています」
 人形を身体を操る士郎、存在するだけでも多量の魔力を必要とするライダー。二人とも、本来ならば日常的な活動さえも困難な身の上なのだ。間桐桜からの補助を受けなければ、たちまち身動きすら取れなくなってしまう。
「ああ、解っている。注意するに過ぎたことはないからな。ライダーも気が付いたことがあったらすぐに言ってくれよ」
「了解しています。士郎の方こそ、問題を自分の内側に閉じ込めてしまわぬようにお願いしますね」
 厳しいな。
 士郎には前科がありますから。釘を刺しておかないといけません。
 最後は視線のみで無言。真剣な表情で桜を案じていた二人は、軽く微笑みを浮かべた。
 桜は音を立てないようにそっと後退り、居間に戻る。

 ―――ああ、安心した。

 安堵の息をゆっくりと吐き出し、桜は腰を降ろす。
 掌を重ね強く胸に引き寄せる。涙が溢れそうな目蓋に力を込める。
 士郎とライダーは、本当に心から桜を心配していた。
 今この時、衛宮の屋敷にいる人間の、その内の誰かの望みを適えるためには、誰が欠けることも出来ない。
 家族のために、そして自分のために。
 どちらかが優先されるということはない。二つの願いは密接に絡み合い、一方を押し上げたところで全てを巻き込んで崩れてしまう関係だ。
 桜と一緒にいる。共に生きてゆく。
 桜が望み、二人も願っている生き方。
 そして想いを寄せる人が、自分を見てくれている悦び。
 一瞬でも彼らの信頼を疑った自分を恥じて、それを上回る気持ちよさに酔う。
 暖かな気持ちがじっくりと胸の奥から溢れてくる。
 安堵する。先日不調の原因とも言える気の抜けた安心ではない。
 彼らとならきっと辿り着けると、確信的な想いに身を固める安堵だ。

「桜。起きてきたんだな」
「はい。心配を掛けてすみません。もう大丈夫です」
 しばらくして台所から出てきた士郎に、桜が笑いかける。
 同じく微笑み返した士郎だが、何かに気が付いたのか厳しい顔つきに変わった。
 気分が急転する。士郎の表情に先程までの喜びが反転させられ、不安の一色の染まる。それは一片の光さえない深く暗い闇の中だ。
 怯えた桜がおどおどと、
「どうしたんですか? 先輩」
「桜……。食事の前に顔を洗って来い」

 え?

「目元に痕があるぞ。起きてからすぐにこっちに来ただろう。身だしなみぐらい整えないといけないぞ」

 あ……。

 気が付いた桜が頬に手をやる。
 今さっき零れそうになっていた涙が一筋零れていた。
 桜が眠っていたと思っている士郎はそれが涙とは思っていないようだが、当の桜は涙を悟られた不安以上に、強烈な羞恥心を煽られてしまった。恥ずかしさに顔が真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい。先輩に恥ずかしいところを……。すみません!」
 頭が沸騰して何も考えられず、何度も頭を下げて謝る。
 愛しい人に、誰よりも自分の綺麗なところを見て欲しい人に、見られたくないところを見せてしまった。
 なにをしているんだろうと、頭の片隅にある冷静な思考が呆れる。でも、あざ笑う自分もやっぱり焦りの中の一つあることには変わりなく、なんの打開策も示してくれない。さらに混乱が加速する。
「え、えっと。その……、あっ。洗面所ですね、行ってきます。すぐにいってきます。すみません」
 おろおろとうろたえながらもなんとか行き先を見つけた桜が立ち上がる。
 士郎はそんな仕草の桜をなんともっているのか、先程から続く厳しい顔で一言。
「すぐに謝るのは桜の悪い癖だな」
 血の繋がりは無くとも姉弟といったところか、昼よりは容易に繋がった。

―――すぐに謝る悪癖はそのままなのね。

 桜は反射的にごめんなさいと漏れそうなる口を抑えて、
「これから直していきます」
 見ていてください。
 胸を張って、宣言した。


**


 吹雪は、止んでいた。
 黒く厚い暗雲も空の片隅に纏まっている。首を巡らせば、じりじりと上る朝日が空の色を茜に変えているのが見えた。
 光の中に立つ間桐桜は目の前に立つ少女に視線を戻し、じっと言葉を待っていた。

「巧くいっているのね。一先ずは安心かしら」

 きっとこれからも巧くいきます。私だけじゃないんですから。先輩もライダーも先生も姉さんもいます。だから……。

 大丈夫。一人では適えられない願いだけど、お互いが支えあえば辿り着けないことは無い。
 人は繋がり結びつき、共に生きてゆく。
 これは奇蹟などではなく、悠久に揺蕩う時の流れの中で、長く、そして数え切れないほど多くの人々が紡いできたものだ。
 難しいことは無い。自分達にもきっとできる。

「……ふんっ。なによ、いい顔してるじゃない」

 桜が浮かべて笑顔に中てられたのか、白い少女は顔を背ける。
 少女の顔に一片だけ表れ出た嫉妬を見つけ、桜の胸にもの悲しさが去来する。
 しかし少女は正面から桜に批難を浴びせない。
 なぜなのだろう。
 疑問が巡り、不意に思い出す。
 前に彼から、血縁が無いとしても事件が終ったら彼女と一緒に住もうと考えていたと聞いた。
 親を奪ってしまったその変わりに、ずっと一人だった彼女のために。
 悪癖と解っていても桜は内罰的に考えてしまう。
 自分が彼女の居場所を奪ってしまった、と。
 彼女に対して、幸せとさらにその道行きまでも見つけた自分は、何をして上げられるのだろうか。

 桜の考えを読み取ったのか、少女が眉を顰める。

「わたしがシロウを助けたのは、そうしたかったからよ。それにシロウも言ってたもの。姉は弟を助けるものだってね」

 彼を救ったことを当然の行いだと誇る。
 命さえも厭わずに成し遂げた少女を、桜は実姉への尊敬と似た気持ちで見つめた。
 生きることが辛く死ぬことも怖くて何もせず流されるままだった自分と比べて、どれほど彼女の意思が強いことか。

「やめてよね。わたしはシロウみたいに無茶なことはしないわよ。シロウが約束を守ってサクラの命を助けたから、わたしも約束を守っただけよ」

 誉と言われ照れたのか、少女が再びそっぽを向く。頬は目に見えて赤らんでいた。
 そんな少女の仕草に、桜は親しみを感じる。
 彼女も本質は自分達と変わらない。賞賛されれば悦び、不幸を哀しみ、理不尽に怒る。どこにでもいる少女なのだろう。
 この雪の少女のために何かをしたい。
 桜は、感謝の心から強くそう思った。
 レイラインの念話のみだとしても、こうして彼女と再会できたのだ。これからを決めた自分が、彼女の大恩に報いるとは言わずとも、せめて何か彼女が望むことを還してあげたかった。

「それなら一つだけお願いを聞いてもらえるかしら」

 ええ、わたしにできることなら。
 気張った返事をする桜に、彼女は驚いたような呆れたような微笑をする。

「なんていうか、最初からこれが目的だったのよね」

 そう言う彼女から一つの案が流れ込んでくる。
 渡された思考を一目見て、ああどうして気が付かなかったのだろうと、悔やみの気持ちがこみ上げてきた。
 彼女を救うのに、これほど単純な手はない。それに自分たちならできる。いや自分達にしかできない。
 こんなことが出来るのは、一端とはいえ魂を操る第三魔法を執行可能な聖杯である彼女と、現世に確かな肉体を持つ女である自分だけだ。
 先ごろ腹部に感じていた違和感はこの為の予兆だったのか。それとも本当に全て偶然だったのか。桜は幾つも積み重なった幸運だと思った。きっとこの幸せは優しく美しい雪の少女への贈り物だろう。

「まぁ、最後の決定権は桜にあるんだから、ゆっくり決めなさい」

 素肌の肩に掛かる髪を払う少女に、桜は迷うことなく手を差し伸べた。
 少女は一瞬きょとんとした顔をしたが、桜の手を見ているうちに徐々に理解の色を見せた。最後はいぶかしげな表情で言う。

「随分あっさりと決めたわね。その手の意味をわかって出しているんでしょうね」

 はい。もちろんです。

「本当にいいのかしら? 最初はまだしも十年経てばわたしがシロウを取っちゃうかもしれないわよ。引き返すなら今だけよ。後悔したって現実は変わらないのよ」

 意地の悪い笑顔で少女が脅し文句を口にする。
 でも家族なんだから、やっぱりみんな一緒に居たいです。
 桜は、手を下げない。

「それならいいわ。
 じゃあ頼むわよ。お母さん」

 はい。こちらこそお願いします。イリヤちゃん。

 姿を見せた日が放つ煌びやかな光と、朝日を反射してする雪原の舞台の中で二人は手を繋いだ。
 桜は力を込めて少女を引き寄せた。少女には珍しく驚きの声を上げて桜にもたれかかる。
 倒れそうになった少女を、桜はぎゅっと抱きしめた。少女は抗わず成すがまま、桜の胸に顔を埋めて気持ちよさそうに目を閉じる。
 すると、徐々にではあるが少女の身体が輪郭を薄れさせ、形を崩れさせていった。
 それでも二人は、お互いの身体を離そうとはしなかった。

 桜は天の杯に蓄えられた膨大な魔力の中から、彼女が形を変えたそれをそっと引き出し受け入れる。
 これで彼女も現世に戻れる、しかし、実際に転移できるのは魂のほんのわずかだけ。力や記憶は儀式装置の中に取り残されてしまう。
 大聖杯を閉じたために向こう側に居る彼女の拾い上げられる部分はそれぐらいしかない。
 さらに言えば、この世に魂だけで引き戻しても真に救済とは成りえない。
 収まる器もなく剥き出し魂のままで居ては、宙に放出された魔力同様、即座に拡散し散り消えてしまう。
 だから桜が彼女の魂を引き受ける。己の内にあり、新たな器に彼女の魂を納める。
 命を新たに生みなおし、記憶を一から築くことになるが、それでも生まれ出でる彼女は、雪の少女は新生される。

「あは。サクラってこんなに暖かかったんだ……」

 頬を摺り寄せる少女が安堵に緩む顔で微笑む。
 輝きを増す光が全てを包み、間桐桜とイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの輪郭を曖昧にさせて、徐々に姿を消していった。


 桜は目を開けた。
 早朝、士郎の部屋。
「起こしちゃったか」
「いいえ。もう時間ですから」
 かまいません。
 横で寝ている彼に、桜は身を寄せる。
 直接肌に感じるぬくもりにうっとりと身を任せる。長い髪が巻き込まれないようにと、彼が丁寧に手櫛で梳いてくれるのを感じ、喜びに酔う。
「ねえ先輩……」
 彼は呼びかけに言葉ではなく抱擁で応えてくれた。桜は溶けそうになる心を身体に嵌まり落ちながら、
「まだはっきりとしたわけじゃじゃないですが、体調が悪くなった原因が……」
 半眼で潤みを帯びる瞳。この悦びに恥ずかしさを感じるが、頬を赤らめた桜は言う。
「もしかしたら、その……。赤ちゃんが……」

「………………」

「先輩?」
「いや、その。なんて言えばいいのか解らなくなるくらい嬉しいことってあるんだな」
 桜の告白に、鋼鉄像のように固まった士郎だったが、徐々にその顔が動揺から悦びに変わっていった。
「そうか。うん。赤ちゃんか……」
 噛み締めるように言葉を繰り返し、桜を抱く腕に力を込める。
「お医者さんに行ってきちんと診てもらいますけど、まだそうと決まったわけじゃないかも……。ちょっと、きついです」
 あまりの抱擁の強さに桜が根を上げる。士郎は慌てて力を抜き謝る。
 桜が寝住まいを正している間に、士郎は目を希望に輝かせていた。
 彼が見つめている先には一体何があるのだろうか?
 桜も彼が見ているであろう未来像を考え、嬉しさに微笑む。
 それはきっと、楽しいことも辛いことも悲しいことも嬉しいことも全部混ぜ合わさった、万華鏡のような未来なのだろう。
「先輩。もし、ですよ。赤ちゃんで出来ていたらですけど……」
 今度は桜から腕を廻し士郎に抱きつく。恥ずかしさに赤らむ顔を見られないように、士郎の首元に頬を埋める。
「名前……、考えてあるんです」
「自分でまだ確実じゃないとか言っておいて気が早いな。男の子かも女の子かも解らないのに」
 士郎がもう一度桜の髪をなではじめる。
 桜は唇を士郎の耳元に寄せ、小さな声で、
「産まれてくるのはきっと女の子です。それで、名前は……」


***


Heaven’s Feel True End After

「それで何よ、ライダー。話っていうのは? もしかして吸血のこと」
「いえ、私ではなく。サクラのことなのですが」
「あ、ばれていないって言ってたけど、もしかして桜に勘ぐられている状態なの? それじゃ、口裏合わせやアリバイ工作の相談?」
「それも違います。実は……」
「勿体つけるわね。桜がどうしたの?」
「どうもサクラが……」
「桜が?」


Fin
■後書き


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