桜パート第01話(前半) | |||||||||
作者:
真皓
URL: http://glas-gather.org/
2005年10月23日(日) 23時26分10秒公開
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膠着、緊張状態と云っても差し支えない奇妙な昔日を共にしたかつての友人は、望む、望まないに関わらずただ利用される為だけに喚びだされることとなった。 ボクは高揚し、またキミに逢えるという未来を切望した。 何故ボク達は、主同士が敵対し反目しあう従者にも関わらず確乎とした信頼感を相互に感じることができたのだろうか。 キミは主の謂わば影だった。キミは外見に似合わず誠実で頑固なところがあるから、主を裏切るような真似も考えも決して行うことはなく忠義を全うした。ボクはといえば、ボク自身の影だと云えるけれど、それは決してキミのようなモノじゃあない。ボクは自分自身すら偽り何重にも罠を張り巡らし、その気になれば主すら裏切るんだろうね。 一番近く、一番遠い存在だからこそ、お互いに惹かれ合い、共通性を暗黙の内に是認し合い、そして決して理解できない領域を超えることはなくお互いの関係を保っていた。 けれど一つだけ相反していたことがあった。 キミはボクが羨ましい、と云ったことがあったけど、ボクはキミを羨ましいなどと思ったことはないんだよ、ミスト。 * 朱く刻まれた刻印から全身へとラインが浸透していく。全身へとラインが到達した、と頭で考えるよりも先に身体に限界が来たのかそのままぺたりと前屈みに倒れる。咄嗟に手を突き、呼吸をすることで失われそうになる意識を保った。 奪われる。 奪うことによって、自由を縛ることによって得られる偽者の力。己が召喚した相手はその力によって召喚者の魔力をどこまでも奪い尽くそうとする。それはどこまでも苦渋でしかなく、嗚咽することもできない枯渇。止め処ない魔力の奪い合いが数時間も続けられ、また永遠に続くかと思うほどだった。 苦しい。間桐の魔術を隅々にまで犯され尽くした身体は、食事を求める赤ん坊のように手を伸ばす。水が欲しい。意識の根を周囲へと巡らし探す。既に、無意識の内に魔力の供給源を求めていた。 こんなことしてはいけない。 理解する苦しみと今ある言葉にならない苦しみを天秤にかけるならば、今とそうでない場合を比べれば顕著にその違いはわかる。 きっと今が後者なのだろうと、そしてその天秤は大きく傾いているのだろうと。 生存を求めて触手を伸ばし―― 「――桜、止めよ」 ふと、祖父の声が頭蓋に響いた。 「あ、あ――」 不思議なことに、それまでに感じていた凶暴なほどの飢餓は幻のように掻き消え、緊張していた力が急速に抜けていった。闇に包まれたこの場でただ腕に刻まれた魔術刻印だけが朱く発光している。そしてそれも、輝きを徐々に失っていった。 腕を確かめ身体の異常を確かめるが何もない。腕には、目の前にある闇と自分との関係を示した令呪だけがあった。脇へと置いていたワンピースを手繰り寄せる。僅かに透けた白の布は黒く汚れており、きっとこの汚れは二度と落ちないだろうと思わせた。だからといって素肌を晒し何も纏わないでいるというのも居た堪れなく、仕方なく座ったままするりと布を頭から被せながら着用する。半ば水分を含み湿った布がじわりと肌につき、不快感を催した。もう二度とこのワンピースを使うことはないだろう。 視線をついと上げた。 目の前にいる影はどこまでも寡黙だった。いや、話す機能というものがないのではないか。口も目も鼻も、人体を主張する機能がない。足元に拡がった闇は欲望、悔恨、憎悪それら負の願いを攪拌して一つの願いへと昇華した像を感じさせる。こちらを見据えているような視線だけは感じるが、そこに視線を向けようという気にすらならなかった。 恐ろしいはずだった。それらが形になること事態が象徴の具現化であり、象徴とは絶対悪に他ならなかった。なのに恐怖は一向にやってこない。 何故、誰もが恐怖するであろう存在に対して恐怖を抱けないのか。 自分自身の思考そのものが怖ろしいとばかりに、思考を排除しようと首を振り、思考に蓋をしてこれ以上自分自身の実存に関わる言葉そのものを蚊帳の外へと追い遣った。蛇口を厳重に締めるようにしてある限りの力で封印をする。思考が止まる。今までの思考回路を切り替えよう、と思い視線を向けたその先には、闇に溶け込むように彩られた黒衣で身を包む男がこちらを視ていた。観察していた、に近いのかもしれない。呆然と膝を曲げ座っている自分を品定めでもするように目を細めている。 大仰な仮面を被っている、というのが第一印象だった。口許にあたる部分のデザインが常に道化のような余裕の笑みを象っており、目だけが唯一彼の感情を示している部分になっている。彼の背丈程もある大振りの鎌を、ひゅん、と足元から肩に移動させたその反対側には、一回り小さい姿をした人形と見紛うほどのピエロがいた。それは生きているのか、一回り以上ある彼の肩の上で忙しなく動き回り嗤っている。くすくす、と口の端まで吊り上げたように見える口許が残酷な嘲笑を含んでいるように感じられた。 「これは儂の孫で桜という。アサシンよ、大事な孫じゃからな、ぞんざいな扱いはせずに付き合って欲しい」 臓硯がそう云うと、アサシンと呼ばれたサーヴァントはおどけるように肩を竦め、「ああ、わかっているよ。何にしろ、ボクは自分にとって損になるようなことは絶対にしない。そんな危ない橋を渡るような真似はできないのさ。どちらにせよボクは君たちのような歪んだ者を眺めているのが好きでね。ゾウケンの命とあらば喜んで力になるよ」そう云い、仮面の奥でくくっと喉を鳴らした。 彼はアサシンというサーヴァントなのだ、と心の中で反芻し記憶した。おそらく、この第六回においてサーヴァントが喚ばれたのは、アサシンが初めてなのだろう。令呪の兆しが現れるのには個人差があるが、アサシンは違う。彼は、臓硯が聖杯戦争という前提の決まり事を破棄し喚びだしたイレギュラーな存在なのだ。だからこそどのサーヴァントが喚び出されるよりも先に、目的のものを臓硯は得ていた。 どのような意図があるのかなど知らされる筈もなかった。好々爺を演じてはいるが、彼は存外腹の中で一つ、二つ以上の策を頭の中に置いて先を読み行動する。皺が何重にも刻まれた相貌は感情の機微すら窺わせない。 これはその一つ。 またこれからいくつのものを犠牲にしていくのだろう、と思った事に気付き、そのことに対して軽い諦観を覚えた。絶望していたほうがまだいい、諦めていたほうがまだいい。だというのに、生半可で叶うことの無い希望を切望するからこんなにも喉は渇き、喉が潤される日を求めている。 アサシンは音を立てず影に近寄りながら、 「ミ……――じゃないね、この世界の呼び名を借りてこう云おう」ライダーとね、と、ふっと息を吐いた後に呟いた。 「ライダー……」 彼の言葉を反復するだけの名前が、自然と口を吐いて出た。ライダー、それがサーヴァントの名前だった。 ライダーというクラス名は、前回起こった聖杯戦争のサーヴァントとして与った。慎二はライダーを欲し、また桜もライダーを兄へと託した。彼は常に魔術師というものに憧れ、そして魔術師になることの不可能性に失望していたのだろう。そして始まる陵辱。彼の失望が収まる事は無い。ならば、自分を蹂躙することで彼が喪失した自尊心を少しでも癒すことができるならば、と考えた。同時に、こんな自分に誰かを癒せることなどできるのだろうかという思いが思考の端にあった。 戦争自体に加担することを拒絶した替わりだったのかもしれない。二年前の二月、兄は死亡だけが告げられ、ライダーは跡形もなく消失した。聖杯戦争という流動していく過程で、死んだ。 あのとき自分のために流した涙は、もう二度と訪れないのではないか。 自分勝手で自己満足的な「誰かの望むわたしでいられる」という、自己を形成する要となっていた一人である「兄」は、もういなくなってしまったのだ。 影は黙しながらも、目の前にいるアサシンに対して、微細ではあるが反応しているように見えた。 「まただんまりかい。まあ、いいや。こっちはこっちでしなくてはならないことがあるからね。キミと彼女の処遇はゾウケンに従うよ」 ふふっ、と彼は肩を少しだけ竦めた。 「私は、失敗したのだ」 静かな声だった。口からではなく、全身から。目からではなく全体から。 その声が今まで喋ることもないと思われたサーヴァントであるライダーから発せられたものだと思うまで数秒かかった。アサシンも臓硯も、ライダーへと視線を向け瞠目した。 彼から感じられるのは絶望感だけだった。失ったものに対する悲しみを既に超え、無力感に打ちひしがれる暇すらなく、罪だと厭い後悔する念すら許されないと。 「――失敗」アサシンが鸚鵡返しに反復する。ふぅん、とライダーを一瞥した後、ああ、と声を出して相槌を打った。 「そうだった――ゾウケン、これは話してもいいのかい」 「ふむ、桜も少しばかり困惑しておるようじゃから話してみるがいい」 「そうかい。じゃあ遠慮なくそうさせて貰うよ。ボクのことはアサシンと呼んでくれ、ライダー。どうやらこっちには真名を明かすことは自らの歴史を明かすに等しいようだからね。ああ、これはゾウケンから訊いたことで、真名を喩え知ったとしてもボクたちのことを知ることは不可能らしいから問題ないんだけれど、向こうが混乱するようだから致し方ない。で、本題なんだが、ボクとキミでまたひとつ賭けをしようじゃないか。なに、ヴェルザー様とバーン様が世界を賭けた事と似たようなものさ。聖杯戦争とやらを勝ち得て望むものを得るという法式に則ってここにキミとボクの壮大な賭けをしようじゃないか。そうだな、望むものは――」 復活だよ、と云ったアサシンの目は冥い歓喜に満たされていた。目だけが喜悦の表情を見せ、それが一層不気味さを掻き立てた。 「ま、ボクたちに真名なんてそもそも必要はなかったから、どう呼ぼうと勝手にしてくれと云いたいところだ。キミがこの賭けをどう捉えようと、ボクとしては一向に構わない。どうせキミはそれ以外に選択肢なんてないだろうからね」 そう云い、手に持っていた鎌を弄ぶようにくるくる回していた。ライダーはというと、彼の言葉に返すことも無くその場にただ佇んでいるという風体だ。それはこちらも同じだった。アサシン、ライダーと揃えた間桐は聖杯戦争に臨むという、その事実がどこか遠くの世界で起こっているように感じられる。 彼の云っていることが理解できないのだ。ライダーとアサシンはお互いを知り合っている同士であることは会話の内容からも判る。真名はない、ヴェルザー、バーン、聞いたことのない単語が彼の口から飛び出す。 触媒を必要としない不可解な召喚の儀式は、この目の前の光景を意味しているのだろうか。 桜、と後方から呼び止められる声があった。緩慢な動作でそちらに顔を向ける。 「お前は喚びだすことで疲れたじゃろう。部屋で今日はゆっくり休むがいい。明日から忙しくなるじゃろうからの」 闇を喚び出した自分がそれほど誇らしいのか、嗄声で喉を鳴らし呵呵と臓硯は笑った。ただ、哂っていた。 「何故……ですか」 サーヴァントを喚び出したのは他ならぬ桜だ。そのサーヴァントを制御し統御する令呪を持ち合わせている。しかし以前のように令呪を使用し、権限を彼に移すこともまた可能なのだ。もし聖杯戦争に参加し聖杯を奪取することができたなら、彼は自分の為にしか使わないだろう。こちらが何を犠牲にしていようと、自分を殺し続け死んでいようと、自分のために利用し、奪い、蹂躙し、自分が大切にしていること、人すら奪いつくそうとするのだろう。彼がライダーをどのようにして利用していくかは想像に難くない。 だから、云った。何故、と。 そう反論した気持ちを一蹴するかのように、臓硯は歪んだ顔を更に歪めながら気色ばみ「何故、じゃと」と返した。 「いつからそのように儂に楯突くように偉そうなことを云えるようなものになった。お前はただサーヴァントを喚び出す主に過ぎないことを忘れたか。桜、お前こそ戦うことは本望ではないじゃろう。だからこそ儂がお前の代わりに使ってやろうと云っておるのじゃ。よもや異論はあるまい」 「わかっています……」 「桜」 覚えず身体が撥ねた。この声には聴き覚えがあった。それは過去、暗闇の中で反響し、蹂躙されている最中で繰り返された音だった。慟哭が遥かに遠くから、限りなく近くから、距離感が掴めない声となって響いている。きっとこれは自分自身から発している音。 ギギギ、と心臓が軋む音と共に蟲が蠢く。ギチギチと囀り哄笑する蟲の音が胸の裡から聴こえてくる。 逆らうことなど、間桐桜が生命活動を停止する以外金輪際ないのだと、その蟲は云った。 ――どうしてそんなところにいるんですか、お爺様。 その声の主は、胸の奥深くに潜み、自身の人格を破棄せざるを得ないほどに、一人のヒトを監視し続けている蟲だった。 どういう道程を辿ってあの地下室を抜け出してきたのか覚えていない。 大河への連絡は昨晩の内に友人宅に泊まるということを告げていた為不審には思われないだろうが、半ば放心した状態で昨夜は過ごした。起きたときに全身を蝕む倦怠感に一気に襲われた事で気絶するように再度眠る。そして次に起きたときには昼を過ぎていた。半ば回復したと判断し、漸うとベッドの上から起き上がる。 今日は未だ衛宮家の掃除もしていない、足りなくなった食材も買い集めていない。先ずは買い出しに行こうと思い、外出用の普段着に着替え外に出る。黒く、堅牢そうに見える門はきぃと錆付いた鉄の音を鳴らしながら開いた。路地から商店街へと赴かせるように足をゆったりと動かしながら移動していく。 曇天の空を見上げると、一層寒さを感じ全身を縮込ませる。季節で云えば冬木の町は未だ冬の季節に属しており、風は肌をちりちりと焦がすような冷たさを持っていた。掌を互いに擦り合わせて寒さを凌ぐ。冷え込んだ寒さではないが、明らかに薄いカーディガン一枚ではこの木枯らしの中を闊歩するにはとてもではないが見た目的にも寒い。せめてもう一枚、上着を着てくればよかったのだが。 「――はぁ」 吐いた息は白い水蒸気となって霧散していった。カーディガン一枚羽織っただけの自分が寒そうだと思ったのか通行人は横目でちらちらと通り過ぎては一瞥、もしくはこちらを覗きこんでくるので、途端にこの格好でいるのが恥ずかしくなってきた。さっさと買おう、と心に決め早歩きを決行する。雑踏の中をかき分け、行きつけのスーパーへと足を運ぶ。入った先では、陳列された色とりどりの食材と調味料が出迎えた。その中から目的の食材を選ぶのは一苦労だと思わせられたが、何処の棚に何が並べられているかを熟知している自分にとっては、膨大な書架から目的の書物を抜くような気軽さで、籠の中へと次々に荷物を入れていくことができる。 人数分を買ってさてレジへと直行しようと思ったとき、ふと思い起こすことがあった。 彼が帰途に着く。 自分の、あまりの失念に呆然とした。それまで二人分ということを念頭に置き籠に詰め込んでいたものを、元あった位置へと戻していく。全ての食材をあった位置に戻すのに数分かけ、自分自身は野菜売り場のあった定位置に戻った。 忘れる筈も無い。同居している大河と共に日と指を折りつつ数えていたのだから。 それもその筈で、彼は倫敦へと旅立ってから一度しか戻ってはいない。電話でお互いに会話を交わすこともあったが、それも今日の食事はどうのだの、今度の体育祭はどうのだの、実に他愛もない会話に終始していた。彼と共に倫敦へと旅立った姉が気にかかっていた所為もある。彼と話す大切な思い出は、他の誰にも知られたくなかった。 電話を通した彼の声は、一年の間に少しだけ変声期を迎えたのか低くなり、よく通っていた。 「桜、今度卒業式があるだろ。それよりちょっと早くなるけど、それに合わせて帰国して――その卒業式に出たいんだ。曲がりなりにもそのOBってことになるんだろうしな。それに、卒業を見送るのはやっぱ家族の役目だと思うんだ。バイトの休みはもう届け出したし、あとはそっちに戻るだけになるな。あ、あと遠坂も日本に戻る。うん、よくわからないけど遠坂も卒業式に出たいんだってさ。あいつ、俺の家に泊まりこんだ時があっただろ、そのときのことの謝罪も含めて祝いたいんだってさ。うん、うん、元気そうで良かった。また戻ったら連絡するよ。そうだ、藤ねぇにもよろしくって云っておいてくれ。じゃあ、日本でまた逢おうな、桜」 家族という言葉にちくりと胸が傷む。それは彼の家族でしかないという失望ではなく、彼に家族だと云わせてしまった事に対してだ。家族ならば何故自分はこうして魔術師であることをいつまでも隠しているのか、間桐に関しての因縁を何故彼に語ることが出来ないのか。いっそ全てを明かして楽になりたいという衝動が時折襲う。そして去来する罪悪感は、彼自身の持つ純粋さの対比によって浮き彫りにされる。 闇は闇でしかなく、そして闇は光を呑み込み覆い尽くし、いつかは彼の真直ぐ尖る流麗な切っ先を曲げてしまうだろう。 そんなことは、絶対に許されないのだ。 彼が帰ってくること、それだけでいい、それ以上に望むものなど無い。それも、自分の卒業式のことでわざわざ倫敦から戻ってくる、これ以上嬉しいことなどもう二度と訪れないんじゃないだろうか――そう思えるくらい嬉しかったのだ。 卒業式といってもそれは定型的な儀式に過ぎない。校長先生が祝辞を述べ、卒業生代表が別れの言葉を云い、恒例の、在校生が拍手で迎えながらその中を卒業生はくぐり校門から出るという一連の行動を行う。その最中、堪らず泣き出してしまう人もいれば、泰然として佇む人、友人と数人で喋り別れを惜しんでいる人もいた。 一年前、在校生で士郎を送り出す立場だった桜は彼の同級生が突然嗚咽しだしたのを知っている。それは周囲の友人を巻き込んで号泣へと発展した。それほどにまで、学校生活の彼女は周囲と積極的に関わり合い時に涙して笑いあってきたのだろう。一緒になって彼女を慰めている人が数人いることから、彼女のこれまでの陽の当たった学校生活は容易に想像できた。 太陽を直視しようとしても決して全体を目視することはできず、フィルターを通すことでしか太陽は形を現してはくれない。いつも目の前には、必ず大きなフィルターが何重にも重ねられていた。 その向こうで、周囲に認められた彼女は別れに対して「ありがとう」と告げる。その姿に眩暈がするほどの羨望を感じ、数年後の自分と彼女はきっと重ならない、と半ば冥い確信を抱いた。 そう思い顔を上げると、彼がいた。 彼は、号泣し袂を別ち合う彼女達の様子を見て嬉しそうな顔をしていたが、こちらに気付くなり手を振り名前を呼んだ。多くの人が在る雑踏の中で、こちらを見て声をかけてきた彼は、在校生に渡された花束を腕に抱えこちらへと歩み寄ってきた。自分の名前を呼ぶ声に、こちらも呼んで返す。彼を見送っている自分をそのとき、唯一誇らしく感じた。彼は旧友達とじゃれ合いながら、背中を向け門をくぐって遠ざかっていく。辺りは快哉に包まれ、校内には絶えず紙吹雪が舞い、仄かに薫る櫻の花が静かに地面へと落ちる。最中、その背中に向かってある限り叫んだ。 ――おめでとう。 いつか、そう云ってもらえる日が来るのだろうか。 腕の服を捲りあげ、浮き上がった令呪を今一度視認する。これがある限り――間桐桜が生きている限り、サーヴァントを使役する資格はあっても、彼にそう云って貰える資格はないのかもしれない。 籠を載せたカートを推し進める。できるだけ多くの食材を集めようと思い、食材を見渡し料理の仕上がりを念頭に置きながら金額のことも考慮する。会計を済ませ籠の荷物を重いものから順に袋へと詰め込んでいった。果物類、更に醤油を一つ袋に入れた荷物は片手で持つには重かったため、店員にもう一つの袋を頼み、荷物を二つに分ける。よいしょ、と掛け声を出し自動ドアの外に出ると、肌を刺すような寒さが途端に襲ってきた。 あと数分中で身体を温めたかったが、果物が暖気で暖められる為、早いところ冷蔵庫に仕舞わなければならない。歩く速度を速め、彼が戻るであろう家を目指す。冷気は僅かに湿気を含み、数日後には積雪となるだろうと思わせた。 春は遠く、未だ芽吹きを見せない。 商店街から離れ広場に出ると、鉄橋が遠くから一望できた。土地と土地を河の間に繋ぐ何の変哲も無い橋だが、ここから望める夕焼けは記憶の中にある在りし日のような大きく拡がる朱、ただそれだけを一点して見つめることが出来る。 二車線道路の舗道に入って間もなく、大きな十字路にさしかかる。そこから、密集した家の間隙に衛宮家の屋根が垣間見えた。更にそこを目指すようにして路地を通り、緩やかな勾配に足を掛けた時、違和感を覚えた。丁度衛宮家がある場所から、微弱ながら魔力が感じられる。 「――え」 それも、近付いていくにつれ人の気配が中から感じられるのだ。近いうちに帰ってくる、という言葉が脳裏を過ぎった。思い当たるのは彼しかいない。 「帰って、きたんだ」 思わず駆け足になる。荷物が揺れ、中のものが崩れるのも構わず走った。荷物を両手に携えている為か足取りが覚束ない。息はあがり、胸が上気し、それまでの肌寒さは全て吹き飛んでしまった。 「せんぱい……!」 逢いたかった。どんな顔で彼を迎えよう、何を初めに話せばいいだろうと、想いが次から次へと際限なく湧き出してくる。 気配は門のすぐ向かい合わせから、懐かしく暖かい彼の魔力が僅かに感じられる。先ず呼吸を整える、そして崩壊した後に残った瓦礫のようになってしまっている袋の中を少しだけ整え、玄関の前に立った。 扉一枚に隔てられた向こう側からは、張り詰めた弓のような警戒の念が伝わってくる。 おかしいと思い、首を捻る。この気配は彼の持つものの筈だ。どこかで勘違いしているのだろうか。しかしどのようにその向こう側にある気配を探っても、決して間違えようのない彼の魔力の形しか感じ取ることが出来なかった。ならばこの警戒の念はどこから生まれているのか。 手の甲に刻まれた令呪が鈍い赤色の光を発している。聖杯戦争、と唐突に浮かんだ言葉がそれを確信へと変えた。 「……あ、あれ?」 あまりにも酷い現実だ、と目の前が暗くなる。自分に与えられた少しだけの時間、ささやかな時間は冬の霧の様にして霧散していく。待っていたのはささやかな平穏に過ぎない。なのに、それは聖杯を巡る戦いに巻き込まれることによって、彼は前回のように戦いへと赴いていくに違いない。 そんなのは――嫌だ。 どうして、普通でいられないのだろう。ただの「普通」を願うことすら、間桐桜には分不相応だというのだろうか。そうかもしれない、だからこそ思案する。 彼と暮らしている、ただの後輩である間桐桜に戻れるかを。 突如、がらりと扉が強く開けられたかと思うと、立ち竦んだまま呆然とした情けない顔が彼の前に曝け出された。時間そのものが停止したような錯覚に囚われる。 「せ、先輩」 どうして――と言い掛けた言葉を呑み込み、口を噤んだ。彼が何故帰ってきたのか、ではなく何故警戒していたのかという疑問。しかしそれは自分が魔術師であることを曝け出すようなものだということに云いかけた後で気付き、ぐっと後に続く言葉を心の奥深くに仕舞った。 「どうしてって……もうすぐ桜卒業だろ? 帰ってくるって伝えてなかったっけ」 そう怪訝そうに問う士郎に、訥々と躊躇いがちな口調で「あ、いえ、それは聞いてますけど……」と返答する。 まただ、と桜は思った。云いたいことが云えない。頭はまだ混乱した状態であり、何から切り出して誤魔化そうということで思考が占められていた。 「それより桜、うちの掃除してくれてたんだろ? 藤ねえが自分がやったみたいに自慢げに言ってた」 ありがとう、と云いながら士郎は微笑む。 別の話題に切り替えられ安堵したのも束の間、今度は彼の表情を見たことに顔が火照るのを感じ、ふっと全身の力が抜けた。そうして自然に顔が微笑みを象っているのに気付く。 この一年で彼は成長していた。以前は鼻辺りだった目線が首下にまで下がり、背が頭一つ分高くなっているのが一目でわかる。先ほどまでの警戒の念は既に彼からは感じられない。 「そ、そんなお礼を云われるほどのことじゃないです」 「いや、この無闇に広い家を掃除するの大変だろ。桜のことだから、俺が普段掃除しないような離れとかも掃除してたんじゃないか」 どうしてわかってしまうのだろう。そこまで自分の行動は先読みされてしまっているのか、と項垂れる。それは自分の想いを隠せていると思っていた筈のものが既に知られていた、言い換えるならば、出してもいないラブレターを読まれてしまったかのような心境に陥っていた。 「ほんとに、ありがとな」 ――ああ、いつもの彼だ。 何も変わらない。やはり彼は、一年経っても変わらない。 彼だけは、何者にも替え難い宝物だった。 「……はい」 玄関から上がるよう勧めながら、士郎は、そうだ、と相槌を打ち桜の方を向いた。 「今日も掃除に来てくれたのか」 確かに今日も、土蔵を掃除し数日の間に積もった埃を取り除いた。それは桜が帰宅するまでに士郎が確認したとするならば自明のことだろう。その言葉に引っ掛かるものを感じた。 あの場所には未だ魔方陣が敷衍されてはいるが、それを払拭したという事実がない限り、桜がその存在を知っているということを彼に悟られることはないだろうという確信があった。だから“魔方陣に自分が気付いている”という事実を問われている筈が無い。だとすれば、今日友人宅へ泊まったという事実を大河から聞き、それに対して“今日も掃除をしたのか”と問うているのか。しかし調べればわかることで、桜には昨夜友人宅に泊まったという事実はなくそのような友人もいないことは明白だった。大河はまだ桜の友人関係を詮索している様子は無い為その点は安心できたが、士郎にはいつか猜疑の念を抱かれる不安がある。そうなってしまえば、自分が魔術師であるということが芋蔓式に知られることは時間の問題といえた。 「えっと……そういうわけじゃなくて、ええと……」 訥々と間を繋ごうとするが、彼の顔に僅かな疑念が浮かんだことに内心狼狽え、更に言葉を重ねることで間を保たせる。 「あ、その、ほら、わたしずっと先輩の家でご飯食べてたじゃないですか。だから……その、兄さんもいませんし、ここに来れば藤村先生とか、イリヤちゃんとか来ることが多いから……」 まるで返答になっていないな、と内心自嘲しながらも話題を逸らそうと身振り手振りを交えた。 士郎は頭をくしゃっと掻き「……そっか。じゃ、久しぶりに一緒に作るか。また腕を上げたんだろ、桜」と云い、桜が荷物として持っていた買い物袋をさっと二つとも持ち上げ「調理場へ持っていくな」と更に重ねると、廊下から居間へと向かっていった。 「はい」 そうして、隠し通せた事に安堵する自分を叱責する。 いつまでも隠す事ができたなら、そもそも間桐桜が間桐へと養子に出されなかったとしたら、魔術師の家系ではなく普通の家庭で生まれていたとしたら――止め処ない仮定と在り得ない妄想。それでも願ってしまうのだ。 ――どうすれば、この世界《箱庭》を守れるだろうか。 そればかりが円環の様にぐるぐるととぐろを巻き、頭の中にいつまでも居座っていた。 |
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