桜パート第01話(後半) | |||||||||
作者:
真皓
URL: http://glas-gather.org/
2008年06月07日(土) 10時18分46秒公開
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冷蔵庫から食材を取り出し作業に移る。居間のほうで暢気そうに、鼻歌で何かを歌いながらテレビに集中しているのは大河だ。士郎はその居間を通過し、台所に入るなり冷蔵庫と冷凍庫の在庫を確かめながら顎に手を当て思考するポーズをとっていた。 「先輩、実は」 先に献立を考えていたんです、とそんな様子の士郎に対して申し訳なく思いながら云った。 「む、そうなのか。なら桜の考えた献立で俺も手伝うよ」 「いえ、先輩は帰国してきたばかりで疲れていると思いますし……どうか休んでてください」 「正直あまり疲れてないんだ。まだ今日のうちにしなきゃならないこともあるし、どうせなら桜と一緒に料理を手伝えた方がいい」 彼は近くのハンガーにいつも掛けられているエプロンをするりと引き、手馴れた動作で装着する。料理場の包丁を仕舞っている場所の扉を開きながら士郎は云った。 「それならいいんですが――もし疲れたときは、そう云ってくださいね」 「ああ、わかった。ありがとう」そう云って、包丁を持ち手際よく俎上にあるものを捌いていく。 トントンとリズムよく刻まれていく包丁とまな板の音を聴くと、気持ちが次第に落ち着いてきた。恐らく自分以外の誰か、彼がそこにいて調理をしてくれているからなのだろう。 この一年間、台所で作業し食事を作っていたのは桜一人だけだった。その度に、彼はいないのだということを再認識せざるを得なかった。今後ろで横になっている大河がいなければ、自分など壊れてしまっていたに違いない。誰かが一緒に居るということだけで――それだけで世界は変わってしまう。 いつもの風景だったもの。 それを取り戻すことで自分は自分となる。実はそれだけが間桐桜を構成し定義した、たった一つのものであることを、この隣にいる彼は知る由もないだろう。 お湯が沸騰した時の音と共に湯気が立ち昇る。包丁が小刻みに揺れる音は微睡みさえ与えた。横目で彼の作業を眺めることで改めて彼の背の高さを再認識し、その時の経過を思い知る。同時に、倫敦との距離からは考えられないくらい、彼との距離はほんの数センチにまで縮まっていた。 「桜、お湯沸いてる」 「……は、はいっ」 彼に見惚れていた所為か、どうも周囲への注意を怠っていたようだ。火を止め、ぐらぐらと沸き立つ一触即発寸前のヤカンを離した。 あ、と声を出してしまいそうになる自分を抑える。縮まった距離では、彼の体格、彼の髪、彼の匂いがよくわかる。少年の引き締まり更に鍛えられた腕に浮き出た令呪も、その例外ではなかった。 手の甲に近い部分から、痣のようにも見える痕が浮き出ていた。血は既に拭われ、包帯が巻かれるという手当てがされているようだったが、時間が経つにつれそこから血が服にまで滲み出てきたのだろう。 「先輩、それどうしたんですか」と、手の甲に巻かれた包帯を指差し、あたかも今その包帯に気付いたかのような声で装う。 「え、――あ」士郎は腕を上げ状態を確認すると、しまった、という顔をした。「いや、なんでもない」 「なんでもない、じゃないですよ……血が出てるのがなんでもないんですか。包帯を替えますから、先輩はそこで休んでてください」 「う……」わかった、と云った手前断りきれないのか、士郎は暫く逡巡して「――わかった。あ、でも自分でできるから」と云った矢先に「ダメです」と云ったのが効いたのか、観念したように了承してくれた。 居間の奥にある引き出しから救急箱を取り出し、比較的伸縮性の高い包帯と、留めの為に必要であるテープをその中から取り出した。 士郎は憮然とした表情で座っていた。令呪という、半ば魔術師であることを明かすことに等しいことをこれから見られるのだから、譬え間桐桜が魔術師でなくても内心平常ではいられないだろう。それを見透かすように、躰の内に潜んだ蟲は彼の令呪を確かめることを望んでいた。 包帯を徐々に解いて行く。解かれていく包帯とは逆に、彼の腕は緊張で硬くなっていった。 手の甲にミミズ腫れのような奇怪な模様が浮き出ているのがわかる。拭うなどできない聖痕は、確かに刻み付けられていた。つ、と息を呑む。 「じゃあ、消毒しておきますね」 頭を俯かせながら、彼の腕へメッシュを当てていく。緩慢とした動作で血液を拭き取り、包帯を始めは緩く、途中から締めるようにして巻いていった。テレビの音声はこの間の沈黙を繋ぐようにして流れている。丁寧に巻かれる包帯、緩慢に流れていく時間。手当てをしている間だけ、彼の肌に触れることを許される。 「はい、できました。これからは気をつけてくださいね」 「ああ、わかってる。ありがとう、桜」 調理場に再度戻り、作業を再開した。流しで野菜を洗う自分の横では、彼がポットローフとなるものを煮込むために菜箸でお湯をかき混ぜていた。士郎は流しの横に鎮座させているこしょうと塩を取り出す。もう少しで出来上がる、というところで士郎は唐突に口を開いた。 「桜、気付いた事だけでいいんだが、答えてくれるか」 そう唐突に切り出してきた士郎の眸は、真摯にこちらを見据えていた。 「はい、いいですよ」と微笑んで続きを促す。 「ええと、その――」士郎は歯に物が詰まったように云い澱んでいたが、意を決したように口を開いた。 「ここ最近、町で変わったことはないか」 「変わった事、ですか」 「何でもいい。例えば――この町で何か、二年前のような不可解な事件があったとか」 二年前とは丁度今の時期、第五回聖杯戦争のことを勿論指しているのだということは容易に想像できる。彼のその言葉に反応するように、中の蟲が合唱を始めた。 「桜は覚えてるよな、集団昏睡事件があった丁度二年前のことだ。あの時は桜にとっても辛いことがあった時期だと思うし、思い出させるのさえ正直辛いけれど……あんな事件はもう繰り返したくないんだ」 苦渋に満ちた顔だった。 ――もう二度と繰り返させない、絶対に止めなきゃならない。 看過することもできない事態であると、彼はそう考えているだろうと忖度する。それがどんなに危険で無謀なことであるか、彼はわかっていない。いや、わかっていても彼はそんなことは何事でもないかのようにきっとどこまでも走って行くのだろう。 彼が前回召喚したセイバーもそうだったことを思い出す。彼女もまた彼と同じ“犠牲”という魂の形骸《カタチ》をしていた。己を捧げることで他者を救うという愚直で、しかし途轍もなく綺麗な精神なのだと――そう思ってしまった。 桜にとってのセイバーとは、士郎を聖杯戦争へと巻き込む楔でありながらにして、憧憬の対象だったのだ。 「先輩もしかして、それを止めよう、とか考えてませんか」 「ああ、実は考えてる」 彼の返答は想像した通りのものだった。 「帰ってきたばかりで、こんなのは本当に申し訳ないと思ってる。けどやっぱり自分で確かめたいんだ。だから、今まで桜が過ごしてきた中で異常は感じられないというなら、それでいいんだ」 士郎の真摯な眸を覗き込み、脳裡では“彼を危険から遠ざけ、かつ自分が平穏にこの生活が続くこと”が実現できる方法を模索する。そんなことは不可能なのかもしれない。何故なら、彼はどこまでも疾走していくだろうと再確認したばかりだ。そしてそれを止める権利など自分にありはしない。だから危険から遠ざけるには、何も危険なことはないのだと、何も周囲に異変は起こっていないのだと彼に信じさせる以外に選択肢はなかった。 「何も、変わりはないと思います。先輩が心配するようなことは、全くありませんでした」 「そうか……」 「先輩、どうしたんですか」 「いや」 なんでもない、と士郎はかぶりを振り暫く黙っていたが、胸中に含んだ言葉を口には出さず「じゃあ何もなかったんだな」と確かめるように云った。こくんと強く頷きながら、嘘であることを桜は自覚していた。 士郎は「よかった」と緊張が一つ解けたと安堵の表情で呟く。 変わりはない、などという筈はない。現に、既に少なくとも二体のサーヴァントは召喚され、この町の周辺には聖杯戦争を開始するための大源《マナ》の渦が堆積し始めているのは明白だ。魔術師である彼もまたそのことに気付いているからこそ、こうして確かめているに過ぎない。それは、彼に聖杯戦争に参加するという意志があるためだろう。しかし当然のことながら、彼からは聖杯で何かを為そうとか、私利私欲があるとか、そんな事は微塵にも感じられなかった。 ただ、彼がそう願うから――そう理想《ゆめ》を願うから疾走する。 「先輩は、藤村先生が以前云ったように、やっぱり“正義の味方”に今でもなりたいと思っていますか」 「うん、そうだな」躊躇いや衒いが一切存在しない顔で、士郎は首肯した。 「先輩なら、きっとなれます」 安請け合いのような発言だっただろう。彼の理想の重みも知らず何を云っているのか、と。それでも彼はありがとう、と云ってくれる。それが一層、胸の痛みとなって拡がっていくのが自分でもわかっていた。 ――なってほしくなんかない。どこにも、もう行ってほしくない。 「先輩、このお皿運んでおきますね」 ああ、と士郎は調理場で更に料理し終わったものを盛り付けながら返答した。 これまでの彼の態度を総合しても、彼は聖杯戦争に関わる気なのだと思える。そしてそれは彼自身の危険が更に増すことを示唆していた。こうなった以上、臓硯は手加減なく彼を消すべく行動に移すだろう。 どうしたら、どうしたら、どうしたら――彼は戦いをやめてくれるのか。 調理し終わったものを載せた皿を並べた後、すぐに体調の変化に気付いた。 躰が熱い。 躰中に張り巡らされた蟲が、徐々に自分の魔力を吸い取っているのだと理解した。全身が発火し、熱に溺れる様な痙攣が脳を賦活すると同時に麻痺させていく。 洗面所へと急いで向かった。 「――ぁは、ぁ……」 洗面所に入り扉を閉めた後、ずるり、と膝が崩れ落ちた。腕や足の末梢神経にまで届き、麻痺するように響く胸の痛みが「監視せよ」と絶え間なく告げる。痛みの余り呻き声を出してしまいそうになるが、必死に喉から発声することを抑えた。 大丈夫か、なんて彼に心配させてはならないのだ。 心配そうに彼が云ってきたら、エガオで彼に「なんでもないんですよ」と云わなければならない。「へっちゃらですから」と云わなければならない。 そう祈っていれば、すぐ元通りに、日常に戻るのだから。 大丈夫だ。 大丈夫。 大丈夫、大丈夫。 「なんでも……ないんですよ、へっちゃら、ですから」 ああ、蟲が啼いている。 食べた後の食器を片付けようと思い席を立つ。時計の短い針は八の数字を指していた。士郎の手当てをしていた為か、些か夕食の時間がずれこんでいたらしい。スポンジに洗剤をつけ、丁寧に一枚ずつ隅々まで食器を拭いていく。士郎も自主的に桜の手伝いをしてくれた為意外に早く終わることが出来たが、結局乾燥棚にかけるまで三十分かかってしまった。桜は背中の紐を解き、エプロンを脱いだ。九時――刻々とタイムリミットは近付いている。 「先生」と桜は傍に居る大河に声を掛けた。 彼女は半纏を羽織った上にコタツに潜り、煎餅の袋に手を突っ込みながら口ではぽりぱりとそれを頬張っていた。食べれば食べるだけ太ってしまうため、夜間に食べ過ぎるとあっという間に体重計の針は大きく振れてしまう。夕飯後であるというのによく食べられるものだ、と桜はこの英語を担当する教師をひたすら尊敬した。 「なーに、桜ちゃん。今日は家に帰るの」と、大河は鞄を手に携えた桜を横目で一瞥した後、煎餅をつまんでいく作業を再開する。 「はい」 「ええ、いつもみたいにこっちで泊まっていけばいいのに。士郎もいるし。向こうでは一人なんだろうから、こっちに泊まっても全然構わないのよ」 「はい、ええと、忘れ物があるので」 「忘れ物」 「向こうに置いてある服とか……その」 「ああー、うんうん。そうだよね、お洒落しないとだよね」 間桐邸へと戻る理由は、実のところない。臓硯は戸籍上存在しない為、間桐邸に住んでいるとされるのは、もう桜だけだったのだ。その為、臓硯によって間桐邸に呼ばれる度に、何かと言い訳を用意しなければならなかった。前回は友人宅、今回は服を取りに間桐邸に戻る、ということにしてはいるが、他にいい言葉は思いつかないのだろうか。しかし大河はその言葉を自分なりに解釈したようで、 「じゃあ、今日はこっちで泊まるんだ。そっかそっか」と満足そうな笑みを浮かべた。 「あ……」 こういうのを藪蛇というのだろう。墓穴を掘る、と云ってもいい。衛宮家で泊まるということ事態は願ってもないことだったが、今日に限ってそれを望めない事実があった。昨日サーヴァントを喚んだ後に、臓硯とまた後日話をすることを、抗うことの出来ない先約として結んでしまっていた。だから今日は、衛宮家に泊まることができないのだ。 手荷物だけを大きな鞄の中に纏め、居間に居る士郎に一声かける。 「先輩。今日は向こうの家に用事があるので……明日までに戻れなくなるかもしれませんが、いいですか」 控えめな声で訊ねると、士郎は目を暫し丸くし、その後納得するようにして「うん」と頷いた。 「それは勿論だけど、どれくらい向こうにいるんだ」 「早ければ、明日には戻れると思います」 「そういうことなら、外はもう暗くなってるし送っていくよ」 あ、と声を上げそうになる。彼に、間桐邸を訪れさせるわけにはいかない。臓硯は好機とばかりに彼と顔を付き合わせ、そして自分が知られたくない疵を零し、士郎に今まで隠してきた全てが知られてしまうことも有り得る。 何より、彼には関わって欲しくない。 「いえ、先輩。いいんです、一人で帰れます」 「……でも、やっぱり女の子が夜道で一人っていうのは、俺が心配する」 嬉しいという感情を喚起させる言葉のはずだった。なのにその言葉が尚自分を追い詰め、自分という性質が本来の価値すら失わせる。それがどんなに辛いことか、自覚などしたくはない。 髪は表情を隠す壁であり、過去姉に貰ったリボンはそれを守る砦だった。常にこうして顔色を伺い、そして誰かにその笑顔が偽者ではないと悟られない為に、苦しい思いを楽しさに変換する為に、辛い気持ちが嬉しい気持ちへと変わるようにして無表情から表情を創る。彼の言葉に思わず縋りそうになる自分を抑え、彼の好意を拒絶することで、瓦解と崩壊を塞き止め自分自身を保つしか、自分には残されていなかった。 「ありがとうございます……それでも、一人でいきます」 「そうか――でも、いつでも気にせず戻ってきていいんだからな」 静かに首肯し、玄関へと足を運んだ。 戻る場所がある。戻れば迎えてくれる人が居るという安心感は、暗く澱んだ心を満たしていた。戻る場所というものは自分にはないのだと遠い昔から理解していた筈だったものを、いつしか求めるようになっていった。それが「衛宮士郎」という場所だった。 失われたのは一年前。卒業を契機に、日本へはもう二度と戻らなくなるかもしれないという予感がある。その事実を知りながら、笑顔で見送ることが果たして出来るのだろうか。満たされない感情と、どこまでも堕ちていく躰と、それらによって生じる飢餓。以前は感じなかった枯渇感が徐々に膨らんでいるのを感じる。どこまでも際限なく拡がっていく思考を怖ろしく感じ、転がり落ちていく思考に蓋をした。 それでいい。 靴を履き、玄関の扉を開け外に出た。 考えることはたくさんある。 アサシン、ライダー、確認したサーヴァントはこの二人だ。けれど考えれてみればみるほど可笑しな話だった。この二人はお互いをまるで知り合っている様子で賭けなどと言いながら世間話でもするかのように話をしていたのだ。その後の事は覚えていないが、それだけは鮮明に思い出すことが出来る。 本来サーヴァントは、シンボルがなければ思う通りの結果を得ることは出来ない。それは即ち、シンボル自体がサーヴァントを呼ぶ要であり触媒となることと同義だ。聖杯戦争はサーヴァントの強さが勝敗の鍵を握る。後々得られるであろう結果を考えれば、シンボルを獲得するデメリットには目を瞑るものだろう。臓硯自身、そう考えている筈だ。それとも、シンボルを使用しないメリットのほうが、シンボルを使用するメリットよりも大きかったとでも云うのだろうか。そもそもそれらのメリットがあったとして、何故彼らがお互いを知り合っていたのか。自然な流れとして、生前に親交があった仲であったという可能性がある。その可能性は全くのゼロではない。 それにしても、昨日召喚したライダーは、果たしてこの世界の生物だと云ってもよいものだろうか。暗黒に染まり人という体を為さない躰《全体》からは、絶えず人々の妄執と怨念、怨嗟が聞こえてくるかのようだった。 幻想種だと考えれば…… だがそんな存在を、どうしてシンボルもなく喚び出すことができるだろう。 昨日起こったことを反芻しても、案の定これだけの情報では考えようがなかった。 昨日一日で起こったことを考えながら歩いていると、いつの間にか間桐邸の門の前まで辿りついていた。どうやら此処まで、無意識に歩いてきたらしい。溜息をひとつ吐き、門に手を掛ける。 「キミは、サクラといったね」 突如として耳に届いた鮮明な声が、頭上から響いた。どこかで聞いた覚えのある声なのだが、思い出すことができない。それは頭上に浮かぶ姿によって氷解する。 「ああ、そう警戒することはない。ボクはゾウケンに云われてここにいるだけだからね」 堅牢のように聳える門、その隣の壁の上で彼は月光を背に立っていた。逆光は彼の仮面の光沢をそのまま照らし返している。大樹の陰になっていて、声を掛けられなければ気付かないままだったかもしれない。遠くから見ればよくわかる位置に居るにも関わらず、黒い迷彩がそれをさせない。彼がアサシンたる所以だった。 黒い道化であるアサシンは、大きく手に持った鎌を揺らし云った。 「ゾウケンに用があるんだろう。門は開くよ、入ればいい」 彼は此処でずっと外を見張っていたのだろうかと僅かな疑念が浮かぶものの、云われるがままに門を開け中に入る。入った途端、門は静かに閉じていった。 先ほど考えた疑問をアサシンに聞こう、そう思い再度頭上にいるアサシンに話しかけようとした。 「アサ――」 彼の姿は既になく、枯れ木が風に舞う微かな音と共に、微かな笛の旋律が耳朶を打った。空気を震わせ鳴るその音色は、夜気にして相応しいとも、不釣合いともとれるものだった。呆然とし、暫しその音色に耳を傾けた。 アサシンも、そしてライダーも、決して制御の出来る範疇ではない。臓硯が全てを支配しているからだ。自分は魔力提供と言う出汁に過ぎなかった。心理的陵辱により、臓硯に抵抗する意思は一欠けらも残っていない。 それでも――あるとしたら“彼”に関してだろうか。 扉を開けると噎せ返るような匂いがそこかしこに滞り、空気対流すら起こらず残留した塵が舞っていた。衛宮家の空気を今まで吸ってきた所為か、間桐邸は常に澱んで吐き気さえ催す饐えた匂いだとわかる。衛宮家のような、積極的に日光を取り入れる構造とは違い、ここの構造は陽を積極的に入れないようになっているのだ。 それでも、入らなければならない。 我慢して、耐えて。 いつからそこに居たのか、臓硯は居間の中央で立っていた。 「お爺様、ただ今戻りました」 「桜よ、衛宮の子倅はどうだったかの」 わざとなのだろうか。先ほどの出来事など、まるで知らぬ存ぜぬを通す臓硯は、呵々と哂いながら訊ねてきた。 「令呪はありました。ですが、まだサーヴァントは呼び出していないようです」 当然のことながら、そうじゃったか、とその言葉を予期していたかのように、落ち窪んだ眼窩の中にある黒く濁った目をこちらに向けた。 訊ねなければならないものがある。 「お爺様は彼が聖杯戦争に参加してお爺様に敵対するようでしたら……殺す、つもりなのですか」 気分次第では、こちらが望んだ回答など意に介さず反駁することすらある問いだった。 「そうじゃの、そうなれば致し方あるまい」 「彼を止めます、聖杯戦争に参加することを止めるように仕向けます。ですから、それだけは、止めてください」 嘆願だった。それを臓硯が承諾する事など無いに等しいということはわかっている。それでも、 「わかった――」 思考を強制的に中断させる唐突な言葉に、思わず顔をあげる。 今、何を言ったのか。 「わかった、と云ったのじゃ。衛宮の子倅は聖杯戦争に参加する意思を持っているにも関わらず、未だにサーヴァントを喚びだしていない。ならば、おぬしがその意思を変えて協会に確保させるまで導いてやればよい。おぬしにはちと難しいかの、いや、せざるを得まい」 そこまで云うと、臓硯はおお、と何かを思い出したように相槌を打ち、 「ここに呼び出した理由を失念しておった。いや、おぬしが喚びだしたライダーのことじゃがの。あやつは桜、おぬしに一任する」 「ですが……昨日は、」 戦うことは本望ではないだろう、と云っていたではないか。 「ワシでは、衛宮の子倅がもし動き出したとき、止めることができん。ならば、小僧の傍に居る事が出来、尚すぐにでも動けるおぬしが止めるしかあるまい。ライダーはアサシンと連携を取らせておるから戦力としては十分じゃろう。衛宮の子倅がどうなるかは、桜、お前次第じゃ」 「じゃあ……」 「ワシも可愛い孫の為ならば熟慮して、あらば譲歩もする」 「はい」 「桜、おぬしが自分で選び取れるならそれでいいのじゃろう」 はい、と云いながら臓硯から顔を背ける。望んでいたことを認めてくれた、その筈だ。だというのに、この違和感ともつかない不安は纏わりついたまま正体すら判然としない。それでもサーヴァントを何に使役するかわからない状況よりはまだましだと云える。少なくとも、思い寄らないところで士郎に危害が加えられるということは少なくなるだろう。 その事実に安堵し、胸を撫で下ろす。 恐らく用とはこれのことだったのだろう。要件が済んだとばかりに、臓硯は背を向け居間から離れていく。その場にあった椅子に腰掛けライダーを待つ。古めかしい時計の時を刻む音だけが、時間の経過を感じさせる。一向にライダーが現れる気配はなかった。 「ライダー」 呼びかけてみたものの、やはり返答もない。もしかしたら未だあの場所にいるのかもしれない。だがあの場所へは、自分の意思で行きたいなどと思える筈もなかった。 前回の聖杯戦争の時は、こんな事態になったことなどない。レイラインで繋がれた相互関係は、呼びかけることで互いを認識しあう。魔力供給は向こう側に確実に行き着いているのだから、その部分の機能が不全であるということはないだろう。 溜息を吐く。結局、これでよかったのかもしれない。ライダーがこうして現れなければ、サーヴァントや魔術師というものを知らない間桐桜に戻ることが出来る。 卒業まであと二週間。貴重なこの時間を無碍にするわけにはいかない。 踵を返し、はたと気付いた。用事があると云って出てきたのだから、何も持って帰らなければ不審がられるのは必至だろう。その場で暫し考えて、でてきた案は「夜食を作る材料を買おう」というものだった。太るかもしれない。だが二人ははきっと喜ぶに違いなかった。 外へ出ると、肌寒さを一層痛感した。通りに面したスーパで夜食の材料を買うことにする。最近は夜遅くまで営業しているスーパーも珍しくなく、冷蔵庫の中身に必要な材料がない場合でも即座に買出しに行くことが出来る。おでんなんかどうだろうか。暖かくて春になる前の冷え込みには最適だ。蒟蒻を食べれば、太る心配はあまりない。 冷気に吐く息を白くさせ、ハミングを口ずさんだ。 きっと、先輩が待っている。 舗道の上を早足で歩く。今日の夕方彼が帰ってきた出来事と同じように、彼が待つ家へ帰る。忌憚なく一緒にいられる時間、笑顔が絶えることはなく彼がその家から離れないと誓ってくれる場所を作る事ができれば、他には何もいらないのだ。 それが不可能ならば、間桐桜にもう二度と居場所などない。 すぅ、と冷気を肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。もう、彼の家まではそう遠くない。 そのとき何か視界に映るものを捉えた。 暗闇が方向感覚を失わせるが、音によって大体どこから聞こえたのかは判別できる。音がする方向を見遣ると、数人が集まってどこかへ移動しているのが視え、更に目を凝らして見てみると、そこでは甲冑を着込んだ人間が歩いていた。 ガシャ、と歩くたびに鳴らされる甲冑の摩擦音はあまりにも異質で、どこか異世界に舞い込んでしまったと思わせた。数十体の鎧は同一の動きをしながら同一の方向へと向かっている。暗い空洞のか中を覗き込むとそこには、意思のない、目的のみに邁進する意志が吹き込まれていた。 背筋がまるで巨大な氷を押し付けられたように凍っている。顫える躰は、冷気の所為だけではない。 何故なら、その方角は。 舗道は辿りつく事のない果てない道へと変わり、舗道に整然と並ぶ枯れ木はこの焦燥感をそのまま表しているようだった。心臓は血液をより激しく送り出し、頭の中は混乱の二文字で占められている。 ――なんで、どうして。 甲冑を着込んだ意志は、尚も同様の方角へ向かっている。足が縺れているような感覚、少しも辿りつく気配を見せない景色によって彼らから引き離されていく。次第に一群は見えなくなっていった。 取り敢えず、安否を確認する為にも一度確かめに行かなければならない。覚束ない足取りで、足が顫えるのを抑えながら彼らが向かって行った方角へと足を進める。異質な空間と空気が平常を取り戻しているのと裏腹に、底辺からじわじわと来る不安を払拭することは出来なかった。 衛宮家までの道のりを考えれば、そう遠くはない。路地に出ると、すぐ近くに勾配が見えた。大きな一軒家の屋根が見え、その辺りから、キン、と鋭い音が断続的に響いていた。騒音ではなく、統制のある何かが摩擦し拮抗し合う音だ。 それよりも、屋根の上に見えている影は一体何なのか。口の辺りから吹かれた息、猛吹雪のようにも見えるそれは、家の中へと注ぎ込まれている。その後に響いた呻き声は、紛れも無く彼の声と認識し、買い物袋を放り投げた。だが駆け込もうとした矢先、その足は減速し門の手前で止まった。 行けばいい。動かない足を無理矢理にでも動かして、この蟠りも消して、助けに行けばいい。何故、動けない。 知られてしまう。 魔術師から魔術師へ預けられた子どもが遠坂から間桐という苗字に変わったこと、その日から躰の隅々にまで侵蝕し犯し尽くされた日々を、人間としてすら見てもらえなかった日々を、兄に陵辱され売女だと罵られたことを、それよりも兄というかけがえのない人を傷つけてしまったことを。誰よりも、何よりも大切な彼に知られてしまうことが怖かったのだ。絶望を知っているから、再びそれに出会うことを惧れ動けなくなる。 この後に続いている現実が、絶望という未来を呼ぶのであれば――この場所で永久に佇んでいても構わない。 どうして、こんなにもわたしは醜いのだろう。 心も躰も全て洗い流して何もなかったかのように漂白できれば、こんなところで立ち止まることはなかったかもしれない。ぽっかりと空いた自分の心臓に、黒い影は住み着いて離れない。 「ライダー――」 黒い影は、こちらを見つめていた。 何を云うべきなのか、何を訊ねるべきなのか。ライダーは門に入るものを拒むようにして、路地に面した扉の前で佇み、こちらを見据えている。暗闇に浮かぶ吹雪の光、静かな光を湛え青白く光る月を反射せずどこまでも呑み込む暗黒の姿は、目を凝らさなければ確認できないほどだ。躊躇っていた間の自分を見ていたのか、そこにはどこか哀れむような視線が篭められていた。 「あれが、おまえが従属しているエミヤシロウという人間か」 ライダーが口を開く。揶揄うような口調ではないが、まるでそれが事実であるかのような言い方だった。 「何故、ですか」 従属、何故そのような言葉を使うのか。 それよりも、聞き逃してはならない言葉を見つけた。やはり彼はこの中に居て、ライダーの喚びだした鎧達によって襲われている最中なのだ、と確信する。ガシャと鎧が粉砕される鈍い音が、門の中から外に漏れていた。俯き、その音を聞くまいと耐えるようにしてスカートを掴み唇を咬んだ。ライダーの体がふわりとこちらへ向けられる。 「私は強い者を尊敬する。だが、ただ強い者に執着し甘い汁だけを啜り現実を見ようとはしない者を私が尊敬することはない。おまえはそれに値する者なのか」 「そんな――そんなことは」 ない、などと云えるわけがなかった。それにその言葉は、今ここに居る自分の姿を如実に物語っているのではないか。ライダーは、ふっ、と目を細め、茫洋とした視線で門の中を見つめる。 それは欠落したものへの郷愁と憧憬、と云えるかもしれない。失われたものが再び戻るならばどんな犠牲も厭わないとでもいうような、どこまでも破滅的で、致命的な感情。その表情からは、強い決意があるように見える。暗黒に包まれた存在であるライダーは、恐らくどこまでいっても、人と同じなのだ。 「たとえ、おまえがどれほどの望みを持っていようとも、向こうから賞賛や果報を待っていようとも、おそらく事態は何も改善されないだろう。私には望むものがある。今はこの幸運に与ることにしよう。もう一つ、奴から受けた賭けのこともあるからな」 後、云っておくが。と彼は付け足すように云った。 「アサシン――こちらの世界でそう呼ばれている奴のことだが、奴は信用しないほうが良い。お互い知り合っているとはいえ奴と私は反目し合った身だ。奴は、目的の為ならばおまえの祖父やおまえの友人をも利用していくだろう。これは、私からの忠告だ」 アサシンとは、臓硯がイレギュラーで召喚したあの道化のような格好をしたサーヴァントのことを指しているのだろう。彼にも、そしてライダーにも何れかの望みというものが存在している筈だ。聖杯を求め、サーヴァントとして喚ばれたことを喜び、祝杯を上げるようにして鎬を削りあう。 互いに沈黙が訪れた。 以前のライダーとは違う、ということは召喚した時点で認識していたことだった。前回、数日間だけだったが、あの時のライダーを忘れることは無い。彼女は聖杯戦争という、自分にとっては烈しい嫌悪を抱かせるものの産物だったが、姉が新たに出来たかのように彼女に接し、また同調者として接した。 そして、今回もどこかが酷似しているのかもしれない。 きりり、と心臓が痛んだ。中にいた蟲が蠢動したのは何かの合図だったのか、辺りは白色で塗られた。 突如として光彩が辺り一面を覆う。木々も、路傍に転がる石も、塀も、屋根も、光にただ包まれ茫漠とした視界でしか前を見ることが出来ない。真上を見上げると、夜闇に浮かぶ月だけは変わらずそこにあった。光そのものが莫大な魔力の奔流となって漏洩する。誰の魔力か、などそんなことはわかる筈もない。だというのに、喪われた諦観が全身を支配して動けないで居るのは何故なのか。こんな時ほど嫌な予感は当たるもので、この推測は当たっているのだと経験から識っている。 ただ、もう全ては遅かったのだと、それだけが、現在の思考をただ支配している。何もかも奪い去られ、全ては砂塵のように跡形もなく、何も残らない。 ライダーは門の前に佇み、光の奔流によってその姿を浮き彫りにされていた。門の前へ駆け寄る。恐怖した事実を忘却し、ただ確かめようという一点だけで、門の向こうから垣間見える景色を見た。しかし、それは間違いだったのだ。 一日が走馬灯のように脳裡に蘇る。 戦いから遠ざけることで彼が守れるならば、と傲慢にも願いを抱いた。けれど、ライダーは云った。向こうからの接触を待とうとも事態は何も改善されない、と。それは、自分が何かの為にしていたのだと勘違いをし、実のところ何もしていないのと同じではなかったか。 願うことでしか自分を保てなかった、そうすることしか自分は知らない。そんな半端で不完全な人間が願いを抱こうとも、結局は失敗してしまうのだ。頑張っても耐えても我慢しても、自分には得るものはないのだと脳に声で刻み付けられ、躰には刻印が打たれたのではなかったか。 膨大な光となって漏れ続ける魔力という質量が、形を持ち泡夢の様にして顕現する。 次第に光は収束されていき、その中から現れた一振りの剣を掴んだ手があった。皓々と青白くその光を反射する場所に、その者は降り立つ。音もなくただ彼を見据えた。まるで今産声をあげた赤ん坊のような純粋な眸は、月明かりを反射し輝き、暗闇の中にいながらにして安息を抱かせる青銅の鎧は曇り一つない。 不意に口を開き、その者は何かを彼に尋ねていた。 ただ、耳に届いた言葉、それは楔のようにして胸に打ち込まれる。 「おれはダイ。君の想いに、呼ばれた」 時間は遡行せず、時計を逆廻りにすることはできない。 「問おう。お前は望みのために抗う覚悟はあるか――」 どこか遠い場所から耳朶に反響する音。 その言葉に答える言葉が見つからず、ただその場で立ち竦んでいた。 ―― And We was through with "1st days". <本編第04話に続く> 本編第04話(別スレッド)に移動する |
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