プロローグ
作者: Bamboo Store   2005年08月02日(火) 20時13分32秒公開
 今日はほんの少し時間がない。手際よく進めないと。
 確認するように心の内にそう言って、彼女は手早く野菜とハムを切り分ける。コレで準備ができた。卵とマッシュポテト、ハムとレタス。オニオンスライスと悪戯心の干しぶどう。それらをバターを塗った食パンに挟んで積み上げ、小さめのまな板で押しをする。
 けしてスタートの時間が遅れたのではない。急に思い立ったこの「一仕事」のせいで余裕が無くなったのだ。ならば無理などしなければよいのに空いた時間の無為に耐えられず、気がつけばついつい仕事を増やしてしまう。普段几帳面に自分のやることをきちんきちんと整理しながら進めるこの少女が、何故か台所では興に任せてやりすぎてしまうのは、貧乏性の師匠のせいであろう。時間があまった分だけおかずの品数が増えたり、デザートを作ったり。どうも余裕があると仕事をしないではいられないようなところがあった。
「これで……よし!」
 手元の仕上げは満足な出来だったので、彼女は朝食の配膳に取り掛かった。かりかりに焼いたトーストの隣に牧場直送のこだわりバターを添え、見事に焼き上がった半熟タマゴの目玉焼きと一緒にトレイに載せたところで、背後から声がした。
「桜ちゃん、サラダ、持ってくよー」
 声に彼女――間桐桜は振り返って答えた。
「はい。お願いします。先生」
「まっかせてー」
 笑って手を振る教師・藤村大河。お日様印の安請け合い。意気揚々、なんて形容するのは少々大げさかもしれないが、二人分よりちょっぴり多めのシーザーサラダを盛り上げたサラダボウルを捧げ持って居間に向かう藤村大河の背中は、大漁旗掲げて港に帰る船よろしく晴れやかだった。
「先生。サンドイッチつくったんですけど」
「やったー――あ、でも私はともかく、桜ちゃん。朝からさすがにサンドイッチまでは」
「お弁当用ですっ……というか、その『ともかく』ってどういう意味ですか!」
 午前7時――衛宮家居間。
 洋食か、和食かで多少趣きが違ってくるが、この家の朝は概ねこんな風に始る。親子というには年齢が近いし、だからといって仲の良い姉妹の共同生活というのもややちがう。事実二人は戸籍とか血縁とか、世間一般的にいえばこの家の住人ではない。だから雰囲気的には部活動。合宿中の顧問と主将なんていうのが一番近い。まあ、藤村大河と間桐桜は、ほんとうに弓道部の顧問と主将なのだから当たり前といえば当たり前である。
「先生はカフェオレですよね」
「うん。ミルクてんこもりー」
 はい、と素直な返事をして、桜はトラ柄のマグカップにホットミルクとコーヒーを2:1で注ぐ。コーヒーの香りがミルクの甘い匂いで緩んでまるまって。
 食べる事が大好きな二人にとってとても幸せな朝食が始まった。

 桜が本格的に衛宮家で暮らし始めて、そろそろ一年になる。
 数年前にたった一人の兄を亡くした彼女は、現在、実家の間桐の家と衛宮家を行き来しながら生活している。これは衛宮邸の法的な管理人で桜の担任でもある藤村大河が、教育委員会と市役所の付託を受けて認められてる処置で、桜が高校を卒業するまでという条件だった。桜の実家の間桐家は地元の名士でもあるし、PTAのうるさ方や穂群原の理事会も彼女の境涯を知ってなお否というわけもなかった。
 かくして身の回り荷物一式そろえて衛宮家に引っ越してきた藤村大河の庇護の下、間桐桜の合宿めいた衛宮家での生活が始まった。ま、「庇護」とはいっても生活力の差は歴然としていたので、どっちがどっちの世話をしているかは言うまでない。
「ごちそうさまでしたー」
「はい。おそまつさまでした」
 ぺこりとちゃぶ台を挟んで互いに一礼。むろん机の上の朝食ははじからはじまで、綺麗さっぱり平らげられていた。
「さてー」
 机の上を片付け終えた桜が大河の声に顔を上げると、彼女の担任はカレンダーに「ばってん」を付けているところだった。その数20。数文字あけて花丸つきの三重丸。ばってん印を描き終えた大河は実に満足そうな顔で「うむうむ」とうなずいている。
「……」
 桜もしばし手を止めてカレンダーを見上げる。「桜ちゃんの卒業式」と小さく書かれたその日付。
 でも彼女にとってはそんなことはどうでもよかった。もっと大切なことがあった。黙ってカレンダーの日付を見つめる桜の耳に藤村大河の声が聞こえた。
「もうすぐ士郎が帰ってくるねー」
 衛宮士郎が――倫敦留学中の彼女の『先輩』が帰ってくるのだ。

 藤村大河が、会議のために早出して、桜はひととき衛宮の家に独りになった。
 弓道部では主将まで勤めた彼女だが、その勤めも去年の秋に後輩に譲り、はやばやと名門私立への推薦入学が内定した後は、朝錬に出ることもなくなった。正直大河が家を出た後の一時間足らずは、やることもなくなってもてあまし気味である。
 だからというわけではないが、彼女はその時間をある『場所』の整理整頓に当てていた。
「……よい、しょ」
 と声をかけて、かすかな緊張とともに、桜は古い戸を引いた。
 扉は重い。古いし、たてつけが悪くて蝶番(つがい)も錆びている――それでも、几帳面にこの古い扉が開くのは桜の腕力でも何とかあけられるようにと、家の主(あるじ)が旅立つ前に精一杯の整備をしていってくれたからだった。
「中はがらくたばっかりなんだけどさ。まあ、ほら、邪魔なものがあったらここにいれとけばいいし」
 家の中に閉じた扉があったら気になるだろうという配慮だった。
「ウチになんて来てないで、桜もさ、そろそろ自分の時間を持たなきゃいけないぞ」
 などとは衛宮士郎はけっしていわなかった。兄を失って間桐の家に一人になった桜が、機会を見つけて衛宮家に通う事を、まったくそれまでどおりに黙って受け入れた。同情かもしれない。友人であった兄への義理立てかもしれない。桜の気持ちが少しでも良い方へ向かうならと、先輩としての気遣いをしてくれたのかもしれない。
 本心彼女が望んだ理由でなかったにせよ。それでも
「桜に向かって閉ざす扉はウチにはないよ。ここにいたけりゃ好きなだけ居ていいんだからな」
 とそう言って。
 衛宮士郎は機械油の入った小さな油さしを彼女に渡してくれた。
 古びた小さな油さし。桜の手のひらにぴったり収まるような少し小さめのそれが、数え切れないほど道具箱の中にあった油さしの中から、桜のために彼によって選ばれたたった一つだとわかったのは、衛宮士郎が日本を立って数日後、彼女が数週間ぶりに土蔵の中に入った時の事だった……

 桜は小さく息を吐いて気持ちを切り替え、土蔵の整理整頓をはじめた。
 モノの配置は基本的に変えない。荷物のほこりを払い、隅の塵を掃除する。そして蔵の中の家電製品や暖房器具を拭く。土間床の蔵はいくらでも塵が積もる。高窓から斜めに差す朝の光に細かい塵が舞っているのが見えた。まったくキリがない。
 それでも桜は定められた儀式のように拭き掃除を続ける。修理後も修理前も修理不可能の本当のガラクタまで全部一つ残らず、拭く。まるで整理整頓にも清潔にも意味はなく、掃除という行為そのものにこそ意味があるかのようなそれは、母屋で日常やっているような掃除とは一線を画するもので、むしろ禅における払塵の行のようだった。
 だって――そうでなきゃいけない。この場所は衛宮士郎にとってなにより神聖な場所だったのだ。

 衛宮士郎はこの土蔵で壊れた家電製品を修理していた。頼まれ物もあったし、使えるのに捨てるなんてと義憤に駆られて「保護」してきたものもあった。藤村大河が無理をして壊したものもあって理由は様々だったが、そういうものを修理していた。総じて「勿体無い」と口にはしていたが故障した機械を直すのは士郎にとっても趣味の領域だったようで、ここで作業している士郎は実に楽しそうだった。桜もそんな士郎を見ているのが楽しくて、ちょくちょくここへは着ていた。大抵は夜半の仕事で夕食後には帰宅する桜が作業の場に居合わせたことはそれほどなかった。一度あまりに楽しそうなので「手伝わせて欲しい」と申し出た事があったが「力仕事は男の役目。桜にそんなことをさせるわけにはいかない」と実に古風な理由で断られてしまった。だから夜食を作った。帰る前にお茶とお茶うけをもって訪ねたり、残りご飯でチャーハンを作ってレンジにいれておいたり。とっておきの今川焼きを持っていって、でもあまりに集中していたから入り口脇において帰ったこともあった。
 ここは桜にとっても衛宮士郎の思い出がいっぱい詰まったおもちゃ箱だったのだ――しかし……
「……」
 桜は手を止めて、地面を見下ろす。すると、そこにうっすらと文字のようなものが見えた。
 それは普通の人間には何の意味もないもの。模様でなければ単なる落書き。図形とも漫画ともつかないそれに意味を見出す者は「普通」の世間にはいない。
 間桐桜にはそれが魔術的な目的で描かれた魔法陣であることがわかる。常ならぬ理によって刻まれた「神秘」を理論的に解析できるのだ。
 彼女が望まなくとも事実は常に残酷に開陳される。
 なぜなら、彼女も、これを描いたた者と同じく、常ならざる理を律する者だからである。
 そは常世すべての善を知り常世すべての悪を知る者。神秘の探求者にして行使者。
 事実が示す真実は唯一つ。
 この陣を刻んだのは魔術師と呼ばれる者であり、そして、それを解き明かす間桐桜もまた、魔術師に他ならないということだ。

 桜の実家「間桐」は魔術師の家系だった。 この土地には遠坂と間桐二つの血族があった。元々はマキリといい間桐と名を偽りこの国に根を下ろした。歴史ある魔道の名家。聖杯戦争を開始した三家の一つ――だが土地に合わず、この二百年で血は薄れ、滅びかけていた。
 彼女はその名門復興のために招かれた養子だった。土地に合わずに力を失ったマキリの業を受け継ぐための挿し木として、もっともこの土地に合う木から切り取られて、差し継がれた若木こそが、桜だった。
 だが結局のところそれも悪あがきだったのだろう。マキリが土地に合わぬには何かしら理由があったに違いなく、それを無視して土地に会う若木を枯れかけの外来種に繋いだのだ。矛盾のしわ寄せはすべて若木が背負うことになる。結果、桜は枯れることこそなかったが、ただそれだけの魔術師になった。■■家とマキリの矛盾を幼い体に押し付けられて歪に曲がり、生存することだけに、魔術師であるためだけにその素質をすべてつぎ込まねばならなかった。
 楽天的な目論見の怒りが桜自身に向けられることはなかった。さっするにそれほど勝ち目のある賭けでもなかったのだろう。期待されるわけでもなく、必要とされるわけでもなく。次世代に知識と魔術回路を伝えるためだけの「つなぎ」として、桜は放置された。
 何も知らなかった幼子の頃はただ恐れた。やがて、この夜のからくりと大人たちの思惑を察して己の不幸を嘆いた。知識と技術を身につけて自分の置かれた境遇と避け様のない未来を悟り、絶望した。
 彼女はまったく絶望した。自分の前途には何の救いもないのだと完全に悟った。言われるままに生き、命ぜられるままに生き、存えるままに生きる。死ぬことすら出来ない自分にはもうそんな数十年しかのこされていないのだと思った。ただ、ただ、闇の中を漂うような無限の責め苦だけがあるのが自分の人生なのだと承知していた。
 そんなある日の放課後、彼女は彼に出合った。
 夕焼けで真っ赤な校庭。きれいだけどさびしいそんな風景の中で。
 自分の背より高い、けっして跳べる筈のない高飛びを繰り返していた、少年。
 最初心に浮かんだのは「失敗してしまえ」という呪いに似た思いだった。「諦めてしまえ」とそう思った。日頃の鬱屈が鎌首をもたげて苦しくて、その少年の背中に呪いを吐いた。なるほど少年は一度も成功しなかった。挑戦する度に失敗した。でもけっして諦めもしなかった。失敗しても失敗しても挑み続けた。
 桜はその姿をずっと見つめていた。そしてようやく気づいた。少年にとって挑むものはなんだってよかったのだと。目の前に立ちはだかる何かにただ負けまいと折れまいと意地をはっているのだ。
 ――がんばって……今度こそ跳んで欲しい。
 と、気づけば桜は胸にかばんを抱きしめて、祈るように少年の背中に呼びかけていた。彼が跳んだ所で自分の置かれた境遇には何の変化もない。それでも桜は少年の背中に祈らずにいらなれなかった。そんな風に思えた自分にびっくりしながら、桜は彼が校庭を去るまで、魅入られたように校庭の隅で立ち尽くしていた――そして、それから少し経って。
 めずらしく兄が自宅へ連れてきた友人が、他ならぬ「高飛びの人」だった時、桜の世界は一変した。相変わらず、前途は暗く未来に希望もなく、置かれた境涯は酷烈だったが――でも、光があった。そこに彼がいるだけで心が安らぎ、癒された。心無い兄の仕打ちで板ばさみになりかかって何度か苦しい思いもしたけれど、僅かでもそばにいられればすべて帳消しになった。
 そしてこの家に来るようになって手伝いを始めた。最初は何も出来なかった。どうすれば彼のそばにいられるかそれだけを考えて通い続けているうちに、料理を覚え家事に慣れた。どんなに充実した日々だったろうか。魔術の階梯を上ることに喜びややりがいを感じたことなんてなかったのに、料理のレシピを一つ覚える毎に生まれて初めてといってよい喜びが体中にあふれた。
 幸せだった。
 怖いほどに幸せだった。
 幸せだったのだ。
 たった一つ、他には何も望まなかったのに彼女の「幸せ」は壊れた。
 あの日、彼女が……金色の髪の少女が彼女の前に現れた、その瞬間に。

 桜は、再び暗い表情で床の文様を眺めた。
 不出来といわれようが彼女とてマキリの後継。目下の魔法陣を解析することは可能だ。
 どのような原理で形作られ、何のために描かれ、どのように行使され、そしてその結果、何を「召喚」んだかすら、彼女にはわかった。
 それがわかった時にはいっそ消してしまえばと思った。将来の不安をこれを消し去るだけで一掃することが出来る。ここから招かれたのが「彼女」だったのだとわかった今はなおさらだった。 堅牢ではあってもその術理は基礎の集積の域を出ていなかった。陣を敷いた術者の実力云々ではなく、そもそも他者による妨害を想定していなかったらしい。――だから
 ――この1画を無効化させれば――
 と、衝動的に術式を頭に思い浮かべたこともあった。
 止みがたい、その衝動を、桜は押さえ込んだ。彼女はあの夜の以前も、その後も、ついにその一線を踏み越えることが出来なかった。
 もちろん衛宮士郎に対して自分が魔術師であることを隠したかったこともある。魔術的な処置を施して陣を解体すれば、気づかれる。士郎が気づかなくても気づきそうな人があと二人いる。そのうち一人は今は倫敦だけど、もう一人は郊外とはいえ冬木にいる。桜は衛宮士郎にだけは自分が魔術師であると知られたくなかった。自分のこともマキリの術もしられたくなかった――でも、けっして、それだけではない。
 衛宮士郎にとってここが聖域であるのなら、間桐桜にとってもここは聖域だった。桜は、彼女の『先輩』が愛おしく思うものは何一つ、傷つけたくなかった。
 あの運命の夜に先立つ半年前。――たまたま忘れ物をして取りに来た時、土蔵の方で物音がして様子を見に行って、桜は彼女の『先輩』が夜にどんな修練をしているのか見てしまった。
 それは間桐の魔術師としての桜をして、慄然とせしめる行為だった。
 魔術というのは使うものではなく、体に覚えさせるもの。魔術を行使するつど魔術回路を発現させる必要などない。いや必要がないどころか、刹那の狂いが破滅へと繋がる狂気の振る舞い。
 通常魔術師がその血統の中で技を伝え、幾代もへて組み上げる階梯を、己が命を犠牲(にえ)にして跳躍するが如きその行為。桜にはそれ以上見続けることが出来なかった。怖くて怖くて堪らなかった。
 そして同時に彼女はうちのめされた。
 衛宮士郎は毎晩、自分を殺していた。誰に強制されるのでもなく、かといって自分の為でもないのに、ずっと一人きりで、頑なにその『行』を守ってきたのだ。
 自分には出来ない、と思った。いや、きっとあの遠坂凛にすら不可能。同じことが出来る人なんてきっとこの世にいない。
 一度決めた事を最後まで守り通すその純粋にして強靭な魂(ありかた)。
 まるで鍛え上げられた一振りの剣。
 ここは魔術師・衛宮士郎の工房。彼が命をとして――あれ程の命がけの行を経て、理想を追い求めている場所。今の桜にとってここ以上の聖域などあるはずがなかった。
「……」
 彼が魔術の道を目指すのならそれでもいい。自分の秘密もいつかは知られてしまうかも知れないけれど、その日はできれば一日でも遠くであって欲しかった。だって言えるはずがない。自分はあの人やあの少女のように、自分が魔術師だと誇らしく告げるなんて出来ない。
 それが自覚できるのが、いっそう悔しかった。
「……」
 桜は魔術の世界なんて、知りたくなかった。聖杯戦争のカラクリなんて興味なかった。
 彼が第四回聖杯戦争の参戦者・衛宮切嗣の養子なのだと知りたくなかった。毎夜の命がけの鍛錬をやっているなんて知りたくなかった。聖杯戦争を戦い抜き、最後に生き残って聖杯破壊の決断を下した事など、知りたくなかった。
 衛宮士郎が魔術師でなかったら。間桐桜が魔女でなかったなら。そして、あの煙るような夕焼けの出会いだけが、彼との思い出のすべてであったなら、どんなによかったろうか。
 埒もない夢想だと承知している。
 そんなこと望んでもせん無いことだと承知している。それでも、なお。
 それは、桜にとって思うだけで痛みすらともなうほどに、甘い幻想(ユメ)だった。

「……」
 掃除を終え、桜は立ち上がった。
 おそらく今後二週間は、ここに足を踏み入れる事はないだろうが、それでもいいように作業に一応のケリをつけておいた。見渡した土蔵の中は一つ一つの場所が変わらないまま、きちんと整理されて見苦しくないようになっているはず。これで胸を張ってこの家を『先輩』に返す事が出来る。
 彼女は土蔵の中を見回して一通り確認すると、制服の左袖のカフスをはずし、冬服の袖をひじまで捲り上げた。
 桜の左腕の半ばにはガーゼの包帯が幾重にも巻かれていた。若干血が滲む包帯を解くと――そこにはやけどのような真紅の傷があった。
「……」
 彼女が欲しかったのはなんでもない普通の日常だった。他の所でどんな事があってもかまわない。自分がどんな目にあってもかまわない。でも、ただ、この場所だけは、衛宮の家だけは、平穏で平和であってほしかった。それだけで十分しあわせだった。
 だって自分にはここしかない。暗い闇の中で誰にも必要とされず誰にも期待されず、家族からも厄介者扱いされてきた自分をたった一つ受け入れてくれた場所。――ここに居てもいいよ、といってくれた人。そして――はじめて、そばにいたいと願った人。
 ここだけが自分にとっての幸せだった。
 ここだけなのに。
 でも――この聖痕がそれを許さない。
「……はじまる」
 はじまってしまう。
『聖杯戦争』と呼ばれる大儀礼。
 七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦。
 黒の呪いに満たされた闇の聖杯を召喚する儀式が。
 ――はじまる。
 桜は目を閉じ、深く息を吸い、吐いた。
 ずきん。と、胸の奥で一打ち、痛みを伴った黒い鼓動が踊る。
 言葉なんて必要なく、桜はその一撃の意図を悟る。
「わかっています」
 重い声でつぶやく様に、桜は言った。
「承知しております。お爺様――今夜、必ず」
 そう言って桜は奥歯をかみ締めた。何もいらない。自分には他には何も必要ない。この家と、この家で過ごす時間だけあれば、他には何もいらない。他には、何も、いらない。

 それだけ守れたなら、後はどうなっても、いい。



 衛宮家からの帰宅後、桜は祖父の言いつけ通りシャワーを浴びた。
「……」
 体の表面を流れ落ちてゆく水滴が、熱湯なのか冷水なのかわからない。
 感覚がなくなったのではない。彼女の体は健康そのもの――それはもう忌々しいほどに頑健。おそらく自分が壊れるとしたら、肉体ではなく精神なのだろうと確信が持てるほどだ。
 だから、麻痺しているのは心のほう。体に降りかかるものが熱かろうが冷たかろうが、いや、それが不快感や痛みであっても、その心は、とうの昔に皮膚が伝える情報を受け付けなくなっている。
 そうでなくては生きてこれなかった。そうならなければ生きてこれなかった。
「……」
 顔を上げて正面の姿見に写った自分の姿を見ると、暗い色の髪の娘が陰気な顔でこっちをみていた。桜はこの娘が嫌いだった。憎んだ事さえある。今はそうでもない。どうでもよくなっていた。そこにあるのは背後の風呂場の様子と何ら変わることない風景の一部にすぎない。
 桜は元栓を閉じて、儀式めいたシャワーを終えた。気休めにもならない。彼女の穢れは長い年月をかけてこの身のうちに染み込んだモノだから、今更、いくらシャワーを浴びたところできれいになるはずもない。
 そして見てくれの問題なら、これから行く場所には――マキリの地下室では尚更、意味もない。 
 だから湯浴みには形式以上の意味はない。が、それでも彼女は命令通り着替えた。服は裾の長い真っ白いワンピース。白という色に別に意味はない。汚れれば黒くなり、怪我をすれば赤く染まる。生け贄のコンディションを知るのにこれほど合理的な色はない。古来生け贄が清められて白を纏うのはそういうことだろう。
 生け贄? 生け贄ならまだ、いい。汚れることもないし、一度で終わる。
 自分は生け贄ですらない。生け贄になる価値もない。
「……」
 彼女は頭を振って、底へ底へと沈む感情をリセットした。
 いつもと違う儀式に臨むせいだろうか? ついぞ思ったことのない事ばかり、今夜に限って凍ったココロの表層に浮かぶ。
 どうしたのだろう? 
 何度となく降りた階段なのに。いつものように心を止めてしまえばいいのに。今日に限ってうまくゆかない。いつも通り、考えることをやめてしまうのだ。
 そう。止めてしまえばいい――でないと、後で辛い。
 後で……辛い。
 先輩を起こしに行った時に笑えなくなる。料理をしている時にハミングが出来なくなる。ご飯を食べる時にわらえなくなる。何より先輩を心配させてしまう。
「どうした?――調子、悪いのか?」
 そう問いかけられた時に笑えないと。そう問いかけられないように笑えないと。
 内気だけど、元気な後輩。笑える間桐桜でなければいけない。
 だから、辛い。一人でいる時はどんな顔をしてたっていいけれど、衛宮の家にいる時は――先輩のそばにいる時は笑っていなくちゃいけない。笑顔でいたい。元気でいたい。よい子でいたい。
「……れ」
 その為なら頑張れる。
 心を止める。
 自分にはそれが出来る。
「……まれ」
 切り離す。ここにいる自分は間桐桜ではない。
 先輩の、後輩ではない。
 切り離す。
 魔術を、マキリのサクラを。
 この穢れた蟲の夜もろとも、切り離す。
「……とまれ」
 あの一日を、あのひとときを、あの一瞬を、あの刹那を。
 ただ、守るために。
 ただ、それだけのために、間桐桜はこの扉を開く。
 聖杯戦争――その第六回。自分が勝って終わればよい。
 誰にも気づかせず、誰にも悟らせず。倫敦にいる先輩が帰ってくる前に終わらせる。終わらせて、あの家で間桐桜として先輩を待つ。
 そのために――そのためなら、自分はマキリのサクラになれる。
 だから彼女は胸にうちで密かに自分だけの呪文をとなうのだ。
「心よ――とまれ」
 とまれ。わたしの心――
 そうして――彼女は腐臭に満ちた闇に立つ。
 魔法陣の必要はない。この地下室こそはマキリの陣にして檻。そして彼女こそが最後の部品。
 理不尽でもない。外道でもない。マキリの魔術とはそういうモノ。否。そも、魔術などというモノはなべてそのようなものだ。
 闇と影を統べるマキリの業は、彼女の絶望と虚無を以て完結する。

 サーヴァントを呼び出すこと自体は簡単な事だ。令呪の兆しがあるのだから、今すぐに呼び出して契約できる。
 ただし、彼女には英霊との“縁”を示す品物がない。必要ないのだと、彼女の祖父がいった。
 サーヴァントとなるべき英雄の魂は「シンボル」によって引き寄せられる。シンボルとはその英霊の生涯を象徴するもの。たとえばが生前所持していた武具・紋章。あるいはもっとストレートに本人の遺体(骨とか髪)などだ。強力なサーヴァントを呼び出したいのなら、そのサーヴァントに縁のあるモノが必要なのだがそれが、それが「必要ない」とはどういうことだろう?
 その理由が彼女にはわからない。
 胸の奥の灰汁に似た苦い息をため息とともにはき出す。
 やめよう――疑問を持てばせっかく止めた心が揺らぐ。
「……」
 小さく吐息して、彼女は胸元に手をやり、襟元の結び目を解いた。
 しゅ――と、絹のリボンが解ける音。首周りの緩やかな拘束感が霧散する。深い切れ込みのある襟首は左右に分かれる。
 肩口から袖へはたっぷりと余裕があって、両手を下へ垂らしただけでさしたる抵抗もなく、ワンピースは下に落ちて散った花弁のように足の周りに山になった。
 その山を踏み越えて、桜は闇の中へ一歩踏み出した。
 夜目にも鮮やかな真っ白い裸身。
 なめらかなくるぶし。適度な運動によって鍛えられたふくらはぎ。豊かに張り出した腰と丸みを帯びた尻。顎をあげて突き出すようにしている乳房は量感にあふれながら寸分の狂いもなく女神の曲線を描く。一点のしみさえ許さぬ十代の肌はどこまでも柔らかでありながら、内に若い肉を秘めて、押した指先を跳ね返すように張りつめている。
 成熟と若さ。充実と頂点。つぼみの清楚と綻んだ花の淫靡さの天秤の上に成り立つ、危うい均衡。
 衛宮士郎が倫敦に去って一年。間桐桜の体は彼の知らぬ一年で完全に熟していた。

「――Anfang(セット)」

 白いうてなが闇を招く。
 体の神経を残らずめくり返して、肉の内に眠る魔術回路へと切り替える。彼女はただ一言の呪文をスイッチにして悪夢を実現するための機械、マキリの魔術師『サクラ』になる。
 不浄の暗室がうなりをあげる。魔術刻印が起動する。

 静かに高まり行く気勢。張り詰める空気。世界が共鳴しているかのような心地よい旋律。
 そして、耐えがたい、痛みと違和感と喪失感。

「――――――――告げる

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ

 誓いを此処に。
 我は常世総てに縛めを成す者、
 我は常世総ての戒めを破する者。
 汝三大の言霊を纏う七天、
 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!」

 瞬間――ごそり。と、胸をえぐられたような衝撃がきた。
 無論、幻覚。幻の痛み如きに桜は動じはしない。そんな生半可な人生が歩いてきていない。
 だいたいかすかな痛みもない、出血の気配もない。そこに顕現したのは、まるで最初からそこに何もなかったかのような、感覚。それは、喪失感でなく、欠落感の再認識だった。
 痛みもなく苦しみもなく、ただ薬物中毒のフラッシュバックのような酩酊感と吐き気。
 誓ってそんな経験はなかったし、半端な薬物など効かない体だったから、それは桜の知識から演繹された夢想にすぎない。しかし、それが堅牢きわまりない彼女をして、真実そうに違いないと思うほどそれは病的で衝撃的だった。

 ジグソーパズルのように壊れた走馬燈が逆回りを始める。

 ――兄の葬儀。
 ただ一人で送るつもりだった桜のそばに、一晩中、黙って座っていてくれた彼。
 
 ――あの夜。
 家にまでついて来た遠坂凛を制して、士郎が桜に卒業後ロンドンへ留学しようと思うのだと告げた。瞬間頭の中が真っ白になって、その後の事は何も覚えていない。

 ――卒業式の朝。
 いつもより早く訪れた彼女を、衛宮士郎が庭で待っていた。降りしきる花びらの下で
「行ってくるよ。桜にはちゃんといわなきゃって思ってた」
と彼が言ったので、
「わたし、大丈夫です 先輩」
とその時に自分が出来る精一杯の笑顔で答えた。

 ――留守宅。
 主のいない衛宮の家。掃除をしながら柱の掛け時計を見上げた――さっきから5分しか経っていない。待つ時間は長くて。寂しくて切なくて。叫び声を上げそうになって、堪えたら涙があふれた。

 思い出が胸に開いた穴に吸い込まれる。そんな幻視。

 ――あ。

 壊れる。失われる。守っていた場所が崩壊する。繕っていた箇所が綻ぶ。
 後には虚無――耐え難い程の虚無感――否。飢餓感。

 飢えるが故に飢え、乾くが故に乾く。望むモノは手にしたと同時に砂と化す死海のリンゴ。彼らは何も手に入れられない。絶対に! 何一つ! それでも飢える。それでも乾く。足らぬとわかってなお喰らい。満たされぬとわかってなお呑む。そして、癒されぬとわかって、手を求める。

 そんなこと、わかっている。

 けっして満足できないとわかっている。
 自分のものになるものなど何一つないとわかっている。
 わかってる。
 それでもなお、自分は喰らい続けるしかないのだと、わかってる。
 なのに……自分に向けられた、その不器用な笑顔にかすかな光をみてしまった。
 たった一滴。あまりに甘いそのひとしずく。
「あ……」
 そうだったのか、と、彼女は今にして悟った。
 すべてはあの日に始まっていた。
 あの日、兄が彼を家に連れてきたその瞬間から、この飢餓の地獄は始まっていたのだと。

 気がつけば、彼女は床に崩れ落ちていた。
 萎えた両手に力を込めて、伏した体を起こし、前を見る。
 すでに儀式は終わっていて、前には闇だけがあった。
 そう――彼女の前には完全き闇のみが、あった。

 音はなかった。
 黒い影が垂れ込めた。桜には姿が見えなかった。闇に溶け、闇にしかいない生物がそこにはいた。



「……すばらしい」

 密やかな、しかし堪えきれずに漏れた笑い声が闇に漂う。
 マキリの魔窟の闇の中、間桐臓硯は静かに孫娘の召喚を見守っている。その後ろには、すでにサーヴァントが存在していた。全身を黒く染めた、ピエロのような存在――アサシン。己のことを、道化師と名乗る存在だった。

「ボクの言った通りだったろう? キミのかわいいあの子は実に素晴らしいよ。我が主、ゾウケン!」

 珍しく、なんの掛け値もなしの賛嘆とともに、その“アサシン”が言った。

「あのコの属性は“虚数”……だっけ? なるほど虚のシンボルは影。存在するモノの証であると同時に、存在し得ないモノの啓示! 混じりけなしの虚無……キミのあのコはね。魂の相似をもって最高の『影』を呼び寄せたんだ!」

 才ある身なるが故に才を断ち切られ、縁ある身なるが故に縁を断ち切られてきたモノ。
 その生まれを呪われ、その生涯を疎まれ、その死を忌み嫌われてきたモノ。
 忠実なる影。魂を御し肉体を支配する、実体なき『御者』。

「ようこそ。楽園のような地獄へ。キミと再会できるとはねえ! ああ、大丈夫」

 炎の様に揺らめく『旧友』をなだめるように、仮面の道化は両手を広げた。

「安心しなよ。ここはあっちに負けないほど、救いがたい『世界』だよ」


※この作品に関連するお話
   □ Fate×ダイの大冒険/Fate of Dragons(本編) 傾:シリアス   最終更新:[2007年10月27日(土) 00時25分04秒]
    ■ プロローグ   最終更新:[2005年08月02日(火) 20時13分32秒]
    □ 第01話   最終更新:[2005年08月11日(木) 23時41分07秒]
    □ 第02話   最終更新:[2005年08月20日(土) 22時51分33秒]
    □ 第03話(前半)   最終更新:[2005年10月02日(日) 23時55分11秒]
    □ 第03話(後半)   最終更新:[2008年06月07日(土) 10時17分57秒]
    □ 第04話   最終更新:[2005年11月06日(日) 23時15分05秒]
    □ 第05話(前半)   最終更新:[2005年11月13日(日) 21時38分14秒]
    □ 第05話(後半)   最終更新:[2007年12月04日(火) 01時33分42秒]
    □ 第06話   最終更新:[2006年01月16日(月) 23時42分01秒]
    □ 第07話(前半)   最終更新:[2007年03月18日(日) 20時42分58秒]
    □ 第07話(後半)   最終更新:[2007年04月15日(日) 22時13分57秒]
    □ 第08話   最終更新:[2007年05月12日(土) 00時06分33秒]
    □ 第09話(前半)   最終更新:[2007年10月06日(土) 22時09分16秒]
    □ 第09話(後半)   最終更新:[2007年10月27日(土) 01時12分38秒]

■後書き


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