第04話 | |||||||||||||||||||||||||||||||
作者:
真
URL: http://www.h2.dion.ne.jp/~fog/
2005年11月06日(日) 23時15分05秒公開
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白い薄闇が周囲に満ちていた。 森の端から中心部にある古城へと続く獣道のおよそ中程。乱立する木々の中におよそ小さな屋敷一つ分ほどの広場が開けている。 夜明け前の冷え込みの為か、地面から立ち昇る水蒸気が白い靄となって辺りを覆っていた。 「イリヤ、寒くない?」 傍らからの侍女の声に、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは大丈夫よと軽く頷いた。 寒くなどない。その小さき身には魔力が凝り、熱持たぬ焔と化して周囲の冷気からその身を守っている。 足元に目をやれば赤い染料で描かれた紋様が地面に広がっていた。もしもこの場に遠坂凛や間桐桜がいたならばそれを見て驚きに顔を歪めたかも知れぬ。書かれたる呪句、あるいは印形に差異こそあれども、それは使い魔の召還に使用される魔法陣に間違いはなかった。 イリヤが自らの左手に浮かんだ令呪の兆しに気が付いたのは数日前のことである。いやそれは正確ではない。彼女はそれが令呪であると言うことに気が付いてなどいなかった。彼女にとっての令呪とは顔と言わず手と言わず体全身を覆うモノである。どこかで傷をつけたのだろうくらいにしか思ってはいなかったのだ。だがそれにしても季節は未だ冬である。春が近いとは言え気温は低い。入浴時以外は長袖の服を着ている自分が、一体どこでこのような傷をつけたのか。 首を傾げながらも侍女であるセラとリーゼリットに傷を見せて手当てを頼むと、二人は申し合わせたように顔を強張らせた。 『……イリヤさま、これは令呪の兆しです』 感情を交えぬセラの言葉に呼吸が止まる。 それはすなわち、再びあの戦争が始まると言う事を示している。 早すぎる、とは言えない。本来は六十年周期であった筈の儀式ではあるが前々回から前回までが十年しか経っていない。しかもそのどちらも聖杯に溜まった魔力は使われず飽和状態のままなのである。ならば二年足らずで次の儀式が始まってもおかしくはない。 頭では知っていた、理解していた。だが、まさか本当にそれが起こるなどとは思ってもいなかった。 『どうするの、イリヤ』 リーゼリットの問いに唇を噛む。 取るべき道は多くはない。 一つは令呪を放棄すること。教会に駆け込み、監督役に願い出ればそれだけでいい。 一つは英霊を召還すること。マスターとして参戦し、他の魔術師と殺しあうこと。 背筋からこみ上げる震えに、思わず自分の肩を抱いた。 昔は、二年前はこんな風ではなかった。狂戦士のマスターとして選ばれ、苦痛の中で過ごした日々の中でも一度として恐怖を感じた事はなかった。 なぜなら自分には何も無かったのだから。 キリツグに捨てられ、アインツベルンには道具として扱われた自分には、失って惜しいものなど何も無かったのだから。 なのに、何故だろう。 あれから二年。 僅か二年の暮らしが、自分を変えた。変えてしまった。 今の彼女には失いたくないモノが多すぎる。 家門を離れる自分に従ってこの地に残ってくれたセラとリーゼリット。いつも迷惑ばかりかけて、でも憎みきれない大河。無愛想だけど実は子供好きの雷画。ずっと気付かない振りをしてくれている桜。 そして今は遠く海を離れた場所にいる―――――――― 暫しの沈黙の後、ゆっくりとイリヤが瞳を開いた。 『セラ、リーゼリット』 静かに二人の侍女の名を呼ぶ。そこにいるのはもはやただの少女ではなかった。かつての戦争において魔道の名門が必勝を期して送り出した最強のマスターがそこにいた。 『いいのですね、イリヤさま』 問いかけに沈黙を持って答える。 彼女がただの魔術師ならば、望まぬままに巻き込まれた儀式から逃げ出すことも考えたであろう。だが彼女はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。聖杯として育て上げられ、鍛え上げられた生きた魔道具だった。 例え令呪を放棄したとしても、その身が聖杯であることには違いは無い。七騎の英霊が座へと帰還したならば、この身は否応無く願望機の一部となろう。 もはや自分は助からぬ。 前回のような奇跡は起こらぬ。 士郎と凛は海を隔てた外国にいる。桜の卒業式には帰ってくるとは言っていたけれど、聖杯戦争に間に合うかどうかは解からない。 自分は遠からず聖杯となってこの地に果てることだろう。 ならばそれもいいだろう。もとより自分の寿命が残り少ないことなど知っていた。 極論すれば、自分の未来など二つしかない。 逃げ回り、令呪を放棄して、脅えながらいつか来る死を待つか。 英霊を召還し、この街を守り、戦いながら生を駆け抜けるか。 死ぬのは恐ろしい。だがそれが避け得ぬ運命なのならば、せめて笑って死んでやろう。 夢の時間はもう終り。ここから先にあるのは現実だけ。 大河が、桜が、士郎が、皆が愛してくれたイリヤスフィールはもういない。ここにいるのは聖杯戦争で勝利する為だけに作られた魔術使いの人造人間。 さぁ、全ての想いを捨て去ろう。 さぁ、全ての喜びを忘れ去ろう。 あの冬の森で、全てを呪い続けたあの頃に戻ろう。 世界の全てが敵だったあの頃を思い出そう。 欲しかったモノは既に得た。還る家を、迎えてくれる笑顔を、抱きしめてくれる両手を手に入れた。 だからそれを守る為に、その全てに別れを告げよう。 知らず笑みが頬に浮かぶ。 『イリヤ、キリツグに似てる』 ぼそり、とリーゼリットが呟く。死を前にしてなお笑うその笑顔。それはかつて第四回聖杯戦争に赴いた衛宮切嗣が、愛娘との最期の別れに浮かべた表情に生き写しであった。 セラも頷き、深々と頭を垂れる。二人の侍女の頬にも誇らしげな笑みが浮かんだ。それでこそ我が主人。聖杯戦争最強のマスターにして、魔術使い衛宮切嗣が娘、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン――――――――! 三人がかりで森の中に魔法陣を描き、召還の準備を整える。 最強のマスターが従えるのは最強の英霊を置いて他になし。 だが触媒を持たざるモノが目当ての英霊を呼ぶことなど不可能である。前回の召還にて触媒となった岩の剣は持ち主と運命を共にした。今からかの大英雄所縁の品を用意することなど出来よう筈もない。 その代用に選ばれたのが森の中の広場であった。 かつて神の子が滅んだ場所で、滅んだ時間に召還を行うことで大英雄ヘラクレスを召還しようとしたのである。 「そろそろお時間です」 時刻を告げる侍女の声に一歩を踏み出し、息を整える。 英霊に与えられるクラスは七つ。 イレギュラークラスを除けば、ヘラクレスが成りうるクラスは五つ。魔術が使えぬ故にキャスターにはなれず、アサシンは本来別の英霊の為のクラスである。 拭いきれぬ恐怖と抑えきれぬ期待が背筋を走る。 ――――そう、ヘラクレスが成れるクラスは、五つもあるのだ。 召還に応じたヘラクレスがバーサーカーならば良い。理性を持たぬ、記憶を持たぬ巨人とならば自分は上手くやっていけるだろう。 だがそれ以外の四つだったのならば? セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー。 英霊は前の召還の際の記憶を持たぬ。ならばヘラクレスがイリヤを憶えている筈はない。 彼は初めて見る相手のように自分を見て、そして名を尋ねるのだろう。 胸の奥が軋む。 もう、あの日々は帰ってこない。 森の中で、わたしのバーサーカーと過ごした二人だけの日々はもう帰ってこないのだ。 “……そうだ。やりなおしなんか、できない。 死者は蘇らない。起きた事は戻せない。そんなおかしな望みなんて、持てない” ああ、その通りだね、シロウ。 もう一度やり直そうなんて、そんな望みは持ってはいけない。 アーチャーはリンやセイバーを守るために、バーサーカーはわたしを守るために戦った。 だからもう一度彼らに会おうなんてことは心の贅肉。 彼らの誇りを汚すモノ。 「――――――――告げる!」 だから、そんなことは望めない。 わたしがバーサーカーのマスターで在る為に、キリツグの娘で在る為に、アーチャーの で在る為に。 だから、わたしは受け入れる。 もしも召還されるのがわたしのバーサーカーでなくても、知らない人を見る目でわたしを見ても。 「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」 二年も過ぎてしまったけれど、あの日に言えなかった言葉をあなたに告げる。 わたしの大切な使い魔、わたしの最初の友達。わたしだけの大英雄に。 「誓いを此処に。 我は常世総てに縛めを成す者、 我は常世総ての戒めを破する者」 ――――さよなら、バーサーカー。 「汝三大の言霊を纏う七天、 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!」 朝靄の中を一筋の光が切り裂く。 黄金色の夜明けに、あの日に見た聖剣の輝きが浮かんで消えた。 それは人が生み出した奇跡。 愛する少女の為に一人の少年が生み出した約束の剣。 それは、 竜の子の為に、 生み出された、 ただ一振りの剣――――! 力を使い果たして膝を付いた少女を庇い、セラとリーゼリットが前へと進み出た。 召還に応じた男に、彼女らは見覚えが無かったのだ。 ヘラクレスでは、ない。腰までの長髪に、顔面に刻まれた十字の傷。尖った耳はあるいは異種族との混血の証か。剣を佩き、外套を身に纏った男である。 「……どきなさい。セラ、リーズリット」 か細い声がした。内臓のどこかを傷つけたのか、唇の端から血を滴らせながらイリヤが立ち上がる。手を貸そうとする侍女を眼で抑え、静かに自らの呼び出した英霊と対峙した。 探るように細められた眼が不思議そうに揺れる。およそマスターであれば相対した英霊の力がおぼろげにだが解かる筈である。だがこの英霊からはそれがない。英霊である事は解かっても、その他の事柄はまるで霧の中にあるかのように読み取れぬ。 ヘラクレスでないことに安堵と落胆を覚え、そんな自分に怒りを抱く。さよならは既に告げたはずなのに。 「わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。あなたは、どんな英霊なの?」 痛みを堪えつつも優雅な礼を送る少女に、男の表情が微かに緩んだ。 少女が痩せ我慢をしているのは明白である。なにしろ莫大な魔力を消費する召還を行ったばかりなのだ。薄れ行く意識を必死に繋ぎとめているのであろう。だが男は痩せ我慢をする人間が嫌いではなかった。思えば彼が親しく付き合ってきた人間たちはいつも痩せ我慢をして戦っていたのだから。 「……俺か。俺はただの鍛冶屋だ」 気だるげに発せられた答えに、少女の背後から息を呑む音が聞こえた。 「鍛冶屋、ですって?」 戦士でも魔術師でもなく、鍛冶屋。 落胆で力が抜けそうになる膝を意志の力だけで堪える。 そんな無様な真似が出来よう筈がない。自分の召還に応じてくれた英霊に、お前では不満だなどと恥知らずなことを言える訳がない。 虚脱感を堪え記憶を探る。かつて大英雄と矛を交えた赤い弓兵はその主に言ったと言う。君が呼び出した存在が最強でないはずは無いのだと。ならば、最強のマスターである自分が呼び出したこの男が最強でないはずがない。 ならば例え鍛冶屋でも、この男は最強の筈なのだ。 だがこの男はいったい何者なのか。鍛冶に関わる英霊などそう多くはない。世界を覆う闇と戦った鍛冶屋の息子ならば剣は持っておらぬだろうし、鍛冶屋の従者だった光の御子の得物は槍の筈。ならば竜を殺して不死となった鍛冶屋の養子か。 それとも、と考えてふと気が付いた。 彼が、一体何を触媒とされて召還されたのか。 「……そっか」 安心感と共に身体から力が抜ける。 鍛冶の英霊。刀工。剣を鍛える者。 彼がそれであるならば、その触媒となったのはおそらく―――― 笑みが漏れた。 ならば、何も心配することは無い。 戦士でなくても、勇者でなくても、恐れることなどなにもない。 シロウが作り上げたセイバーの剣を触媒に、わたしが呼び出した英霊が最強でない筈がない。 意識を失った少女の膝が折れ、ゆっくりと身体が投げ出される。 侍女たちが慌てて駆け寄るが間に合わず、イリヤの小柄な身体は鍛冶の英霊の腕に抱き止められていた。 「ふん……」 近づいてきたセラに気絶した少女を渡し、彼は面白そうに辺りを見回した。 現界する際に最低限の知識は与えられている。 自分がどこにいるのか、何のために呼び出されたのか。 ふん、と肩を竦める。戦う気などない。聖杯に興味はなく、叶えたい願いなど何もない。だが、少なくとも退屈はせずにすみそうだ。 それに何よりも、と彼は空を見上げた。 朝の光に、現界する時に一瞬だけ見えた剣の輝きが思い出される。 あの黄金の剣の持ち主に会えるのなら、しばらくここにいてもいいだろう―――― |
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