第05話(後半) | |||||||||||||||||||||||||||||||
作者:
辰田
URL: http://ginka.jpn.org/
2007年12月04日(火) 01時33分42秒公開
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息が切れる。 「はあ、はあ、はあ……」 鍛えたはずのスタミナも底を突き、それ以外の雑音は全てかき消してしまいそうなほど大きな呼吸音が脳髄に響く。その呼吸音が自分の物だという認識も曖昧なまま、士郎は走っていた。 一体どうして走っているのか。 理由なんて判らない。原因なんて判らない。ただ、あの後ろ姿を認めたなら、それを追いかけないわけにはいかなかった。 「はあ、はあ、はあ……」 もう何時間走っているのだろう。 時間は判らない。知ろうとする気力もない。ただ、あの姿を認めた時はまだ夕焼けが眩しかったはずなのに、今は全てが闇夜に溶けている。随分と時間が経っているのだろうか。だが、そこにあるはずのものが何も見えない。道も、電柱も、塀も目には見えない。異常だ。いくら真夜中であっても、月の光が無くとも、それほどの闇が町中に現れるはずもない。だいたい、何も見えないのなら、あの背中が見えるのは何故なのか。 「はあ、はあ、はあ……」 何かがおかしい。それは士郎も判っていた。だいたい、こちらは全力で走っているというのに相手は歩いているだけ。なのに追いつけない時点でどこか異常だった。 それでも、足は止まろうとしない。速度を落としもしない。士郎の足は、「あれ」を追いかけるただの機械と化している。 アレに追いつくまでは止まれない。例え足が折れようと、筋肉が断裂しようと。その程度では足止めにさえならないだろう。 「シロウ、落ち着いて。何か変よ!」 少女の声が聞こえたけど、その意味も把握できたけど、士郎の足はやはり止まらない。変なことは百も承知だ。しかし、だからといってアレを見逃せるわけがない。単なる罠なら、無視しても良かっただろう。しかし、もしあの姿を持つ奴がいるのなら――桜にも危害が加えられるかもしれない。 そんな可能性を、士郎が容認できるわけがない。 絶対に有り得ない暗闇の中を、二組の主従は駆け抜けざるを得なかった。 「シロウ!」 必死に追いすがるイリヤ。そして、絶叫。その声は、士郎に届いているのだが、それでも彼の足は止まらなかった。 イリヤの城から帰ってくる時だった。 視界が黄色く染まる。一瞬だけ目に進入した光が、痛みを呼ぶ。綺麗な夕日だった。思わず見とれる。 「……そろそろ日が沈むわね」 「ああ。でも、これからどんどん日は高くなっていくだろうな」 空気に混じる冷たさが随分と和らいできている。どたばたしていて気付かなかったが、春はもうすぐそこだ。この様子だと、桜の花が見られるのもそう遠い時ではないだろう。運が良ければ、桜の卒業式は満開の桜が出迎えてくれるかもしれない。 「……綺麗ね」 目を細めながら、イリヤは言う。 「……ああ」 倫敦にいたころは忙しくて昼も夜もない生活だったから、あまり夕日なんてじっくりと見る機会はなかった。 イリヤの髪が、夕日を反射して金髪に見える。緩やかに風を象って揺れる様は、まるで燃えさかる炎のように見えた。 行く道は無言。されど、特に苦痛はない。アスファルトを蹴る二つの足音が小さく辺りに響く。それが、何となく楽しかった。 そうして見えてきた衛宮の家。一年以上開けていたけど、桜が手を入れてくれていたからか。士郎は、帰国してすぐにこの家が自分の家であることをちゃんと認識できた。 あとは、疲れているだろうイリヤを家の中で休ませて、食事を取りながら今後のことについて協議し、またダイと共に夜の見回りを行う筈だった。 しかし、その人影を見たとき、そんな考えはあっさりと吹き飛んだ。 「――え?」 それは、有り得ない人影だった。どこにでもいそうな姿が、目に飛び込んできた。こんな所ですれ違っても、別におかしくはない筈だった。しかし、士郎はその影を見て一切合切の思考が停止した。 「――シロウ?」 こちらが急に立ち止まったからだろう。イリヤも立ち止まり、不満の声を投げかける。 「何やってるの? 早く行きましょう」 そんな声を脳が受け取る間に、人影は士郎達と擦れ違った。特にどうと言うことはない日常風景。 人影は、こちらを見ていなかった。思わず振り返っても、人影はこちらを見ていなかった。 だが、士郎には判った。あの人影が、こちらに向かって何かを喋っているのを。こちらの名前を呟いているのを。 「シロウ?」 誰かの声が士郎の鼓膜を振るわせた。しかし、士郎はそれが単なる雑音としか思えなかった。一歩だけ踏み出す。 「シロウ!?」 その動きで、ようやく士郎が見ているモノの正体がわかったモノがいた。血相を変えて士郎の元に戻り、袖口を握りしめた。 「シロウ、駄目よ! あんなのなんて有り得ない。これは罠か何かで――」 唯一。イリヤだけはその人影が誰なのかが判ったのか。震える声で、それでも落ち着いた声音で静止しようとする。しかし、それで士郎は止まらない。もう一歩、踏み出す。 そのまま、士郎の前に回り、魔眼でもって士郎の動きを縛しようとする。 しかし。少しだけ遅かった。それを追って、士郎の足は全力でアスファルトを蹴っていた。 そうして辿り着いたのは、間桐の屋敷だった。この場所に到達した瞬間、奇妙な闇は晴れた。辺りが暗いことに代わりはないが、今は十分な月明かりが周囲を照らしてくれている。 季節に似合わず、ざわざわと虫の音がする。 あの人影は、ついに一度も振り返ることはなく町中を歩き回り、最後にこの屋敷にやってきた。そして――一瞬だけ振り返り、汚れのない笑みを浮かべながら玄関を開けて入っていったのだ。 「はあ、はあ、はあ……」 別に驚きはない。あの人影は最終的にここに来るであろう事は判っていた。いや、ここに来ることが何となく判っていたからこそ、あの人影を追いかけずにはいられなかったのだろうか。士郎自身にも、それは判らなかったが。 それにしても、何時間走っただろう。息切れの音が激しい。心臓が爆発しそうだ。 「ど、どうしたんだよ、シロウ。こんな所に何か用事でもあるのか?」 ダイの声が聞こえたが、士郎は無視した。正確には、聞こえなかった。聞くことを拒否した。 そのまま、ドアをノックする。しかし、それはドアに触れなかった。 「はあ――間に合った」 汗だくになったイリヤが、士郎の手を全力で掴みあげたからだ。遅れそうになりながら、イリヤは必死になって追いすがった。そして、ぶら下がるようにして士郎の腕に飛びついたのだ。これが罠であることは明白だったから、必死だった。 「シロウ、落ち着いて。これは明らかに異常よ。絶対に起こりえない現象よ。さっきのアイツが、こんな所にいるはず無いでしょう!」 イリヤの声は確信に満ちていた。それも当然。あの人影は既にこの世にいないものだ。それを、イリヤは十分すぎるくらい知っている。士郎だって、それくらいは判っていた。 だが―― 「それでも、ここには桜がいるんだ。見過ごす事なんて出来ない」 「あ――」 それが理由。アレが――罠であることは百も承知だった。だが、本当に罠だけであの人影は現れたのだろうか。あの姿を取ったのが敵ならば……この家に被害を及ぼす可能性だってゼロではない。 これ以上止めようとしても、士郎を怒らせるだけだ。彼はテコでも動かないだろう。 「判った。確かにこの家は気になるし――ここまで来た以上、確かめないわけにはいかないか」 イリヤはそう判断し、士郎を引き留めるのを止めた。そして、ダイたちに警戒を促す。現界させ、臨戦態勢を作り出す。そして、いざとなればダイとロン・ベルクに命令して遁走させるべく令呪に力を込める。 こつん。士郎がノッカーで扉を叩いた。現実感のある音が、まだどこか翳んで見えた間桐の屋敷を急速に現実感のある物に変えていく。 そうして、きっかり三つ叩いた時。扉が、音もなく開いていった。 「……ぬ、お前は」 顔を出したのは――間桐臓硯であった。 士郎はとにかく驚いた。あの顔が幽霊屋敷そのものの間桐家から出てきたのだから、当然だ。しかし、倫敦で凛相手に身につけた忍耐力を発揮して、何とか表情には出さないことに成功した。 この人は、確か桜の祖父だったはず。その人が無事なら――桜は無事なのだろうか。 安堵の溜息が漏れる。まだ完全に安心出来るわけではない。この間桐臓硯も、何らかの罠かもしれないのだ。間桐が魔術を継承する家柄だと言うことは、以前聖杯戦争で知った。となると、この老人も魔術師……と言うことになる。用心するに越したことはない。 だが、不思議なことに殺気のようなモノは何も感じない。臓硯の目は不機嫌ではあるものの、そこに敵意の類は確認できない。 士郎は、取りあえず頭を下げた。 「あ、ご無沙汰しておりま――」 「「――――ザボエラ!?」」 しかし、その士郎の声は横から飛び出してきたダイたちに一瞬で掻き消された。叫びながら、ダイはナイフを取り出しつつ、士郎を庇うように移動する。 「お、おい!?」 士郎が思わず制止するが、ダイは聞かない。あろうことか、そのナイフを臓硯に突きつける。ロン・ベルクも睨み付けるような目で臓硯を睨み付けていた。 「シロウ、下がって。こいつは――!」 「ちょ、ちょっと待てダイ! この人は臓硯さんだぞ!? いきなり何なんだ?」 急いでダイを取り押さえる士郎。罠かもしれないと警戒していたとはいえ、まだ異常は何も感じられない。もし、ダイが無言で士郎達を庇おうとしたら、士郎もサーヴァントであるダイの警戒心に従っていただろう。しかし、彼らはさっきこう言った。 「サボエラ」 これは確か、ダイたちの話にちらっと出てきた人の名前ではなかったか。生憎、士郎は詳しく聞かなかったが、名前の響きが奇妙に頭に残っていた。 恐らく、勘違いをしているのだろう。しかし、この目の前の老人が桜の祖父であることを士郎は知っていた。敵対していない以上、そんな彼にナイフを向けるなど士郎は容認できない。だから、ダイ達を必死に止める。 「だって、こいつはザボエラで――!」 「ザボエラだかサラエボだか知らないけど、この人は臓硯さんだよ!」 何でここでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺された場所の名前が浮かんだのかは士郎自身謎である。とにかく、ダイを押さえつける。その様子を、臓硯は下手な漫才を見せられた観客のように冷徹な眼差しで見ていた。 「……え?」 士郎の必死の説得により、何とかダイは己の勘違いに気付いたようだ。そして、殺気も無いことを確認する。士郎が手を離すと、慌ててナイフをしまい、老人に非礼を詫びた。 「すみません! 俺、妙な勘違いを……」 「何、マスターを守るはサーヴァントとして当然の行動じゃ。年甲斐もなく肝を冷やしてしまったが、構わんよ。確か、お主は衛宮士郎君であったか」 「あ、はい。そうです。ご無沙汰してます。とんだ失礼をしてしまい……」 さほど驚いたようには見えなかったが――と、ここでイリヤが口を挟んだ。 「サーヴァントを見ても驚かないのね、ゾウケン」 「え?」 士郎は驚き、イリヤの方に振り返る。イリヤは、あの聖杯戦争での最初の邂逅の時のような冷酷な光を、その赤い瞳に宿していた。 何で、臓硯の名前を知っているのか。士郎は判らなかった。 「イリヤ、臓硯を知ってるのか?」 「当たり前よ。だって、マトウは聖杯戦争の始まりの御三家。その情報くらい、事前に教えられてたから。コイツは間桐臓硯。間桐に500年君臨する実質的な長よ」 驚く士郎を尻目に、イリヤを見た臓硯の顔が少しだけ歪む。 「ぬ、お主は――その気配、アインツベルンの眷属か。なに、聖杯の気配が濃厚になっていたのは気付いておったからな。驚くほどのことでもあるまい」 「――気付いていた? 土地の管理者であるトオサカも気付いていなかったのに?」 「……遠坂か。確かにあの娘は優秀じゃ。しかし、アインツベルンよ。この世には亀の甲より年の功という言葉があってな。間桐とて、聖杯戦争に古くから関わってきた家系。冬木の事くらいは儂にも判る」 言外に、遠坂やアインツベルンより間桐の方が優れていると言われたと感じたのか、イリヤが苛立たしげに目を細める。 「……まあ、良いわ。話が早くて助かるし。早速だけど、聞きたいことがあるわ」 そう言って、ちらりとイリヤは士郎に目配せをする。 ――ここは私に任せて。 イリヤの意志は士郎にも伝わった。士郎は頷く。間桐のことを殆ど知らず、交渉事も苦手な自分には任せられない。ダイや、ロン・ベルクも事情を理解していない点で同様だ。この話に加わることは得策ではない。 「聞きたいこと?」 「ええ。ついさっき、ここにマトウシンジが入っていったんだけど。確か彼はこの前の聖杯戦争で死んだんじゃなかったかしら。それがどうしてここにいるの?」 一気に核心を突いた。 さっき士郎が見た人影。それは間桐慎二のモノだった。彼は確かに死んだはず。それは、ライダーを打倒したセイバーのマスターである衛宮士郎と、慎二を殺したバーサーカーのマスターであるイリヤスフィール・アインツベルンが一番よく知っている。 冷たい瞳。その冷たい刃のような瞳で、イリヤは慎二の死体を見つめていたのか。そう思うと、士郎は複雑な気分に襲われる。 「……慎二じゃと?」 しかし、臓硯はイリヤとは対照的に困惑の声を出した。まるで、まったく心当たりがないとでも言うように。 「……ええ。私たちはマトウシンジをさっきまで追っていた。それで、最後にここに来て――彼は、家の中に入っていったのよ」 イリヤは見たままを言う。この家の中に入っていったのは、錯覚などではない。 「何を馬鹿なことを言う。慎二の奴は分不相応に聖杯戦争に参加し、そして死んだ。生きているわけ無かろう。それとも、グールの類であったとでも言うつもりか?」 「いいえ。死者なんかじゃないわ。しっかりとした足取りで、確かにいたわ。そして、ここに辿り着いたのよ、彼は」 イリヤは問いつめるように――いや、臓硯を実際に問いつめていた。 「考えられる可能性の一つとして、臓硯、貴方が私たちをおびき出すために幻覚か何かを使った、とか」 しかし、臓硯はイリヤのそんな言葉を一笑に付した。 「ふん、アインツベルンの子よ。儂とて魔術師じゃが、さすがにお主やサーヴァントを欺けるような術は使えんよ。だいたい、お主らを誘き出してどうするというのじゃ。動機が無いぞ」 「貴方の魔術の実力なんて知らないわ。ひょっとしたら、強力なのかもしれないじゃない。それに、聖杯戦争に関わっているモノ同士に対して、動機がないとは笑わせるわね。言い逃れは許さないわ。ここにその慎二らしき人影が入っていくのを私たちは見たんだから。それに、貴方がキャスターのサーヴァントを召喚したのなら、私たちを欺く幻影くらい指先一つで象れるでしょう?」 「は! 儂がもしそのようにお主らを誘き出したとして、ならば何故このような庭先で談笑をするのか。わざわざ疑われるような事までするほど、儂は愚かではない。それに、儂はサーヴァントの召喚も行ってはおらぬ。ほれ、腕には何の兆しも無かろう」 そう言うと、臓硯はおもむろに袖を捲って見せた。そこには、確かにサーヴァントを律するための令呪は見えない。 「何を言ってるの。令呪こそ、マキリが作ったものでしょう。それを隠す術くらいあるはずよ」 「確かに、そう疑われてもおかしくはあるまい。しかし、お主の言葉は悪魔の証明を求めるもの。いないサーヴァントの存在を求められても、こちらとしては答えようが無い」 イリヤと臓硯の会話は平行線を辿る。どちらも、自分の主張を譲るつもりはないようだ。そして、どちらも自分の主張を証明するだけの証拠を持たない。 士郎も口を挟めない。挟む余地がないからだ。両人とも、その事は判っているのだろう。すぐに問答の応酬は止んだ。臓硯は、こう提案してきたのだ。 「まあ、ここでこうして話していても仕方あるまい。なんなら、試しに家の中に入ってみるかね? 儂としては不愉快じゃが、疑われ続けるよりは良い」 「……」 初めて、イリヤは口籠もった。躊躇している。それは、士郎も同じだ。 確かに、家の中を徹底的に調査すれば、臓硯がこの件に関わっているかどうか判るだろう。いや、それくらいしか、臓硯が関わっているかどうか証拠を掴める方法はない。 士郎は、凛が倫敦で口を酸っぱくして言っていたことを思い出した。 「いい、士郎? まず時計塔で気をつけるべきなのは、他の魔術師の工房に入ることよ。凶暴なトラップが仕掛けられている場合もあるし、何よりその工房内はその魔術師にとって全てとも言えるわ。自分の研究成果を始めとする神秘を知った者を、魔術師は許さない。確実に殺そうとするでしょうね。それに、工房っていうのは入ることもそうだけど、逃げることはさらに難しいわ。殺されるならまだしも、実験用にホルマリン漬けされるのなんて士郎だってごめんでしょう?」 そんなことを耳にタコができるほど言われた。殺されるのだってごめんだ、などと、どこか的外れな反論をしたことも同時に思い出してしまったが。 「……論外ね。よその魔術師の家にのこのこ入り込むなんて真似、出来るわけが無い」 「そうじゃろう。ならば、早々に立ち去るが良い」 「……そうね」 イリヤは存外あっさりと頷いた。ここで押し問答をしていても、意味が無い。サーヴァントが二騎いるとはいえ、相手の陣地に何の用意も無く踏み入るのは自殺行為だからだ。間桐臓硯は魔術師である。どのような罠を仕掛けているか判ったものではない。 かつての聖杯戦争でも、苦汁を舐めた。逃げ隠れしか出来ないはずのアサシンに退けられ、雑兵と侮ったアーチャーはバーサーカーを六度も殺し、生身の人間である凛でさえバーサーカーを一度は殺した。それに学ばずしてバーサーカーを失った意味は無い。一旦家に帰り、装備を整え凛を加えてから、改めて押し入るべきだろう。 それに、手ぶらでは満足な調査も出来まい。それなりの装備を調えなければ。 とことん怪しいが、今はここで引くのが賢い選択だった。 「それじゃ、お邪魔したわね」 「ふむ、帰るのか。残念じゃの。まあ、また用があれば来るが良い」 臓硯は特に引き止めない。殺気もない。背後から襲ってくるかもしれないので、一応警戒しておくが、どうやら喧嘩を吹っかけて来る可能性は無いようだった。 ――本当に、知らないのだろうか。 士郎は漠然とそんなことを思った。もし臓硯がこの現象を引き起こしたのなら、ここで引き止めないのはおかしいし、攻撃してこないのもおかしい。結局、臓硯は士郎たちに怪しまれただけで、得た物は何も無いからだ。 しかし、それはやはり、ここで判断できる事でもない。それならば――士郎には尚更聞かねばならないことがあった。 「……桜は無事なんですか?」 士郎は固い声で臓硯に聞いた。士郎にとって、一番の懸案事項はここに住んでいる桜に危害が加わる可能性があるかどうかだ。 「無事? 無事も何も、部屋で寝ておるものがなんの危ないものか。急ぎであれば是非もないが……年頃の孫の寝室に踏み込むのはさすがに憚られるのう。ほっほっほ」 「……」 士郎は一瞬だけ、どんな顔をして良いのか絶句してしまう。単なる冗談であろうか。これまでの空気を台無しにする、単なる助平爺さんの台詞である。 数瞬だけ迷ってから。取りあえず意識して緊迫感のある声を絞り出す。 「……それは良いです。それよりも、桜はこれからも安全なんでしょうね」 「異な事を。無論よ、桜は間桐が魔導である事さえ知らぬ。聖杯戦争に関わりを持つ機会さえ無かろう」 「それは――慎二から聞いたことがあります。ただ、ここも魔術師の家。サーヴァントが襲撃してきたりとかしたら……」 その言葉に、間桐臓硯は不愉快そうに眉を潜める。 「……ふん。間桐も見くびられたものじゃな。いかに衰えたとはいえ、間桐も聖杯戦争の初期から連なる魔術師の血脈。サーヴァントに対する守りくらいいくらでもあるわい」 「……」 侮辱されたとでも受け取ったのだろうか。 「そんな積もりはないですが……」 「……まあ、良い。桜を心配してくれる気持ちは受け取っておこう。心配することはない、可愛い孫じゃからな」 「……」 士郎は、その好々爺めいた笑みを見ても信用できない。慎二が聖杯戦争に参加したとき、臓硯はおそらく止めなかったのだろう。結果として――手を下したのは自分達だが――慎二は死んだ。それは事実だ。 「……よろしくお願いします」 それでも、信用するしかないのは癪だったが。しかし、既に一度、戦場になってしまった衛宮邸よりは安全だろう。 踵を返す。イリヤは既に、俺と同じく後ろを向いていた。 床を叩く靴音が二種類。二人のサーヴァントは、既に霊体となっている。そのまま、何事もなく士郎達は間桐の敷地から脱出した。 士郎達の姿が見えなくなってから、間桐臓硯に話しかけるモノがあった。 「……ふむ、引っかからなんだか」 「どうやら、そのようだね。いや、失敗した。あの白い少女はなかなかに警戒心が強かったようだね」 臓硯にしか聞こえない、アサシンのモノだった。 屋敷の中に取り込み、あわよくば二人のマスターを瞬殺する。これは臓硯が提案したことだった。アサシンにしても、否やはない。楽しみながら、苦しませながら殺すのが彼のモットーではある。己の陣地の中でなら、思う存分卑劣な罠を仕掛けられる。 しかし、結局彼らはこちらの提案に乗ることはなかった。 「この時点で無警戒に乗り込んでくるわけはないか」 「まあね。何、そう焦ることはないさ」 これくらいの事は想定済みだ。この時点であっさり殺されるようでは、楽しみがやや少ない。あの二組の主従にしても、まだまだ信頼関係が完璧に構築されているわけではないだろう。そんなところで片割れを暗殺しても、こちらを愉しませてくれるほどの苦渋の表情を浮かべてくれるかどうか。 ここは、じっくりと熟成させる必要があるだろう。 「こういうのは、真綿でじっくり首を絞めるように執り行うのがセオリーさ」 臓硯は同意しない。臓硯にとって、暗殺は興味の対象外だ。臓硯の執着は、もはや聖杯を得て、永遠の命を頂くことのみである。 「さて、ボクはあと二、三ほど罠を創り上げよう。まだ時間はあるらしいからね」 「うむ。……ああ、アサシンよ」 それでも、多少は気になることがあった。耳に残る不吉な感じの言葉。 「先程の、衛宮の小倅が連れていたサーヴァントが言っていたザボエラとは何の事じゃ?」 何らかの符号だろうか。狂いながらも、聖杯戦争のマスターとして気になることはさっさと潰すくらいの思考は臓硯にも残っている。 「ああ、我々の世界の、詰まらぬ魔道を扱う老人の名だよ。実力は、まあまあだったけど」 そう言って、アサシンは意味ありげな視線を己のマスターに向ける。 「……何じゃ? 勿体ぶらずに教えるがよい」 ぶしつけな視線に、気分を害したのか苛立ちを含んだ声が返る。それを受け止めるのは、柔らかい粘着質の蜘蛛の糸のようなアサシンの声。 「いや、何。勿体ぶってるつもりはないさ」 そうして、アサシンは戯れにとザボエラの事を話し始めた。とは言っても、アサシンもザボエラとはさほど付き合いがない。というより、眼中になかった。ただ、あの外道な所はなかなか面白い人物であったと記憶している。 だから、その辺りはかなり鮮明に記憶に残っている。そう言ったことを話した。 彼はここで言う魔術師という存在と似たようなもので、超魔というものを研究していた事。その研究結果を自身の息子にさえ施し化け物に変えてしまったこと。しかし、その息子は父に認められたかったという一心でその結果を受け入れていたことなど。 時間にしては、10分もかからなかっただろうか。アサシンはもっと話すことがあるかと思ったが、存外にザボエラの事が頭に残っていない。記憶力には自信があるのだが、それでもこの程度か。それほど、アサシンにとってはザボエラはどうでも良い存在だったらしい。 「ま、こんなところさ。一言で言うなら、外道という言葉が相応しいかな」 アサシン自身も人のことを言えたものではないのだが、そんな事を気にしないのが彼である。 「さて、他に質問がなければ、ボクは行くけど?」 「……ふむ。今のところ他に聞くべき事はないな」 それでは、と。優雅な仕草で一礼すると、黒い道化は薄暗い間桐の屋内に消えていった。 「……」 ザボエラ、か。聞けば聞くほど、己と似ている。臓硯はそう思った。臓硯自身に名誉欲などはないが、目的のために手段を選ばず――肉親さえコマ扱いするその姿勢、精神は似通ったものと言って間違いはない。 精神に近いサーヴァントならば、間違えてしまうのも頷ける。 「――呵々」 しかし、そのザボエラとやらは結局惨たらしく死んだらしい。敗者のことなど、臓硯にとってどうでも良い。己の息子をもモルモット扱いにしたその性根は賞賛すべきモノだが、結局目的を達成できなかったのなら参考にはならない。 「――呵々」 だから、嘲笑う。その笑い声はか細く、しかしいつまでも辺りに響き渡っていた。 <桜パート第02話に続く> 桜パート第02話(別スレッド)に移動する |
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