猫耳部長 最終話 2005.05.21 |
何事にもタイミングというのは重要である。 「一緒に暮らそうか?」 そう言って猫田に断られたのは一週間前の出来事だった。 付き合って一年、週の大半を猫田の家で過ごす日が続いている。 住所を変更すれば会社に届を出さなくてはならない。上司と同じ住所だなんて会社に知れたら大問題だ。 それが「無駄に家賃を払うより一緒に住んだ方が合理的だ」という啓介の提案が却下された理由である。 「部長、俺と結婚して下さい」 同棲が駄目ならば結婚してしまえばいい。 安易な発想かもしれないが、この先も猫田と一緒に歩いて行きたい気持は本物だ。 昨日、久しぶりに狭い我が家に帰るとアパートの更新の知らせと、少し前に受けた資格検定の合格通知が届いていた。 結婚を決めるタイミングなんてこんなモノなのだろう。 資格の合格通知、印鑑を押すだけの婚姻届、それに昨夜遅くまで打ちこんだ結婚したい理由を添えて猫田に差し出した。 「なんだよ突然……」 稀な話しではあるが猫耳のオスは同性との性交渉でも妊娠する事が可能だ。 法律上は人間と同等の権利を有している種族であり、子孫を残せる以上は人間の男との婚姻を認めざるを得ない。 女性の生殖器を持たない彼等がどうして妊娠が可能なのか、医学的には解明されていない部分も多く、専門医ですら愛の力だなどといい加減な事を言出だす始末だ。 現代では受け入れた精液から遺伝子を分解、自らの遺伝子と融合させて新たな命を作り出すというのが最も有力とされている説である。 だが、啓介にとっては難しい遺伝や医学的な理論はどうでもよく、猫田と結婚が可能だという事実だけが重要だった。 「お前な、結婚がどんなものか分ってるのか……?」 渡された書類の束をパラパラと眺めながら猫田は呆れたように啓介を見上げた。 いくら法的に婚姻が認められていても猫耳との結婚が誰からも祝福される訳では無い。 まして二十も歳が離れた上司となれば、両親だっていい顔はしないだろう。 誰だって自分の子供には普通の幸せを望むものだと苦い顔で猫田は言った。 「ウチの両親なら大丈夫ですよ。部長と結婚するかもって報告したら喜んでたし……」 「お前っ、そんな事をご両親に話したのかっ……」 予想を超える言動に猫田は目を剥いて怒鳴り声を上げたが、何か問題でもと啓介が不思議そうに反応すると急に力が抜けたようにガックリと肩を落とした。 頭を抱えて唸る猫田の頬を撫でながら、もう一頑張りだと使い古された口説き文句を並べる。 「駄目だ……結婚するって事は部署が変わるんだぞ? そしたら啓介の方が移動になる……。お前みたいな半人前を移動させられるかよ。他の部署だって迷惑だ、俺がちゃんと面倒見るんだって決めたんだから……」 啓介に触れられて甘い声になっているが、猫田の意見は変わっていない。 だが、上司として未熟な啓介を嗜めるような言葉は、よく聞いてみればただの嫉妬だ。 例え上司と部下の関係であろうと、自分が大切に育ててきた啓介を他の上司に取られてしまうのが気に入らないのだろう。 「部長っ……大変です……」 あと少しで猫田の本音を引き出せると思った瞬間、打ち合わせと称して使用していた会議室のドアが入社一年目の若い社員によって開けられる。 彼は驚いて身を硬くした二人の甘い様子に気付く事も無く、血の気の引いた顔で一方的に話しを始めた。 明日は新規の契約先の搬入作業が控えていた。 契約としては中規模の搬入だが、全国規模で展開中の企業だから今後の契約次第では大きな利益となる。 だが、業者の手配を担当している業務部だけでは無く、会社全体の信用に関わる事態が発生した。 午後三時、既に手配済みの委託業者であるプリスキー運送で食中毒が発生したと連絡が入った所だ。 中小企業であるプリスキー運送は安定した契約が取れた事で社内で親睦会を開き、そこで出された刺身が原因で、大半の社員が入院する騒ぎとなってニュースでも報道されている最中だった。 何事にもタイミングは大切である。 人生を懸けた啓介のプロポーズは業務部始まって以来の最悪の出来事によってそれ所では無くなった。 こちらのミスでは無いものの信用問題に関わる一大事だ。 だが、それなりの面積があるワンフロア全体の搬入と言えば中規模でも結構な人手が必要で、どこの業者でも前日になってからの手配は難しい。 「……先方に事情を説明しないとな………」 午後四時半、既に傾き始めた空は、窓の外から見えるビルの大群を赤く照らしている。 受話器を置いて窓の外を眺めて呟いた猫田の表情は、常に気丈だった彼が初めて見せる弱気な顔だった。 「ちょっと待って下さいよ部長……」 多分、猫田は責任を取って辞めるつもりなのだろう。 この一年、誰よりも猫田を見てきた啓介にはそう思えて仕方が無かった。 「もういいぞ、先方には俺が謝りに行く」 啓介の制止を振り切り猫田は大きな声で終了を告げる。覚悟を決めたからかなのか表情は穏やかだ。 普段取引の無い業者に片っ端から電話を掛けている社員達の手が止まり、悔しそうな視線が猫田に集まる。 猫田のコネを使っても完全な手配は不可能だった。 運搬要員は確保出来たが搬入するには人手が圧倒的に足りない。 「俺達でやりましょう」 打つ手が無いと諦める中、重い沈黙を破ったのは啓介だった。 このまま猫田一人が責任を取るのを黙って見ているのは耐えられない。 「部長は先方に事情を説明して許可を貰って下さい。後は俺達で明日の搬入予定を組みますから」 今が金曜の夕方、日曜の午前中からOAの設置が予定されている為、それ以前に什器類の搬入が完了しなければならない。 思いつきでも何も言わないよりはマシだったようで、啓介の一言で部内の空気が変わった。 無謀だが不可能では無い。 啓介の言葉に猫田が頷くと部内にも活気が戻り、明日の搬入に向かってそれぞれの役割を果たした。 オフィス什器の搬入は手順が大切だ。一つ間違えると後から入らなくなったり、既に設置した什器とぶつかって傷をつけてしまったりする。 慎重に、しかも手早く作業を進めるにはそれなりの経験者が必要だが、今は猫田だけが頼りだ。 土曜の午前八時、搬入に関しては素人の社員達が猫田の指示によって一斉に行動を開始する。 だが数時間も経てば馴れない力仕事に身体中の筋肉が悲鳴を上げた。 それでも事態を聞きつけた他部の社員が応援に駆けつけた事で、なんとか士気を取り戻しながら作業を続ける。 「猫さんもホント馬鹿だよな……」 そう言ったのは採算も考えず数名だが貴重な人材を連れてやって来た猿渡だった。 昼を過ぎた頃、猫田と付き合いのある他の業者からも数名の人員が投入され、プロである彼等を中心に作業のペースが格段に上がる。 無謀だと思われた挑戦に僅かな希望が見え始める。 同じような毎日を繰り返すサラリーマンにとって情熱を持ちながら仕事を続けていく事は難しい。 大人になって個人の生活を充実させる事でバランスを保つか、自分の力を持て余して転職を考えたりしながら誰もが退屈な毎日をやり過ごしている。 だが今は、汗まみれになって体を動かしている誰もが疲労と戦いながらも目を輝かせている。 徐々に形になっていく成果を目の前にして再び入社当時の気持を思い出した社員も多いのだろう。 こんなイレギュラーな対応は二度と無いだろうが、猫田の蒔いた種は確実に芽を伸ばして成長していた。 「……何とか終わったな」 全ての作業が終了した午前一時。 それは、どんなに辛くても弱音を吐かずコツコツと積み上げて来た猫田の実績が花を開かせた瞬間だった。 形になったばかりのい真新しいオフィスの中で皆が手を叩いて歓声を上げる。 啓介を囲む疲労と自信に満ち溢れた顔は、この先も仕事を愛せる自信となった。 最終的な確認をしている猫田と共に残った啓介は祝杯のビールに酔ったようで、気が付けば冷たい床の上で眠っていた。 疲労した筋肉と関節の痛みに顔を歪めながら半身を起こすと目の前に熱い缶コーヒーが差し出される。 「まったく……お前はとんでもないヤツだな……」 午前五時、誰も居ない真新しいオフィスには朝の眩しい光が差し込んで二人を照らす。 猫田は啓介の横に腰をかけてコーヒーを一口飲むと溜息をついた。 「正直助けられたよ、自分達で搬入しちまうなんて俺には思いつかない。 お前の手柄だ。半人前だなんて言って悪かったな」 今回の事はこの場で汗を流した人間が誰一人欠けても成立しなかった。 勿論、猫田の力は大きいが誰のミスでも誰の手柄でも無いと言うと本当に成長したなと猫田は笑う。 「俺と結婚して下さい……」 会社の一大事が片付いた後は人生の一大事だ。 すっかりタイミングを逃していたが、この先も猫田と共に人生を歩んで行きたい気持を素直に口にする。 汗臭い身体、無機質なオフィス、朝焼けに照らされた顔はお互いに疲れきっている。 ムードも無い最悪な状況だが、例え断られても啓介は何度でも同じ言葉を口にするだろう。 「お前が結婚なんて十年早い……」 だから俺みたいなオヤジが丁度いいのかもなと猫田は啓介の肩に顔を埋める。 身体を引き寄せ唇を重ねると苦いコーヒーの香りが広がった。 どんな坂道も君と歩いて行こう。 雨が降ったら僕が傘になろう。 君と二人でいる事が僕の幸せなのだから……。 お互いの暖かい体温を感じながら、この先どんな嵐が来ても二人で生きていこうと朝の光に誓った。 Top Index === 50,000hit記念テキスト『猫耳部長』どうにか完結しました。 これまでのテキストとは違ったものに挑戦したく始めた連載だったので、不安もありましたが暖かいご感想を多くの方から頂けて大変感謝しております。 次回、オマケの一話を更新して終了となりますので、よろしかったらもう少しだけお付き合い下さい。 |