猫耳部長 番外編2:さらば猫耳部長
2005.07.23
猫田勇の朝は慌しく始まる。
いつまでも起きない啓介や、バタバタと走りまわる勇介を怒鳴りつけながら朝食を与えて送り出す。
二人を送り出した後も息をつく暇も無く、洗濯機を回しながら朝食の後片付けや掃除をしているとあっと言う間に時間は過ぎてしまう。

「あの馬鹿……また脱ぎっぱなしで……」
啓介の脱ぎ散らかしたパジャマを洗濯機に放りこみながら、優雅に見える主夫業も楽じゃないなと猫田は溜息をついた。
毎日のように何かに振り回され、気が付けばゆっくりと新聞を読む暇さえ惜しんでいる自分がいる。
部長と呼ばれていた頃には部下に向かって、息抜きも仕事の内だと教えていた筈なのに。

「俺も焼きが回ったな……」
フローリングを磨く腕を止めて時計を見上げると既に正午を過ぎていた。
勇介を迎えに行くまでには、あと二時間弱もある。
昼食も取らずに必死になる事でも無いんだと自分に言い聞かせると、猫田は自分に与えられた僅かな時間を楽しむ為に熱い緑茶を淹れた。

今の暮らしに不満は無いが、時々ふと何もかも忘れて仕事に没頭していた頃を思い出す。
何かにつけて猫耳だからと揶揄される事もあったし、猫耳でも出世が出来るモデルケースとして広告塔のような役割も与えられていたのも事実だ。
それでも最初は、だた働ける事が嬉しかった。
真面目に頑張っていれば、報われる事もあるんだと自分を奮い立たせて目の前の荒野を突き進んだ。
だが、年齢と共に自分の限界が見えてくると、いつのまにか疲れ果てて殻に閉じ篭っていた。
啓介に出会ったのも丁度その頃だ。
傍若無人な今時の若者だった彼が、彼なりの誠実さと軽薄な好奇心で猫田の中に踏み込んで穏やかで退屈な日常を掻き回していった。
触れ合う度に何かが変っていくようで、猫田は年甲斐も無く浮かれて啓介に夢中になり現在に至っている。


心地の良い静寂を掻き消すように携帯電話の着信音が鳴り響いた。
突然、想い出から引き戻された猫田がボンヤリとして着信のボタンを押すと耳に馴染んだ啓介の声が聞こえてくる。
『あ、勇? 俺だけどさ、昨日持って帰ってきた書類あっただろ?
あれさ、急に必要になっちゃって……悪いんだけど会社まで持ってきてくれないかな……』
普段から常に先を読んで準備を怠るなと口うるさく言ってきたのに、啓介は相変わらずどこか抜けている。
「だからいつも言ってるだろう、仕事を家に持ち帰る時はしっかり確認をしとけって」
『あのさ、ホントに急ぎなんだよ、あれ無いとヤバイんだって……なあ頼むよぉ……』
猫田の心情を察知して啓介は情けない声で懇願する。
少し早いが今から勇介を迎えに行って、その足で向かえば四時半過ぎには着けるだろう。
終業時間までには間に合う筈だからと電話を切って、猫田は勇介を迎えに彼が通っている幼稚園へと向かった。



「あ、猫耳オヤジだぁーっ!!」
静かな住宅街で暮らす人間にとって、中年の猫耳はやはり珍しいのだろう。
好奇心旺盛な園児達は猫田の姿を見つけると、毎日のように目を輝かせて駆け寄って来ては遊んでくれとせがむ。
飽きもせずに奇声を上げて纏わり付く子供達を適当にあしらいながら、猫田は終了時間前に迎えに来た事情を保育士に説明すると勇介を探しに教室に向かった。

「わぁぁっ、くすぐったい……ユウちゃんのエロっ、やめろよぉ……」
廊下を歩いていると幼児の甘えた叫び声が聞こえて猫田は肝を冷やした。
恐る恐る教室を覗くと案の定、勇介が目をギラギラとさせて半裸になった男のコの腹を舐めている。
「ばかもんっ、お前は何をやっているんだっ」
男のコの上に覆い被さり腰を振り出した勇介の頭に拳骨を落として引き剥がす。
勇介の餌食になっている彼の母親も、保育士達も子供同士のスキンシップだから気にするなと言ってくれてはいるが、猫田にとって興奮して男のコを襲う勇介の姿が啓介と重なり生きた心地がしない。
「イテッ……何だよ父ちゃん、もうお迎え?」
猫田の怒号など気にも止めず、勇介は邪魔をされたと言わんばかりに猫田を見上げて頭をさすった。

「父ちゃん、あんまり怒ると血圧上がるよ」
全く反省の無い勇介に小言を浴びせていると、啓介の口調を真似て勇介がおどける。
怒りがふつふつと込み上げて限界に達する直前、笑いを噛み殺す保育士に声をかけられ我に返った。
そう、こんな所で油を売っている場合では無い。
猫田は保育士に頭を下げると勇介を抱えて足早に教室を後にした。

「変って無いな……」
二十年以上の間、雨の日も風の日も通い続けていたビルを見上げて猫田は目を細めた。
猫田がこの場所を去ってからも、このビルは毎日変らずにここに存在して沢山の社員の生活を支えている。
会社にも仕事にも未練は無いと思っていたが、懐かしいような、少し寂しいような気持が込み上げて胸が熱い。
あの頃は、こんな気持でこのビルを見上げる事になるなんて思いもしなかった。
「父ちゃん、早く行こうよぉ……」
勇介が立ち止まったままの猫田の手を強く引っ張る。
幼稚園を早退したり、普段はあまり利用する事の無い電車に乗ったりで興奮しているのだろう。
「ああ、わかったから引っ張るな」
ふと胸に過った想いを置き忘れてしまわないように、猫田はもう一度ビルを見上げると勇介に引きずられるようにその中へと入っていった。


助かったよと胸を撫で下ろす啓介に勇介が飛びついて暴れる。
「もうすぐ終わりだから久しぶりにメシでも食いに行こうか?」
啓介は若い社員に書類を渡して指示を出すと片手で勇介を抱き上げて笑った。
確かにあと三十分程度で終業時間だが、書類が到着したばかりですぐに帰れるとは思えない。
大丈夫なのかと尋ねると、啓介は苦笑いを浮かべながら先程の若い社員に向かって親指を立てた。
「ほら、せっかく二人が来てるし、今日は残業しないで家族サービスしろってさ」
渡された書類の内容を入力しながら、任せて下さいよと啓介と猫田を見上げて得意気に微笑んだ。

久しぶりなんだから少し社内を回って来たらどうだと啓介に言われて猫田は一人で古巣である業務部を訪れた。
キーボードを叩く音、慌しく鳴る電話、猫田は一瞬だけ目を閉じて懐かしい緊張感を味わった。
「部長っ……! どうしたんですか?」
猫田が顔を出すと書類を抱えて忙しく走り回っている社員の足が止まる。
「おう、亀梨久しぶりだな」
啓介より少し年上の彼は、猫田が部長として腕を振るった時期を一番良くしっている社員の一人だ。
「ちょっと用事があってついでに寄ってみたんだ、手ぶらでスマンな」
もう部長じゃ無いだろうと肩を叩くと永久欠番ですよと亀梨は笑った。
退職して五年以上が経っているが、業務部にはまだ知った顔も多く、どうせ暇だからと軽く挨拶だけして帰ろうとした猫田を引き止める。

「部長、少しいいですか?」
そろそろ勇介が退屈して暴れ出している頃だろうと、二杯目のコーヒーを飲み干して立ちあがった猫田を一人の社員が呼び止めた。
熊谷慎也。彼は業務部の主任として部長時代の猫田を支え、学生気分の啓介や亀梨を育ててきた男だ。
会議室へ移動すると熊谷は神妙な面持ちでマタタビ入りの煙草を猫田に勧めた。
「部長……俺、会社辞めるんです」
馴れないマタタビ入りの煙草の味に熊谷は顔を歪めて煙を吐き出した。
「親父が倒れて、家業を継ぐ事になったんです。部長にはちゃんとご挨拶に伺うつもりだったんですが……」
猫田は言葉を見つけられずに、そうかと小さく呟いて普段は吸わない煙草に火を点けた。
喉の奥をチリチリと刺激する感覚が昂ぶった神経を鎮めていく。

「辞める事が決まってからよく考えるんですよ。俺はこの会社で何を残せたのかなって……」
自嘲気味に吐き出す熊谷を自分と重ね、猫田は声を詰まらせて窓の外を見詰めた。
窓の外では信号が変った交差点に大勢の人間が行き交っている。
考え方も生き方も違う人間が、それぞれの目的に向かって歩いていく途中で誰かとすれ違う。
会社も同じようなものかもしれないと猫田は思った。
自分の存在を証明する為に働く者、家族の為に働く者、次の居場所に向かって去っていく者。
いずれは誰もがこの場所を通り過ぎ、一秒先には忘れ去られてしまう。
涙を隠して必死に働いたとしても、誰かが明日消えたとしても、世の中は何も変らずに回り続けていく。

「何か湿っぽい話になっちゃいましたね、すみません」
思い沈黙を破るように熊谷がドアを開けようとした時、ふと啓介の顔が浮かんで猫田の中で何かが弾けた。
部屋を出ようとする熊谷の肩を掴んで、ゆっくりとその想いを言葉にする。

「俺やお前が残したものは、きっと誰かが証明してくれるさ。
例え小さな事でも、いつかは誰かがその大切さに気付くだろう。それを誰かがまた残していくんだ。
少なくとも俺はお前が必死に頑張っていた事を忘れない」

自分に言い聞かせるように猫田がそう告げると、熊谷の肩が震えて涙が零れた。
誰だって必要とされたいと思いながら辛い毎日を必死に生きている。
猫田は涙を拭う熊谷にお疲れ様と声を掛けて肩を抱いた。
「部長、最後まで本当にありがとうございました」
大学時代を体育会系で過ごした彼らしく、熊谷は覇気のある声で礼を言って頭を下げる。
猫田は新しい人生に向かって歩き出す彼の背中を暫く見守りながら、自分を待っている家族の元へと歩きだした


「お疲れ、今日はありがとな」
はしゃぎ疲れて眠ってしまった勇介をベッドまで運んだ猫田に啓介はビールを勧める。
既に啓介は酔っているようで、喉を鳴らして残りのビールを飲み干すと思い詰めた表情のまま溜息をついた。
疲れてるのかと猫田が尋ねると、別にそうじゃないけどと口篭もりながら冷蔵庫から冷えたビールを取り出して詮を開ける。
「飲み過ぎだぞ」
猫田の忠告も聞かずに啓介は一気にビールを煽って、酒臭い息を吐き出すと猫田の肩に腕を回した。

なあ勇、また働きたい? 我慢するなよ、勇が働きたいなら俺だって協力するし、
なんだったら俺が仕事辞めて家に居たっていいんだから……」
久しぶりに会社に顔を出した猫田が昂揚している事に啓介は気付いていたのだろう。
仕事を辞める時にはきちんと話合ってはいたが、啓介なりに猫田を気遣っての言葉だ。
年齢的にも、今が一番仕事が楽しいであろう啓介がこの言葉を口にするには相当覚悟が必要だったのだろう。
今夜はやけに飲み過ぎていたり、急に口数が少なくなっていた訳が、やっと解った。

「馬鹿言うな、お前みたいないい加減な奴に家事や子育てが勤まるか。
主夫だって俺が選んだ道だ、俺は後悔していないぞ。
それにな、せっかく主任になったのに、お前が会社を辞めてどうするんだ?
仕事ってのはそんな簡単に投げ出すもんじゃ無い。
もう少し責任感を持ってくれ、まったく三十歳過ぎても学生気分じゃ話にならん」
彼の気持は充分に伝わっているが、昔気質の猫田はどうしても素直に気持を表現出来ずに、感謝の言葉は説教に変った。

「俺だって考えてるし、仕事は一生懸命やってるよ……でも………」
気を利かせたつもりが逆にしかられてしまい、啓介は情けない声で言訳を始める。
さすがに言い過ぎたと反省して猫田は慌てて啓介の頭を撫でる。
年齢だけは立派な大人だが、猫田にしてみれば啓介はまだまだ子供だ。
しかし、そんな男と一緒に暮らして五年経った今でも、こうして啓介の仕草一つに胸を締め付けられている。

「だったら家の事は俺に任せてお前は仕事を頑張ればいい。
………だから、たまには早く帰って来いよな」
思わず漏らした本音に、啓介は表情を輝かせて猫田を真っ直ぐと見詰めて衝動的に唇を重ねる。

「そろそろ寝ようか?」
まだ八時過ぎだというのに、啓介の身体は熱く火照っている。
最近は忙しさを言訳にして抱き合う事も無かったから、啓介も今夜はそのつもりなのだろう。
「にゃっ……ばか、やめろ……」
既に反応し始めた身体を触られて全身の力が抜けていく。
いくら猫耳でも子供もいる中年の男が、キスひとつで敏感に声を上げてしまうのは情けない。
「いいだろ?」
啓介に強く抱き締められて逃げ場を失った猫田は、照れ臭さを隠すように啓介の胸に顔を埋めて頷いた。



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ありがたい事に数名の方からリクエストを頂けて、調子にのって番外編の第二弾を書いてしまいました。
「啓介×猫田」編はこれにて終了ですが、次回より成長した勇介を主人公にした「猫耳部長R」を連載する予定ですので、こちらもご覧頂けたら幸いです。