猫耳部長R 4
2005.08.28
街路樹が並ぶ平坦な道を前に、博紀はペダルを漕ぐ足を止めて赤になった信号を見上げる。
たった数日サボっていただけなのに、妙な懐かしさを感じて勇介は目を閉じて大きく息を吸った。
風も無い午後の熱気が地面からジワリと身体に纏わり付いて、その場に立ち尽くしているだけで汗が噴き出した。

信号を待っている間の沈黙がとても長く感じる。
あの日も丁度こんな暑い日だった。
蝉の声がやけにうるさく、頭の中まで溶かすような暑さが思考を停止させた。
大切にしてきた想いが、不安定な感情に支配されて暴走してしまう程に、その日はとても暑かった。
歪な形となって吐き出された想いが二人の間に溝を作る事は、普段の勇介ならば容易に想像出来た筈なのに。

「青だぞ」
短く博紀が言った言葉に我に返り、勇介は少し汗ばんだ博紀の肩に乗せた手に力を込める。
それを合図に博紀はペダルを踏み込むと、この平坦な道の先にある学校へと自転車を走らせた。
校庭の隅にある自転車置き場で勇介を下ろすと、博紀は直接コートへは向かわずに校舎の中へと歩き出した。
時々、勇介が付いて来ているか確かめるように振り返るだけで、何処へ向かっているのか、何をするつもりなのか説明する事も無く歩き続ける。

「おい、どこ行くんだよ……なあ、ヒロ」
その行動が理解出来ずに、勇介は困り果てて先を歩く博紀の肩を掴んだ。
「まあ、付いて来いよ」
博紀は曖昧な言葉で勇介の手を振り払うと、そのまま階段を上り今は使われていない教室の前で立ち止まる。

「ほら、見てみろよ」
誰も居ない教室に入り、博紀に促されるまま窓の外を眺めると、基礎練習を終えようとしているバスケ部員達の姿が目に入った。
数週間前であれば、基礎練習を終えただけで音を上げていたのだが、彼らは重い身体を引きずるように立ち上がると、休憩も取らずにボールを使って練習を始めた。
技術的には、まだまだ未熟だが、ボールを扱っている彼らの表情はとても楽しそうに見えた。

「俺、部長失格だな……」
技術や体力の向上ばかりに目を向けていた勇介は、真剣な表情でコートを走り回る彼らを目の前にして自身を失った。
元々はバスケが好きで集まった連中だ。
ボールに触れ無い練習が続けば、気持も徐々に萎えてくる。
そんな簡単な事にも気付かずに部長としての責任を果たそうと一人で空回りをしていた。

「何言ってるんだよ、アイツらを引っ張ってるのは勇介だろ?」
独り言のつもりで漏らした言葉を一蹴するように博紀が拳で頭を小突く。
その慰めを鵜呑みにするほど単純では無いが、博紀の言葉が心地よく胸に響いて、勇介は再び窓の外から聞こえてくる声に耳を傾けた。

「どうした一年、このくらいでヘタれてたら勇介について行けないぞ」
勇介と同級生である二年生達が積極的に声を出し、まだ体力が追いついていない後輩達も、それに応えるように大声を上げながら必死に食らい付いている。
部長としての責任を果す事が出来るなんて自信は無いが、気が付けば彼らと一緒にコートを走り回りたい気持にはなっていた。

「な、言っただろ? 尊敬されてるんだよ、乾部長」
博紀は部長という言葉を強調し、自信に満ちた表情で勇介の肩を叩いた。
長い付き合いの博紀は、尻尾の動きを見なくても機嫌くらいなら簡単に見透かしてしまう。
勇介は降参したように頭を下げると、今からでも練習に参加する事を宣言した。

「おら、お前ら気合入れてくぞぉっ」
その瞬間、窓の外から一際大きな声が響いてくる。


「ニャーっ!!」
部員全員の声が揃ってそれに応える。
変声期をすっかり終えた低い声には不釣合いな掛け声に、勇介はガックリと肩を落として博紀を振り返る。

「おい、アイツら絶対に馬鹿にしてるよな?」
尊敬されてるなどと言われて少しその気されられていた勇介は不貞腐れて博紀を睨む。
どうせ仕込んだのは博紀だろう。
子供の頃は体と同様に気も小さかった博紀だが、たまに大胆な言動で周囲を驚かせる一面もある。

「そんな事ねぇよ……ほら、俺らも練習行こうぜ」
笑いを噛み殺しながら博紀は不貞腐れる勇介の肩を叩き、さあ練習だと肩を震わせながらドアを開けた。




「なあ、勇介……俺、お前が好きだよ……」
二人が教室を出ようとした時、急に博紀が立ち止まった。
後を向いた博紀の背中からは感情が読み取れずに、勇介もその場に立ち尽くす。

「だったら何で……だって俺はヒロが……俺だってヒロが好きなんだぞ?」
博紀の気持を無視して強引に抱いてしまったのは事実だが、だとしたら何故あれだけ拒絶をしていたのかが理解出来ない。
すっかり嫌われていると思っていただけに、博紀の言葉が頭の中で居場所を決められずに彷徨っている。

「嘘つけ、お前は俺以外のヤツにもあんな事してんだろ?」
そう言って振り返った博紀の目は潤んでいた。
子供のように拗ねた口調で勇介を睨むと照れたように下を向く。

勇介はやっと彼の言葉の意味を理解した。
強引に抱いた事も、体だけの関係で成立している相手がいる事も、博紀への気持から逃げていた事も。
博紀が最低だと怒るのも当然だろう。
自己嫌悪に押し潰されそうになりながら抱き締めると、博紀は俯いたまま肩を震わせて涙を零した。

「お、おいヒロ、泣くなよ……そりゃ他のヤツとしてたのは……
それは……そうなんだけど………ガキの頃から一番好きなのはヒロだけだし………
……あの………もうしないから……」
昔から博紀に泣かれてしまうと普段は強気な勇介も途端に弱くなる。
泣きじゃくる博紀を宥めようと、必死で頭を撫でながら言訳をしてみたが自分でも何を言っているのか分らずに勇介は途方に暮れた。


「勇介の『もうしない』は信用出来ないからな」
涙が出る程に感情が昂ぶってしまった事が照れ臭いのか、博紀は頬を拭うと急に厳しい口調で勇介を責める。
確かに子供の頃から同じ悪戯を繰り返しては周りの大人達を呆れさせていた。
痛い所を突かれ、言葉を詰まらせた勇介は曖昧な笑みで博紀の顔色を伺う。

「まあ、今度の新人戦で一勝できたら考えてやってもいいかな」
動揺している勇介を目の前にして、すっかり自分を取り戻した博紀が視線を合わさずに呟く。


「考えるって何を……?」
その言葉の意味を勇介が前に博紀の顔が近付いて唇が重なり、二人はその場に崩れ落ちた。
軽く触れただけなのに全身に甘い感触が広がる。
突然の出来事に戸惑っているが、その行為には勇介の頭の芯を痺れさせる程の衝撃があった。

「勝ったら続き……やらせてやるよ」
つい、この間まで童貞だったとは思えない余裕で博紀は勇介を兆発した。
呆然と見上げる勇介を見下ろして、ふっと息を漏らすと練習に戻ろうと博紀が立ち上がる。

「ごめん……俺、今うごけない……」
その場に座り込んだまま立ち上がろうとしない勇介に博紀は不思議そうな顔を向ける。
気まずそうに股間を抑えて笑うと、博紀はその意味を理解したようで顔を赤くして視線を逸らした。

「お前……やっぱ最低だな………」
そう言いながらも博紀は照れたように笑い、勇介を残して走り出して行った。
同じ言葉の筈なのに、あの時とは違って今の博紀の言葉は勇介の心をくすぐる。
一人残された勇介は昂ぶった本能を鎮めようと、歓喜の叫び声を上げて頭を掻き回した。


静まり返った誰も居ない教室。
窓の外から聞こえる仲間達の声がやけに遠い。
唇を指でなぞると、博紀の残した甘い香りがまだ僅かに残っていた。



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