晩夏人形奇譚
阿波島神社に来たのは二回目だ。
一度目は母に連れられて。
母は幼い私の手を引いて、片手には小さな桐の箱を抱いていた。
何が入っているのかと聞いた気がしたが、答えは忘れてしまった。
数の数えかたも知らぬ、子供のころの話だ。
あれから十数年たち、再びこの町にやってきた。潮の香りがする。海沿いにあるのだ、ここは。
私は朱塗りの美しい本殿を見上げた。あの日と変わらぬままだ。
阿波島神社は、徳川家より奉納された雛人形や宝物が数多くある。そして祭神と八百万の神を祭り、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかといわれている。
蝉の鳴く今の時期は阿波島神社の最大の祭である雛祭りもなく、人の姿もない。しんとした境内を私は一人歩いた。
私がここへきた目的は、写真を撮ることだ。お盆休みを利用して来た。女で写真を撮るのが趣味というのも珍しいかもしれない。よく不思議がられる。私は日本の古い建物物が好きで、暇を見つけては車を飛ばし、写真を撮りに出かけるのだ。
「おねえちゃん」
ふと呼ばれ、振り向くと小さな女の子が立っていた。白い肌にまっすぐな黒髪を肩のところで切り揃え、この暑い季節だというのに着物を着た少女だった。見たところ、着物は木綿、いや正絹縮緬だろうか、薄い桜色の生地に、袖には夏の植物である撫子、桔梗、菖蒲の刺繍が施してある美しいものだ。襟口から見える襦袢は絽だ。夏を意識したものらしい。その少女は大振袖を引きずりそうになりながら私を見上げていた。
「お久しぶりね。やっと来てくれたのね」
私を見上げる少女はそう続けて、微笑んだ。
だが、私にはその少女と以前に会った記憶がない。
「どこかで、会ったかな? ……着物、暑くないかい?」
少女はそれには答えず、嬉しそうにきゃらきゃらと笑った。
紅を引いたように赤い唇が、白い肌に映えた。
「今日は浄火から火が上がっているのよ」
少女は階段の下を指さした。林の間からは煙がたなびいている。
「ジョウカ? それは、なにかな……」
単語の意味が分からない。
少女は意味ありげに笑って、くるりと回った。
可愛らしくふくら雀の形に作られた帯が見えた。帯も正絹の絽か、金糸銀糸で桔梗の柄の織られ、夏を意識したものだった。
「わたくしのこと、覚えていて来てくれたのではないの?」
笑うのをやめ、悲しげに私を見上げてきた。
少女の髪を結えた、鹿の子の紐が揺れた。
誰かと勘違いしているのだろうか?
「私は千早。斉藤千早。君は?」
少女に問うた。
「わたくしは桔梗。覚えていて下さらなかったのね」
少女は頬を膨らます。
「ごめんね。本当に知らないんだ。桔梗ちゃん、お母さんか、お父さんは?」
桔梗は首を横に振る。
揺れる濡れ羽根色の髪が、さらさらと音を立てた。
「桔梗ちゃんの髪は、絹のようだね」
私が言うと、桔梗は小さな手を腰にあてた。
「そうよ。わたくしの髪は、おかいこさんの糸でできているのよ」
自慢げに言う桔梗に、私はノリが良い子だなと思った。
素直に感心してしまった。今時、あまり見かけなくなった蚕を知っているとは。私が小さなころなど、家で桑畑を作り、蚕を飼うのは日常の風景だったものだ。
風も止んだ夏の神社は時が止まったようだった。
そこにいるのは、私と桔梗。そして蝉の鳴き声が響くばかり。
「神社に着物の少女か。合うなぁ。写真を撮らせてもらっても良いかい?」
「あら、わたくしを連れて帰ってくだされば、いつだってお写真撮れるわよ」
桔梗は口もとに袖を寄せ、微笑んだ。
大人びた笑いに私はどきりとさせられた。
「桔梗ちゃん、大人をからかうのは良くないよ」
承諾を得て、芳樟(ほうしょう)の木の前で撮らせてもらった。芳樟というのは良い香りのする楠の木のことだ。御神木だという。
私は額の汗を、持っていたハンドタオルで拭う。
だが、桔梗は着物を着ているというのに涼しい顔をしている。
「君は、暑くないのかい? その、着物が」
「着物は、普段着ですもの」
桔梗は答えて、意味有りげに笑った。
着物が普段着の子供なんて、今時いるのだろうか。
「次は……」
桔梗は、ついとたなびく煙に目をやった。
「焼かれるのは、わたくしの番かしら? あの浄火に焼かれるのは」
「何を言って……」
薄く微笑む桔梗に、私はうろたえた。
焼かれるとは一体。こんな小さな少女を誰が焼こうというのか。
「君は、何を言って……」
「助けて下さるために来たのではなかったのですか? ……迎えに来て下さったのかと思ったのにわたくしの独り合点だったと」
睨めるように私を見る目には涙がうっすらと滲んでいた。
「思い出して下さらないの? わたくしを、連れて行って。今度こそ、追いていかないで」
桔梗は小さな手でぎゅっと私の服を掴み、ぽろぽろと涙をこぼした。
私は答えることができなかった。目の前の少女は、今日初めて会ったのだから。
「これなら、……思い出して下さいます?」
桔梗が手を離した、そのときだ。一陣の風が目の前を横切った。
突風に驚き、私は帽子を押さえてとっさに目をつぶってしまった。
「な……!」
目を開けて、そこには少女の姿はなく、代わり砂利の上に市松人形がぽつんと倒れていた。
その着物は、桔梗のものと同じだ。
「まさか……、そんな」
そっと、壊れもののように抱き上げて人形の頬をみると、涙の伝った跡があった。
「こんな……」
黒曜石の瞳が私を言葉なく見上げる。
意味が分からず、呆然とした私に声が飛んできた。
「おい、そこのキミ! 勝手に本殿から人形を持ってきちゃいかんよ。それは供養して燃やさねばならんのだから」
いきなり声をかけられ、私は飛びあがるようにして振り向いた。
声の主は、神社の関係者の方だった。
「燃やすって……」
――次は……、焼かれるのはわたくしの番かしら?
桔梗の言葉が脳裏をよぎる。
そして、続けて浮かんだものは、十数年前の神社。そして、本殿にずらっと並んだ人形。その中の一体の市松人形。それを連れて帰りたいと必死になって泣き叫ぶ自分。
思い出す。ここが人形供養の神社としても有名だということを。
――必ず、迎えにくるからね! 待っててね!!
その人形に向かって叫ぶ自分。
「ああ……桔梗。君だったのか」
私は小さな桔梗を胸に優しく抱いた。
全て思い出した。
待っていてくれたのか。
あの日、小さな私は母に連れられて阿波島神社に来ていた。まだ肌寒い三月三日のことだ。
阿波島神社の雛祭りは、別名雛流しとも呼ばれている。
船に願いごとを書いた雛人形を乗せ海に流すことで、幸せを呼ぶという儀式だ。
母は、桐の箱の中に小さな手作り人形を入れていたのだ。私の幸せを願う言葉を書いて。
その帰りに本殿に並ぶ日本人形や市松人形を見た。ずらっと並ぶそれは壮観だった。怖いとは思わず、綺麗だと、宝のようだと思った。その中でも一等目を引いたのが桔梗だった。お誂えられた着物の帯は夏の花、桔梗が描かれていた。
それらの人形は供養を受けた後、燃やされるという。持って帰りたいと駄々をこねて泣く私の希望は受け入れられず、連れかえらねば見殺しも同じだと自分の無力さに泣いたあの日の出来事。
そのまま忘れてしまっていたが……。
「君はずっと、待っていてくれたんだね」
独りごちて、私は神社の方に向き直る。
「この子、私に下さい。大切に可愛がりますから!」
私はまるでお嫁さんを貰う婿のように、一世一代の礼をした。
「千早、わたくしを幸せにして下さいませね」
隣を歩く少女は、幸せそうに私の袖を掴んできた。
「私はまだ両親と同居しているが、君のことをなんて説明しよう?」
私は頭をひねる。嬉しい悩みというやつだろうか。
「千早のおうちに着いたら、人形の姿に戻ります」
桔梗は、微笑んだ。美しい笑みだった。
「貴女が迎えに来て下さって良かった。桔梗は神主さんの供養の言葉に耳を向けませんでしたの。そしたら、浄火で焼かれることもなく貴女をまっていられましたから」
そう言うと、桔梗は誉めてくれというふうに笑った。
「こちらこそ、約束を守れて嬉しいよ」
しかし、今どき町中を振袖を着て歩くというのは目立つ。家に帰ったら洋服もあつらえてやらねばならない、私はそう思った。
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