白梅舞う日の雛祭り

 

 風の冷たさも緩みはじめ、外を歩けば花の香りをかぐことができた。庭の梅はほころび白い花弁を開かせている。
「千早、お庭にうぐいすがおりましたの」
 桔梗が梅の木を指差して興奮したようすで言った。
「へえ。今年はずいぶん早いな。それじゃひばりもそろそろかな」
 私も二階の自室の窓から庭の梅の木を見下ろした。庭の梅は白加賀と呼ばれる白梅だ。五枚の可愛らしい花弁をつける。五分咲きといったところか。
「そういえばもうすぐ三月三日だね。母さんにお雛さまを出してもらおう」
 提案すると、桔梗はなぜだか憂鬱そうにうつむいた。
「雛祭り……」

 桔梗は、人間ではない。
 昭和初期に職人の手によって作られた市松人形だ。
 金糸銀糸で桔梗の柄が刺繍された帯を結んでいたのが印象的で、桔梗と呼ぶようになった。
 去年の夏にひょんなことで出会い、この家にやってくることになった。
 どうして人の姿になることができるのか、私はそう疑問に思ったものだが、桔梗は、
「長く生きると、どんなものだって魂を持つのです」
 と、こともなげに答えた。
 私は日本では八百万の神々、ツクモガミなどの伝承があるのを思い出す。そう考えると確かに不思議なことではない。

「阿波島神社でも、雛祭りは盛大に祝われておりましたわ」
 遠い昔を思い出すように言って、桔梗は目を伏せる。
 あそこにいたころのことを思い出しているのだろうか。
「私も小さな子供のころに一度だけ見たことがあるよ。あの神社の流し雛を」
 阿波島神社の雛祭りは雛流しと呼ばれている。人形に願いごとを書き、船に乗せて海に流すのだ。
「お日さまが高く昇って、おごそかな空気の中、海の果てに光の道ができるのをわたくしは本殿から毎年みておりました。いく年も……」
 ゆらゆらとみなもに浮き沈みしていた船。あの船には供養を受けた人形たちも乗っていた。あの白木の船に乗る人形たちは生きているようだった。流し雛は子供心に美しく、それでいて悲しく思えた。船は、二度と戻らない。いつか波に飲まれ船ごと沈むのだ。
 桔梗は、遠くを見るような目をした。
「わたくしが供養のお経を受け入れていたのなら、浄火で焼かれずとも船に乗せられていたかもしれません」
 そんなことを言い薄く微笑んだ。不安げな、寂しげな笑みだ。
 浄火、それは供養された人形が火にくべられることだ。阿波島神社では細くたなびく煙が上がっていた。人でいう火葬なのだ、浄火とは。
 阿波島神社は、雛祭りで有名だが人形供養の神社でもある。そして桔梗と私は阿波島神社の雛祭りで出会ったのだ。
「今はここにいるだろう? 大丈夫、もう二度とあそこへ戻ることはないんだよ」
 安心させるように頭をなでてやる。
「雛祭りは好きではありません……」
 桔梗はかたくなな口調で言ってそれきり黙ってしまった。

 桔梗は雛祭りが好きではないという。長いこといた阿波島神社で流し雛を見ていたのだろうから、恐れるようになっても無理はない。
「桔梗に雛祭りの良さを味わわせてあげたいなぁ」
 私は一人ごちて、居間の縁側から空を見上げた。
 桔梗は今、そばにはいない。このごろは一人で外へ散歩にも出かける。近くに住むお年寄りに公園であや取りやお手玉を教わったりして日常を楽しんでいるようだった。先日もお手玉が三つでできるようになったのだと、自慢げに見せてくれた。
「あ……、そうだ!」
 そのとき、私はあることを思いついた。そうなるとじっとしてなどいられない。立ち上がる、と居間を出て母の仕事部屋へと走った。

 一週間後の三月三日のお昼ごろのこと。
 私と母とで、客間の押し入れにしまってある雛人形を出だしていた。小学生くらいまでは毎年出していたが、それ以降は横着してさっぱり出さずじまいだった。
 桔梗は外へ出かけていて留守だ。子供は子供らしく外で遊んでもらっていないとね、などと母と談笑つつ雛人形の入っている箱を出していたのだが、これがまた骨の折れる仕事だった。我が家の雛人形は祖父母から贈られたもので十二段あり、人形、小物がしまわれた箱が大小いくつもあるのだ。母と私とで入れ替わり立ち代り押し入れにもぐって雛人形の入った箱を次々と出した。
「こんなとき、お父さんがいないと不便よねぇ」
「そうだね。こんなときこそ男手が必要だね」
 父は単身赴任で家にはいない。
 雛壇は鉄製でそれを組み立てていくにしても作業は難航した。パーツがやたら多い。日曜大工は苦手だ。

 庭では満開の白梅が花びらを舞わせている。
 雛壇が完成し、雛人形を飾りつけ終わるころにはニ時を回っていた。
 少し休憩しようかと話していたそのとき、玄関の引き戸が開く音とともに軽やかな足音が廊下に響いた。桔梗が帰ってきたのだ。
「千早、居間にいらっしゃらないと思ったら、こちらにいましたの? 今日は鞠つきをして……」
 客間へ足を踏み入れた桔梗の言葉が途中でとまる。雛壇を見上げて目を丸くしている。
「あらあら桔梗ちゃん、ちょうど良いところに帰ってきたわ」
 母が拍手を打った。
「おいで桔梗、ほら……」
 私は桔梗の手を引いて、客間に招き入れた。
「プレゼントがあるんだ。私が生地を見たてたんだが、どうかな。もちろん縫ったのは母さんだけどね」
 手渡したものに桔梗が驚いた顔をした。
「着てみてくれるかな。今日はね、桔梗が主役だよ。だって女の子だからね」
 それは薄紅色の花びらを散らせた、美しい柄の振袖だ。柄だけでない、物も良い。正絹だ。母と一緒に呉服屋に出かけ、桔梗に似合うであろう反物を貯金をはたいて買ってきた。それを仕立て屋を生業にしている母に雛祭りに間に合うよう、急いであつらえてもらったのだ。
「桔梗ちゃんの新しいお振袖、いいでしょう。お袖は無双にしたてるの。似合う人に着てもらって、着物も本望でしょうね」
 母はうっとりとした調子で言った。
「その着物、君にすごく似合うね。春らしくていい」
 少しうつむきかげんに微笑み、頬を薄紅色に染めた。よほど嬉しいのだろう。
 桔梗の濡れ羽色の髪がさらさらと揺れて音をたてる。
 春風の中、白梅を背に立つ桔梗は美しかった。まさに花の精ようだった。
「普通の女の子として雛祭りをしてあげたかったんだ」
「千早……!」
 桔梗はぎゅっと抱きついてきた。
「とても、とても嬉しいです。ありがとう存じます。あなたからはじめていただいた品ですもの、大切にします……」
「あは、そういえばそうだね。プレゼントは初めてだったかな」
 見れば泣いているではないか。ほおが濡れている。
「わたくし、こんな幸せな雛祭りは初めてです」
 私は慌てふためきながら指で涙をぬぐってやると、言った。
「さあ、楽しもう。ひなあられもあるし、白酒だってあるよ」
 片目をつぶって見せると、桔梗も泣きやむのをやめにっこりと微笑んだ。
 私は桔梗に上座の席を勧めた。
「……どうしたの、桔梗。ぼうっとして」
 立ち尽くしたままの桔梗に声をかけた。
「ええ、雛祭りっていいなって思っていたところでしたの」
 言って桔梗はやわらかに微笑んだ。その笑みにはもう陰りはなかった。
 庭では白梅が花弁を雪のように散らせている。

 

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