火の山の竜
第1章 第4話
〜咆哮 大草原の歌〜
そこはすでにレザリア大草原だ。
二人は声もなく立ち尽くす。とうとう大陸一の大草原へ足を踏み入れたのだ。広大な草原は二人の前に静かに横たわっていた。
見渡す限り地平線まで草原が続いている。秋の夕日の色に染まる草原はサラサラと揺れ、空は高く澄んでいた。太陽の沈む方角に切りだった青い山脈が見え、早くも山頂はうっすらと雪化粧をしている。冬が近い。
日の入りも、もう間近まで迫っている。宵の色に染まる大地。西の大陸一の大草原の夜の始まりだ。
「夕方になるとやっぱり肌寒いわね」
リラはマントの前を合わせながら、両肩をかき抱いた。
「そろそろ野宿するところ、探さないとね。夜になると面倒だから」
二人はほとんど獣道と化しているレザリア大平原を横断する一本道を歩いていた。
「ここは夜になると『人喰い』って魔物が出るって。でも、このレザリア大草原を抜ける他、手はないしね」
南北に広がるこの大草原を抜ける他、東の大陸へ行く術は事実上ない。
先に歩くロウの後ろ姿を見ながら、リラは思った。本当にロウは綺麗な少年だと。
歩くだけでも身のこなしが美しいのだ。ほっそりとしたまだできあがっていない少年の体つき。とてもではないが戦士を目指す者には見えない。腰に下げている剣が不相応に見えた。
そして、気づく。
自分がロウについて、何も知らないことを。
(あたし、ロウのこと、なんにも知らない)
秋の風にロウの切り揃えられた短い黒髪が揺れる。細い首筋が見えた。
「ねえ、リラさん。あそこの木の下で今日は休もう」
パチパチと焚き木の火がはぜる。
とうに日は沈み、大草原は星々の明りとリラたちの焚き木の火の明りほか、墨で塗り潰したように暗い。
焚き木をはさみ向かい合う二人の顔を、炎が赤々と照らし出した。二人はめいめいの食料を取り出す。干し肉に、乾パン、チーズなど簡単な食事だ。
「少し火であぶると、柔らかくなって美味しいんだよね。こんな食事でもさ」
ロウはそれらを火にかざす。リラもそれにならった。
サワサワと草原を撫でる夜風の音が響く。
(本当にあたしはロウのこと、ぜんぜん知らないんだ)
それでも、リラはロウと一緒に旅がしたいと思ったのだ。
スライムたちと戦ったとき、最後の一匹から自分を救ってくれたあのとき、ロウならば信頼できると、安心して一緒に旅ができると思ったのだ。だから、友人たちとの旅を断わり、ロウを選んだのだ。
「あ、あの、ロウ……?」
切り出してみたものの、リラは口をつぐんだ。
「う、ううん。なんでもないわ」
笑って誤魔化した。
「そう? 変なリラさん」
ロウはおかしそうに笑う。
ロウにはかたくなに全てを拒もうとする何かがあることに、リラはやっと気づいた。
普通に話す分にはそれに気づくことはない。優しい笑みに隠れてしまう。
(あたしは何も知らない。でも、もっとロウのこと、知りたいと思う)
「リラさん、焦げてる!」
ロウの言葉にリラは我に返る。考えごとをしているあいだに、干し肉がくすぶり始めていた。チーズもとろけて今にも落ちそになっている。辺り一面に香ばしい匂いが広がっていった。
「あ……あう」
リラは慌てて2つを火からおろす。干し肉は真っ黒に焦げてしまってもう食べられそうもない。リラはがっかりして肩を落とす。
ロウは少し笑って、自分の干し肉をリラに半分渡した。
「はい。半分こ」
「……ありがとう」
リラはしどろもどろになりながら答えて、それを受け取った。
再び二人は無言になり、ただ焚き木の明りを見つめていた。
「リラさんは、どうして僕のこと何にも知らないのに一緒に来ようと思ったの?」
焚き木を見つめたまま、ロウが口を開く。
リラは言葉に詰まったように、いつもの元気はどこへやら、たどたどしく言葉を返す。
「そんな、……知らなくったって、これから、知れば……」
リラの言葉に、ロウはにっこりと微笑んだ。心に染み入る笑顔だった。
「ごめんね、僕のほうこそ。本当は一人で旅をするのは辛いって心のどこかで思ってて。だからリラさんのこと、無理に道連れにしちゃった感じだし。僕のわがままだね」
言って、ロウは薄く自嘲気味に笑った。
リラは首を横に振った。
「あたしこそ、無理やりに一緒に行くって言ったんだからおあいこよ」
そして、二人は顔を見合せ、クスと笑った。
「ねえ、ロウはどうして火の山の竜を……」
リラがそう訊ねたそのときだ。
向かい合う形で座っていたロウが、リラの隣に来るなり彼女を組み伏せ、手で口を塞いだ。
リラは驚き、じだばたともがく。
だが、少年のその華奢な身体のどこにそんな力があるのか、リラがいかにもがこうとびくともしない。
「……静かに。『人喰い』だ。できるだけ息をせず、動かないで」
ロウの声がリラの耳もとで低く響く。
ざわりと空気がよどんでいく。
生暖かい空気が流れた。
「動いちゃダメだ」
リラは、見た。
空中に浮かぶ、黒く奇怪な羽を広げた生き物を。
月がその羽に隠れた。
(魔物だ)
そして初めて思い知ることになる。レザリア大草原がどうして恐れられているかを。
ぶるぶると震えるリラの手を、ロウの手が押さえた。
赤く妖しく光る大きな目。耳もとまで裂けた口にはのこぎりのような、牙ともつかぬ歯が見え隠れする。その歯は三列に並びがっちりと噛み合っている。ゆったりと揺れる尾の先端には無数の針がついた丸い塊があった。
(人を食らう魔物。マンティコア……)
老人の顔に、獅子の身体。蝙蝠の羽に、毒針の尾。
体長は人間の大人の二回りもほどもあろうか、深紅の巨大な魔物だった。
リラも、ロウも、マンティコアを見るのは初めてであった。
それは二、三度、羽ばたきをして地面に降り立った。その姿はどっしりと落ち着き、自信に満ち溢れていた。
「ワシの深紅の毛皮のゆらめきは、大草原に溶け光り輝く」
声がした。マンティコアが口を開いたのだ。
ゆったりと一歩、近づいてきた。
「ワシのチクチクとした尾は、百の軍隊を八つ裂きにする」
しゃがれた老人の声で、マンティコアは歌うように喋った。
また一歩、リラたちへ近づく。風に乗り、腐臭がした。
リラは震えることしかできない。
ロウは息を飲み、片手を腰に下げた剣の鞘へと伸ばした。
対するマンティコアは面白がるかのように二人を見下している。
マンティコアが尾を揺らした。
「……くっ」
澄んだ金属音が響く。
ロウがとっさにショートソードを抜き、マンティコアが飛ばしてきた尾の針の一本を弾いたのだ。
他の四、五本の針は、ロウの背後の木の幹に深く刺さっている。
「刺さったら、動けなくなる。危なかった……」
ロウの額に、冷え込む夜だというのに汗が流れる。
マンティコアは尾の毒針を吹き矢の矢のようにあちらこちらに飛ばし、毒で麻痺して動けなくなった人間を食い殺す。そして、食欲は際限なく一個の軍隊さえ食い尽くすと言われている。
(レザリア大草原が、『帰らずの原』と呼ばれるのは、マンティコアのせい)
そんな化け物に駆け出しの冒険者である自分が敵うわけがない。ロウは分かっている。それでも、目の前のリラだけは守らなければと思った。ロウは剣の柄を握る。手にじっとりと汗が滲んだ。
「ほぉ……! 小僧、よくぞ我が毒針を避けた。面白いわ」
暗闇でも分かるほど二人のすぐ側まで近づいてきたマンティコアは、大きく咆哮を上げた。笑っているのだ。
マンティコアの身体をよく見ると、毛皮がてらてらと濡れたように赤黒く光っている。血だ。べっとりと血が付着して、毛皮が深紅に見えるのだ。腐臭が酷い。
「お前たちを食らってやろうかと思ったが、ワシは今、腹がいっぱいだ。よい具合に草原を商隊が通りかかってな。丸ごと食ってやったのだ」
その血は返り血なのだと、ロウは直感する。マンティコアはどこかで食事を済ませたあとなのだ。
マンティコアは王者の貫禄を漂わせ、にたりと老人の顔で笑うと二人に背を向けた。
「今日は見逃してやろう」
草原の茂みに消えながら、マンティコアの声が闇夜に響いた。
彼は自分の縄張りを巡回していた途中だったのだろう。
しばらく二人は動くことができなかった。初めて、死と隣り合わせの恐怖を味わったのだ。
再び大草原は静寂を取り戻した。
「僕は、弱い。もっと強く、ならなくちゃいけない。そう……ければ……できな、いんだ。……様のために」
ロウの声は震えていた。流れる汗が頬を伝う。
焚き木の火の明りに見えるロウの顔は蒼白だった。
「ロウ……」
リラは何と声をかけてよいか分からなかった。
そんなことはない、マンティコアから自分を守ろうとしてくれたじゃないか。その言葉は喉まで出かかって止まってしまう。
「こんなことじゃいけないんだ。……力が、欲しい」
リラには、ロウが何か得体の知れないものに押し潰されているかのように見えた。彼を遠く感じた。
(あたしは本当にロウのことを、何も知らない)
リラは、少年にかける言葉を見つけられないでいた。
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