火の山の竜
第1章 アナザーストーリー
〜召喚 月夜の晩に〜

 

 しばらくのあいだ、リラとロウはスカッシュの家に居候することになった。
 ソウは毎食、手作り料理を振る舞ってくれた。前掛けをして髪を一つに結わえ、鼻歌を歌いながら料理をしている。手つきは慣れたもので、てきぱきと料理をこしらえていく。どう見てもその姿は魔族には見えない。
「ソウちゃんって、やっぱり魔族に見えないわ。あたしもこんなお父さん欲しい」
 リラは、うっとりとした目でソウを見つめた。彼女の父親像はソウのおかげで歪んだらしい。
「欲しけりゃどうぞ」
 スカッシュはナイフを磨きながら、ちらりと父親を一瞥する。それから少し呆れたようすでため息をついた。
 母親が早くに死んでから男手一つで育ててくれたことには感謝しているだろう。だが、あのような調子なのでスカッシュとしても思うところがあるらしい。

 夕食時。
「あれ、ロウは?」
 リラは、少年の姿が見えないことに気づいた。
「昼寝してたぜ。っていうか、もう夜だけどな。よく寝てるんで起こさなかった」
 スカッシュは皿の上の料理をつつきながら答えた。
「ふぅん」
 リラは、あいづちを打つ。
 少年がこのごろ元気がないことを思い出した。
 竜帝国にやってきてからというものの、思い詰めたような表情をすることが多いのだ。
 リラは後でわけを聞いてみようと思った。
 それから、ソウへと視線を移す。彼が食事をしているところをほとんど見たことがなかった。たまに食事をしていても、口をつける程度といったところだった。
「ソウちゃんは、食べないの?」
 食事はとても美味しかった。なのに手をつけないのはどういうことだろうか。身体の具合があまりよくないと聞いていたので、それが関係しているのかとリラは少し心配になる。
「ボクは、魔族ですので人のいうところの食事はあまり必要としないのです。食べられないわけではないのですが、必要ないのです」
 曖昧に微笑んでソウは、食事の続きをどうぞと言ってきた。
 そのとき、何気なく階段に目をやったリラはすっとんきょうな声を上げた。
「スラ、スラスラ……!」
 階段を指差して、わなないた。
「は? スラスラ?」
 スカッシュが、意味が分からないと聞き返した。だが、そちらを見て椅子から転げ落ちた。
「ス、スライム!?」
 スカッシュはしりもちをつき、階段の上のほうから流れ降りてくるスライムを見た。それは確かにスライムだった。薄く透けた緑色の身体を揺らしながら、人よりも大きなスライムが階段から降りてきている。
 スカッシュは慌てて立ち上がると、少女を自分の後ろへ下がらせた。
「あ、あたし、呪文暗記してない。それに杖を部屋に置いてきちゃった!」
 リラは青年の背の後ろで慌てふためいた。まさか家の中で魔物に遭遇するとは思ってもみなかったのだ。
「どっちにしろ、火の呪文も雷の呪文も家の中じゃ使えないぜ。家が焼けるしなぁ」
 スカッシュは、ジロリと父親を睨む。
「なんで家ん中にスライムがいるんだよ? おい、オヤジ、あんたの仕業だろ!?」
 ソウはのんびりとスライムの方へ目をやり、ポンと手を打った。
「ああ、あれはボクが育ててるんです。五層の冥府から召喚した変種ですよ、すごいでしょう!」
 嬉々として答えた。
 スカッシュは、肩を落とす。本気で呆れたらしい。
「あのな、オヤジ。変なモノを家の中で飼うのは止めてくれない?」
「せっかく召喚したんですよ……」
 ソウは間を置かずに切り返すと、言葉を続けた。
「いいですか、そのスライムはですね、普通のスライムと違うんですよ。普通のスライムは自分に接触するものを何でも溶かしますが、それは服だけ溶かすんですよ!」
「…………は?」
 スカッシュは意気揚々と語り出す父親に、冷ややかな視線を投げた。
「――試してみたいと思いませんか、スカッシュくん?」
 すいと目を細めて、ソウはリラに目を向ける。何かをたくらんでいる目だ。
「何を言って……」
 青年が言葉を返そうとしたそのときだ。やおらリラが床にひざをついた。
 スカッシュは驚いて振り返る。
 リラは顔を紅潮させ、肩で苦しげに息をしていた。眩暈がするらしく頭を押さえている。
 スカッシュは何かを悟ったかのように、父親をきっと睨みつけた。
「人の友達に何やってんだよ!」
 声を荒らげ、父親に詰め寄った。
 当の本人であるソウは、涼しい顔をしてリラのようすを見ていた。
「今日のお夕食に、よいものを入れておいたのです」
 楽しげな口調でソウは続ける。
「彼女の分に、媚薬を」
「っざけんな……」
 スカッシュが殴りかかるより早く、ソウは呪文を完成させていた。小さく呟いた呪文は、昏倒の魔法。
「そこで少し寝ていて下さい」
 ソウは冷たく笑っておやすみを言った。
 スカッシュは気を失い、その場に音を立てて倒れた。
「スカ……ッシュ……」
 リラは、ぼやける意識の中、倒れ伏した青年を見た。自分を守ろうとしてくれた青年を。
 ぴくりとも動かないが、息はある。
 何が起こっているのか、リラは理解できなかった。
 親子喧嘩には見えない。
 先ほど、食事に何やら薬を入れられたというのは分かった。身体が、熱く火照った。自分の身体に変化が現われはじめているのは分かる。
「ソウちゃ……」
 顔を上げ、リラはソウを見た。
 彼は、楽しいと言いたげにリラを見下ろしていた。
 深く息を吐いて、苦しさを逃がす。今までに味わったことのない苦しさだ。
 熱を帯びた身体が痺れた。徐々に弛緩していくのが分かる。身体の奥が疼く。
「お嬢さん……」
 頭上でソウの声が聞こえた。
「逃げないと、捕まってしまいますよ」
 クスクスと笑い声が響く。
 ぬるりと生暖かい感触が足に、手に、足に身体全体にかかっていく。
 ぼんやりとした頭で、それを認識したときには遅かった。身体にねっとりとスライムがまとわりついていた。
「……っ!」
 逃げようにも、身体がいうことをきかない。それ以前に絡みつくそれに押さえつけられて動けなかった。
(ソウちゃん、このスライムは身体は溶かさないって言ってた……けど)
 たしかに皮膚を溶かすようすはない。
 だが、少しずつ着ている服だけ溶けていくのが分かる。
(皮膚と服を選んで、溶かしてる?)
 働かない頭でぼんやりと考えた。
 のろのろとしているうちに、服は溶かされ、白い肩口と太ももがあらわになる。
「や……ぁ」
 それだけ呟いてうずくまる。
 薄緑に透けるスライムは、リラの身体を這い上がる。冷たく、それでいて暖かい感触がリラを包む。
 はらりと二つに結わえていた髪紐がほどけた。下ろされた蜂蜜色の髪が背にかかる。
「ソウちゃ……、やめ……」
 冗談にもほどがあると、ぼやける意識で思った。
 ほとんど服を溶かされてしまい、薄い乳房があらわになる。リラは慌てて片腕で胸もとを隠す。
「これで邪魔ものはいなくなりましたし、仲よくしましょう。リラくん……」
 リラの顔からさっと血の気が引く。
「先ほど、どうして食事をとらないかと聞きましたね。ボクたち魔族は基本的に人の食べ物は口にしないのです。ですが、食事をしなければそれなりに弱っていきます」
 あごに手をかけられる。上向かされた先に、支配者の顔で微笑むソウがいた。
「ボクたちの食事というのは、貴女のように魔力を持つ人間なのですよ。そういう人間たちの体液が力になります」
 さらにリラの顔が青ざめた。
 ソウは自分をがぶりと食べてしまうのかと食人をするのかと想像するだけで、背筋を悪寒が走った。
(小さいころに魔族は恐いものだっておばあちゃんに言われたのは、こういうことだったんだ。どうしよう……)
 恐怖に身体が震えた。
 もはや、身体の火照りなど吹き飛んでしまっていた。
「あ、あたしなんか、まだ子供だし、お肉ついてないから美味しくないわよ」
「いえ、発展途上中というのも美味かと……」
 ソウは値踏みするかのように薄い唇を引き上げる。
 小さいころに祖母に聞かされたお伽話に出てくるウワバミのことを思い出した。ウワバミはどんなものでも丸飲みしてしまうという。
 自分も一飲みされてしまうのだろうか。リラはそんな想像をして身震いした。
「い、痛いのは嫌だもの」
「痛くないようにしますよ」
 ソウはクスクスと笑った。
 ふとリラは姉の危機だというのにのん気に寝ているロウのことを思い出した。
 ソウもソウで、悪ふざけが過ぎる。
 そう思うと今度はだんだん腹が立ってきた。
「ロ、ロウ……」
 少年の名を呟いて、
「起きなさいよー!」
 リラはあらん限りの声で叫んだ。
 居間の扉が開いたのはそれと同時だった。
「……リラさん、呼んだ?」
 そこには眠たげに目をこするロウが立っていた。
 ほとんど全裸のリラと、それを見下ろすソウ、そして倒れているスカッシュを見て驚いたようだった。
 だがすぐに怒ったような表情を見せると、つかつかと歩み寄り、汚れることも構わずリラを抱きしめた。
「リラさんは、僕のだ!」
 そのままの姿勢でリラは一瞬固まった。一何を言い出すのかと思うと力が抜けた。
「……あたしは、誰のものでもないわ」
 リラは少年が寝ぼけているのだと確信した。目がすわっている。
 人をもの扱いするとはふざけているとリラはいよいよ頭にきた。
「ロウくん、邪魔をするなら少し寝ていてもらいましょうか」
 すいと手をかざす。小さく呪文を唱えた。先ほどスカッシュに対して唱えた昏倒の魔法だ。
 ロウは倒れない。
「ソウさんの魔法、僕には効かないです」
 余裕ありげニヤリと笑った。
 そして、服のたもとから小さな札を取り出した。
「護符(アミュレット)です。心を惑わす魔法を防ぐものです」
 少年はひらひらと札を見せた。
 ソウは驚いた顔をした後、むっとしたような顔をした。
「それをどこで手に入れたのです?」
「町の占い師さんから買ったんです。……でもまさか本当に効き目があるなんて思わなかった」
 少年は、しみじみと札を見ている。半信半疑で買ったものらしい。リラにも後で買いに行くとよいと勧めている。
「……どうしましょうか。こうなればロウ君を巻き込んで、一緒にリラ君を美味しくいただくとか」
 ソウが顎に手をあて不吉な独り言を呟いた。
 間をおかずにロウの投げた靴が彼の頭に直撃した。
「なんてこと言ってるんですか、ソウさん!」
 少年は耳まで真っ赤になりながら叫んだ。
 リラは意味が分からずきょとんとしている。
「いきなり靴を脱いで投げることないでしょう!」
 ソウも目に涙を浮かべて頭をさすっている。
「そうだ……」
 ふいにリラは呟いた。続けて、
「あたし、一つだけ暗記してる呪文があるの。……まだ、試したことがないんだけど」
 自信がなさそうに弱々しく言った。
 それは小さなころ、祖母の部屋で見つけた呪文書に載っていた魔法だった。詩のような呪文が気に入って、何度も見ているうちに暗記していたものだ。安易に口にすれば危険だということは承知していた。そのため声に出して唱えたことはなかったのだが。身を守る魔法なのだと、呪文書には書いてあった。
 だが、魔法を使うには媒体が必要だ。リラは媒体である杖を部屋に置いてきてしまっている。
「ソウちゃんに通じるか分からないんだけど」
 リラは、ゆっくりと立ち上がる。足にスライムが絡みついて気持ち悪かったが気にしている場合ではなかった。このさい、肌が人目に晒されることも気にしてはいられない。
 溶けずに残ったもの、それは首から下げている竜の首飾りだ。
 リラはそれを外すと、手の平に乗せた。
 首飾りを媒体にするつもりなのだ。
「五つ野より……来れ。深淵の迷いの森に住む主よ……」
 リラの目の前に魔法陣が編み上げられていく。部屋の中の空気がよどみ始めた。
 隣にいるロウが顔を歪め口もとを押さえた。部屋のよどみの正体は、瘴気だ。
「迷いの森の主よ……来れ」
 その呪文を聞いて、ソウがはっとした表情を見せた。
 信じられないといったようすだ。
「リラくん、それは……その魔法は……」
 ソウが何か言いかけたが、リラの呪文詠唱は止まない。
 少女の目の前に完成した魔法陣は古代語ともう一つ、魔族語が書かれていた。
 完成しつつある呪文は召喚魔法だ。
「来れ、五つ野に住まいし、迷いの森の主よ!」
 魔法陣に描かれた文字の輝きが、純白から墨色に変わる。
 蒸気のようなもやが魔法陣を包み、冷たい空気が部屋を満たした。
「な……、ま、ま……!?」
 リラの後ろに立つロウはどもりながらそれを凝視した。
 もやが薄くなると、魔法陣の上にはローブを身にまとった小柄な人物が、リラと向かい合う形で立っていた。
「お呼び出しいただき、誠にありがとうございます」
 魔族が口を開く。なんと声は少女のものだ。鈴が転がるような可愛らしい声だった。
 土色のフードを目深に被った少女は身長からしてリラとたいして年が違わないだろう。フードのあいだからこぼれる髪は金色。ソウやスカッシュと同じ色だ。
「現在、迷いの森の主は不在につき、代理のわたくしが参りました。ご了承ください」
 事務的な口調で述べる。
「……は、はぁ。あなたは魔族なのよね?」
 リラは目の前の少女におっかなびっくり声をかけた。
「そうです。ただいま契約促進期間中につき、一つ目の願いは代償をいただきません。大変お得になっていますよ。契約なさいますか?」
 魔族の少女は、やはり声のトーンを変えずにたんたんと話しかけてきた。何かの商売のようだ。
「お試し期間もあります。仮契約からどうでしょう?」
「リ、リラさん。だ、駄目だよ。相手は魔族だよ?」
 ロウはリラを止めようと必死だ。
「仮契約するわ。それで後ろの人とあたしの身体にまとわりついてるコレと、悪ふざけしてるあの人ををどうにかして」
 リラはこのさい魔族でも天族でもいいから助けてほしいと思った。
 わらにもすがる思いと言えば言葉がよいが、やけくそである。
「承諾しました」
 魔族の少女は言って、フードを取った。やや目じりの釣り上った金色の瞳がリラを見つめる。
「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
 伸ばされたしなやかな腕が、リラの手をとらえた。
「リラ。……リラ・バーバリアン」
 不思議と恐怖はなかった。
「よい名前ですね」
魔族の少女の手は暖かく柔らかかった。
「な……何?」
 手を離された後、自分の手の平を見たリラは驚きの声を上げる。手の平に見たこともない文字が描かれていた。魔族語ようだった。
「仮契約の印です。普段は消えていますのでご心配なく、ご主人。わたくしの名はラルクです。今後ともよろしく」
 ご主人と呼ばれてリラはまた目を丸くした。何度呼ばれても慣れそうにない呼ばれ方だった。
「それでは、まずは……」
 ラルクは、リラの足に絡みつくスライムを見下ろし、それからソウの方を見た。 呟きだした呪文は魔族のものではなく、なんと人間の使う四大元素魔法だった。
 ゆっくりと腕を上げる。その指には不思議な色をした指輪が輝いている。指輪を媒体にして魔法を使うらしい。
「流れる水よ」
 それは水の魔法だ。
「生命の源よ……」
 詠唱は続く。まるで歌のようだった。
 卓の上に置かれた杯の水が揺れた。共鳴しているのだ。
 魔法には二種類ある。人間の使う四大元素魔法、魔族の使う闇魔法だ。前者は自らの魔力と古代語を駆使し、地水火風の四大元素に干渉するもので、物質的な魔法だ。そして後者は強大な魔力と魔族語で相手の精神に干渉し操ることを得意とする魔法である。
 リラが火風を使うのに対し、ラルクは水土を使うらしい。この組み合わせは対なすものなのだ。
「水に帰れ」
 最後の一声で、スライムが泡立つような音を立て始めた。
「煙……!?」
 リラは声を上げる。
 水の魔法をこうして間近で見るのは初めてだった。
 それは蒸気だった。スライムの体内の水分が蒸発しているのだ。
「あたしは、大丈夫なのね……」
 リラは自分の身体の水分も蒸発してしまうのではないかと気が気でなかったが、その心配は無用だった。
 スライムだけが対象となっているようだった。
 しだいに形を失い、とうとうリラの身体にまとわりついていたスライムは跡形もなく消えてしまった。床には染みの後さえない。
「ご主人、これを」
 ラルクは自分の羽織っていたローブを脱ぐと、リラに渡した。
 リラは自分が半裸の状態であることを思い出し、慌てて受け取った。
 ローブの下は、竜帝国の女性の着る衣を身につけていた。
 前合わせの衣は薄紅色で、艶やかな花の刺繍が裾に施されている。帯は背中で可愛らしく花の形に結わえられて、金色の髪は高く結い上げられてふっくらとした紐で結ばれていた。
 少女はリラよりも一、ニ歳年下に見えた。小柄で華奢な体つきだ。
「あ、あなた竜帝国の人間なの?」
 ローブを受け取り身に纏いながら、問うた。
 魔族の少女は身じろぎもせずに答えた。
「……わたくしは魔族です。そんなことよりご主人、身体を清めて着替えをなさったほうがいいですよ」
 リラに背を向けて続けた。
「後はわたくしにまかせて下さい」

 リラとロウが家から出て行くのを確認してから、ラルクはソウに向き直る。
 冷たい目でソウを見た。
「……最低」
 魔族の少女はソウに向かって呟くと、見下したような視線を投げる。
 対するソウは、引きつった笑みを少女に返した。
「最下層、『迷いの森』の主が行方不明になったと思ったらこんなところにいらっしゃるし……」
 もう一度ラルクは呟いた。
 続けて、
「仕事なので、あなたをどうにかします」
 ラルクは卓の上の花瓶から花を一輪取ると、呪文を唱え始めた。呟く呪文は土の魔法だ。
「世界樹よ、大地を守りしものたちよ……」
 呪文と共に手に持った花の茎からつるが伸び、葉が増えていく。ざわざわと音を立てて繁っていく。葉は重なり合い、密に生え出ていく。
 意思を持った動物のようにくねるつたは、少女の命令を待っていた。
「抗うものを、いましめよ」
 ラルクの声が部屋に響いた。
 合図を待っていたかのようにつたが一斉にソウめがけて駆けた。
 ソウも呪文を唱えた。障壁の魔法だ。だがつたはそれを突き破り、彼の腕と胸を貫いていた。
 ラルクは目を見開いた。
「……父様!」
 叫んで、血だらけで倒れているソウの側に駆け寄った。
「あのくらい弾けぬようでどうするのです。あんな、人の魔法を」
 少女はあえぐように言って、言葉を続ける。
 ソウが自分の魔法を弾くと思っていたのだろう。
「五つ野に戻らないから弱ってるのですね? どうしてそこまでして人の世界に執着するんです!」
 呟いて、怒ったような悲しげな顔でソウの側にひざまずいた。
 ソウの深緑色のローブは血の色に染まっていく。辺りにも血が飛び散っていた。
「けっこう……こちらも居心地がよいんです……よ」
「うそつき。弱るいっぽうでしょうに」
 ラルクは呪文を唱える。淡い霧が身体を包み、みるみるうちに傷口が塞がっていく。それは水の魔法に属する癒しの呪文だ。
 だがその呪文は傷を塞ぐだけだ。体力までは戻らない。ソウはぐったりとして立ち上がれずに横になったままでいる。
「おじい様も父様が戻ってくるのを待ってます。早く戻ってきて下さい」
 少女は立ち上がると振り返らずに言って、そのままスカッシュのところに歩み寄りため息をついた。
「母親は違えど、お互いあのような親を持つと苦労しますね」
 目を閉じたままの青年の額に触れて、今度は魔族語の呪文を唱え始めた。昏倒の魔法を解いたのだ。
 気がついたスカッシュは少女の姿をとらえる。
「嬢ちゃんは……!? あれ、ラルク……? どうした、きてたのか?」
 頭が痛むのか、スカッシュは頭を押さえながら少女に訊ねた。
 驚いたようすだ。
「仕事にきているんです。それより父様が。純血の魔族がこのくらいで死んだりしないでしょうけど、後を頼みます。すぐに戻りますから。リラ様をお迎えに行くんです」
「リラ様って、まさか……契約……」
 スカッシュは呆然としたようすで呟く。少女が言うところの仕事の意味を理解しているのだ。
「仮契約ですけどね。契約、まだ今月になって一件も取れていないんです。こんなことじゃ、わたくし一人前の魔族になれません」
 ラルクは遠い目をして呟いた。魔族にも色々悩みがあるらしい。
 スカッシュは、血まみれになって起き上がらない父親を見てぎょっとした表情をした。
「わたくしごときの無位魔族の魔法を避けられなくなるほど弱っているのですね、父様は」
 ラルクは顔を歪めてそれだけ言うと、窓の桟に足をかけた。
「出口はあっちだぜ」
 スカッシュは扉を指差す。
 だが、少女は首を横に振った。
「いえ、こっちからのほうが近そうなので」
 少女は空中に一歩足を踏み出す。身体がふわりと浮いた。
「羽があるって便利だな」
 スカッシュは口笛を吹く。
 少女の背には闇色の羽があった。羽はコウモリと同じ皮翼だ。それを二三度、羽ばたかせるとラルクは空中で止まる。
 黒い羽は月の光を受けて、美しい輪郭を浮かび上がらせていた。
「そうでもありません。こんなもの、人にはないでしょう?」
 ラルクは自嘲するように笑う。どこか悲しげな顔だ。
「……ごめん」
 スカッシュが気まづそうに謝ると、少女は気にしないでくれと言い、川づたいに飛び去っていった。
 少女が行ってしまうと、スカッシュは慌てたようすで父親のもとに走った。

 リラは、素足を川の水に浸した。それから、深さを確かめるように慎重に中ほどまで進んでいって立ち止まる。腰ほどの深さの場所だ。水は冷たすぎず、気持ちがよかった。
 月明かりにリラの裸が照らされる。
「リラさん……、水浴びなら一人でくればいいのに。なんで僕を連れてくるのさ」
 ロウは目のやり場に困ったように俯く。
 成長しきっていない幼い身体にはとても色気と呼べるものはなかった。それでも異性であるリラが裸で目の前にいれば、いくらロウでも困るらしい。
「だって、こんな夜更けに一人で水浴びなんてしてたら危ないもの。あなたは護衛よ。弟なんだから姉を守ってちょうだいよ」
 リラ隠すようすもなく素っ裸のまま水の中で仁王立ちをして言った。
「少しは隠してよ、リラさん……」
 力なげにロウは呟いた。
 リラはおかまいなしだ。水に浸り、汚れた身体と髪をすすいでいる。
「もー、ソウちゃんってば、絶対に許さないんだから。何かおごらせてやる」
 リラは、川の中で叫んだ。
 ソウの冗談は、冗談に思えなかった。はなはだ迷惑な冗談だった。リラは、熱くなった頭を冷すように水に潜ろうとした。だが、川底の苔むした石に足を取られ、派手にすっころんだ。水しぶきが高く上がる。
 真っ暗な川の水の中で、一瞬上下が分からなくなったリラは、焦ってもがいた。
「リ、リラさん!」
 ロウは慌てて川に入ってくるとリラを腕を掴み抱え起こしてくれた。
 リラは水を飲んでしまってむせながら立ち上がる。
「い、痛い〜。腰を打っちゃった」
 リラはもとより服のまま川に飛び込んできたロウも濡れネズミになった。
「気をつけて。海まで流されちゃうよ」
 少年は本気で心配したのだろう。親が子を叱るように言って、恐い顔をした。
「ごめんなさい。気をつけるわ」
 リラは言って、口を尖らせる。弟に叱られるのは気持ちのよいものではない。
「身体、冷たいよ。もう上がりなよ」
 頬と触れてくる。
 夜もふけて気温も下がってきていた。川の水もけっして温かいものではない。
 ロウの言うとおり、体温を奪われ身体は冷たくなってきている。
「分かったわ。でも、あなた弟のくせに偉そうな口をきかないでよ」
 リラは姉としての威厳を取り戻そう、睨みつける。
 それを見て、ロウは苦笑した。
「僕はリラさんのことを姉だなんて思ったこと、一度もないよ」
 水から上がろうとしたところを手を引かれた。ガクンと身体が止まる。
 ロウは意味ありげに笑う。
「リラさん、もっと仲よくしようか」
 ソウが言ったようなことを呟いてロウはリラの手に、己の指を絡めてくる。
 腰を引かれ、抱きすくめられる。
 目の前に少年の顔があった。
 次の瞬間には唇が重ねられていた。冷えた唇に、暖かく薄い唇が重なる。
「……っ」
 少年を突き飛ばすとリラは川から上がり、慌てて土手を駆け上がった。途中、脱ぎ捨ててきたローブを掴む。
「仲よくって、……今のままで充分よ! 冗談はやめて」
 月明かりを背に受けながらリラは言った。
 赤くなった顔を見られたくなかった。運がよく逆光で助かった。
 ロウは、川の中に立ったまま不思議な色の笑みを浮かべ、リラを見上げていた。
「リラさん、早く服を着ないと風邪引くよ。いくら竜帝国が暖かいって言ったって秋なんだから」
 その言葉にリラは慌てて、身体を隠す。
「あたし、先に帰るわ」
 踵を返し、土手を走り出した。
 リラが見えなくなると、ロウはぼそりと呟いた。
「冗談なんか言ってないのに」

 からかわれた。
 弟だとばかり思っていた少年が見せた男性の表情に戸惑った。
 足をゆるめ、ローブを着る。濡れた身体に衣がまとわりついた。
 履物を川原に忘れていてしまったのを思い出したが、取りに行くのはためらわれた。またからかわれたらたまったものではない。
 腰まで届く、下ろした髪からも雫が落ちる。拭くものを持ちあわせていなかったので、そのままで歩いた。少し肩が冷えた。
 リラは、夕食のときに起こったできごとを思い出していた。ソウは悪ふざけがすぎたし、ロウも自分をからかってきた。そしてあの魔族の少女との契約。
「誰かに似ていた気がするのよね……」
 独りごちたときだ、人の気配を感じリラは顔を上げる。
 目の前にあの魔族の少女が立っていた。金色の獣の目でリラをじっと見ている。少女の高く結い上げた髪はその目と同じ金色だ。
「たぶん、反省してるとは思うのですが。戻っても平気ですよ、ご主人。何かあったらまた呼んで下されば駆けつけますから」
 つり目の少女は、誰かに似ていると思ったが、スカッシュに似ていた。少しつり上がった目尻は、スカッシュとそっくりだ。
「ところで、本契約はしますか?」
「えっと……まだ考えさせて。それから、ご主人なんて呼ばないで。リラでいいわよ」
 リラは立ち止まると言った。
 ラルクも立ち止まると笑った。口もとには八重歯が見えた。可愛らしい笑みだった。
「それでは、リラ。改めてよろしくお願いします」
 それから腕を伸ばしてきた。握手を求めてきたのだ。
 人懐こい笑みに、リラは親近感を覚えた。同じ年くらいの少女と話すのはずいぶんと久しぶりだった。
「ラルク……」
 確かめるように呟いた。
 月の光を受けて、ラルクの金色の髪は輝いて見えた。人を惹きつけるどこか人離れした危うい美しさを持っていた。この少女は魔族なのだと、リラは思った。
 種族は違えど、仲よくなれたらよいなと思った。
「リラ、あの男の子は放っておいていいのですか?」
 ラルクはリラの顔を覗き込んでくる。
 それはロウのことだ。
「おいてきちゃった。あの子だってもう子供じゃないんだから帰ってこられるもの」
 先ほどからかわれたことを思い出して、顔が赤くなるのを感じだ。
 もし帰ってこないようなら、仕方がないから迎えにいってやろうと考えた。

 自分を取り巻く世界はとっくに変わっていた。そのことに気づいたのはずいぶんたってからのことだ。

 

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