火の山の竜
第2章 第0話
〜孤独 頼るべきものは〜
「……母様」
少年は、母親を目の前にして、ただそれだけ呟き立ち尽くす事しかできなかった。
今、目の前で起こっている事態がまるで飲み込めない。
寝台に横たわる母親は、呼びかけに答えず目を閉じたままだ。
天蓋から降りた薄布が、朝の風に揺れた。
「王妃は生きておられます。ですが、目をお覚ましになられないのです」
側に控えていたローブを纏った老人が告げる。
王妃つきの魔導師だ。
よく見れば、確かに胸が規則正しく上下しているのが分かる。
死んではいない、それが分かりほっと胸を撫で下ろしたが少年は違和感を感じ取った。
「母様の、足……」
少年の母親の足は、灰色に変化し、硬化している。
「徐々に石化が始まっています」
少年は、その言葉を聞きながら母親の許にひざまずく。
そっと、手に触れる。その手は冷たい。
「原因は?」
「呪いがかけられています」
魔導師が告げる。
「この部屋の、幾重にも編み上げられた魔法障壁を掻い潜り、呪いをかけたのです」
耳を傾けていた少年は、魔導師の言葉に静かに首を振る。
「呪いなど、誰がかけるというんだ。母が、恨まれるなど……」
そこで少年は悔しげに唇を噛む。
心当たりがないわけではない。だが、疑いたくはなかった。
「呪いを解く方法は?」
魔導師は顔を曇らせた。言いにくいのか目をそらす。
「分かりません。どんな魔術書にも解呪の方法が載っていないのです」
少年の顔が青ざめる。身体が震えた。
「母様はどうなるというんだ?」
「放っておけば石化が進み、……死に至るでしょう」
少年はうつむき、手をぎゅっと握り締める。手の平に爪が食い込み、赤い跡を作った。
「王子、ですが一つだけ。一つだけ望みを託すならば……竜があります」
「竜?」
少年は顔を上げた。悲痛な面持ちで、すがるように魔導師を見た。
「竜の血肉は力を持ちます。古い時代から魔法使いや占い師たちは竜の鱗や爪を使い、薬を作ってきました。特に竜の生き胆と眼球はあらゆる病気と呪いに効く薬が作れます。それがあれば……」
竜、それはこの大陸のどこを探してもいるはずのない生物だ。この西の大陸ではとうの昔に絶滅していた。絶望的だ。
少年の考えを読んでか、魔導師は口を開いた。
「西の大陸に住む竜は絶滅しました。ですが東の大陸には最後の一匹が住んでいます」
そのとき、部屋のすみに控えていた甲冑の騎士が進み出た。
「わたしが参ります。火の山の竜の生き胆と目玉を取って参りましょう」
「師匠、貴女が行かれては母様を守る者がいなくなる」
騎士は甲を取った。中から長く艶やかな髪が零れ落ちる。その騎士は女性だ。王妃の身辺を守る、王妃に一番近い位置にいる騎士だ。
その騎士の力強い眼差しが少年に向けられる。
「ですが、ロウレンス王子。誰が取りに行くというのです。この城の中で誰が信用できるというのですか」
「僕が行く」
少年は間を置かずに返した。
「何をばかなことを。王子のあなたがいなくなってどうするというのです」
「フェルサヴィッツに僕の代わりを頼む」
遠い王族の親類で、乳母の息子フェルサヴィッツは、少年と容姿がよく似ていた。少年の母親こそは騙せずとも、謁見に来る者などは簡単に騙せるほどだ。
「僕では力不足で母様を守れるか。師匠とザブリックがいれば安心できる」
名を呼ばれた魔導師は王子を見つめた。
「確かに、この王国は王……いや今は王妃側と最高顧問のラスネル卿側の二つに分かれています。王妃のことが皆に知られると立場は危うくなるでしょう。呪いをかけたのはたぶんに……」
魔導師はそこで口をつぐむ。
王が南の大陸へ遠征に出かけたのが四年前。だが王からの連絡はそれ以降、一度もない。いまだ生きているかどうか分からない。
それから王側の立場は危ういものになった。今回のことが皆に知られるとどうなるか。
呪いをかけた犯人はおおよそ予想がつく。
「ロウレンス様の叔父、ラスネル卿は王位継承権を持っています」
騎士は苦々しく言った。
少年は騎士が言おうとしていることは分かっている。
だが、静かに首を横に振った。
「疑いからは何も生まれない。僕は人を疑いたくはない」
きっぱりとした口調で、少年は言葉を返す。
「ですが、この王国から出れば貴方の封印は解けますぞ」
少年は眉を歪ませる。それから額にそっと触れた。
自分に科せられた贖いの印を。
「……僕は母様に育てていただいた恩をまだ返せていない。僕はそのためにも……」
息を吐き、そこで言葉を切る。
「それでも僕は火の山の竜に会わなくてはならない」
その夜、雨が降った。
雨雲はギステネア王国を包み込むように広がっていた。魔導師が作り出した魔法がかった雨雲だ。
激しい雨に視界はきかず、音もかき消された。
今は使われていない王国の外に通じる鉄錆びた門を抜ける者がいる。人目を避けるかのように門を通るのは少年だ。
少年はローブのフードを目深にかぶり、露を払うことなく馬を駆った。
「頼れるものはいつだって自分しかいない。自分でどうにかしなくてはならないんだ」
思い詰めたように呟いて、彼の姿は雨の闇に消えた。
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