第五話 その人の、名は



「エビネ先輩って、好きな人はいますか?」
 山中洋明が、とうとつに海老根翔子に訊ねてきた。
 放課後、残り少ない薬液で実験をしているときのことだった。
「……はあ?」
 海老根は実験をする手を休めて、顔をしかめた。

「だから、好きな人はいるんですか?」
 山中は子犬のように、黒目がちな目で海老根を見る。
 晴れて化学部に本入部を果たした山中はおろしたての白衣を着て、海老根に犬のようにくっついて回っていた。
 もう一人の幽霊仮入部員も、そのまま本入部したとのことだ。顔は出してこないが。

 海老根は、硝酸を入れたビーカーに視線を落とす。
 山中の質問に困っていた。
「HNO3……」
 硝酸の化学式を呟き、海老根は今度は天井を見上げる。
 硝酸を金属と反応させる実験の途中だった。硝酸塩を作るのだ。
「エビネちゃんには彼氏いるよー。残念だったねー、や・ま・な・か!」
 地獄耳の吉崎美香がすぐさま寄ってきて笑顔で山中をどついた。
 人の恋路がダメになるのが楽しくて仕方ないようすだ。
「あら、でもこのごろは……」
 小林佳子が言いかけて口を閉ざす。
「…………」
 海老根は何も答えない。かわりに、
「4NH3 + 5O2 → 4NO + 6H2O……、2NO + O2 → 2NO2 ……3NO2 + H2O → 2HNO3 + NO……」
 なにやら化学式を呪文のように呟いた。
「彼氏、いるんですか」
 山中は悲しげに肩を落とす。
「いや、なんというか、自然消滅したっぽい……かも。今学期に入ってから口をきいてないし」
 海老根は天井を見上げ、視線をそらしたままうわごとのように呟いた。眼鏡の奥の瞳は暗い。
「ええ、それじゃ、僕にもチャンスはあるってことですよね!?」
 山中の表情がにわかに明るくなる。
「さあね。恋愛はこりごりだし……」
 海老根は視線を外したまま無表情に言った。

「エビネちゃん、別れちゃったんだ?」
 美香が、悪いことを聞いてしまったといったふうにしょんぼりとしている。
「別に、気にしてないから」
 海老根はできあがった硝酸塩を見つめながら答えた。
 だが表情は上の空だ。
「NO3-
 心ここにあらずといった感じに硝酸塩の化学式を言った。
「ああ、だめよ、エビネ。危ないわよ……!」
 佳子がたしなめる。
 一価の強酸性の液体である硝酸の入ったビーカーに、海老根は手を突っ込もうとしているのだ。今にも爪の先がつきそうになっている。
「キサントプロテイン反応でもさせる気ですの? 今日はもう実験終わりにしましょう、危なっかしすぎますわ。……やっぱり、気にしていますのね」
 佳子も美香と同じく声のトーンを落として言って、海老根から硝酸の入ったビーカーを取り上げた。
 山中のみが、その場で笑顔満面にガッツポーズを作っている。
「女心が分からないヤツだねー、山中ってば!」
 美香が、じと目で山中を見た。

 そのときだ。
 ふらりと海老根の身体が傾いたかと思うと、そのまま床に倒れてしまった。
「エビネ先輩!」
(やばい、有機溶媒の蒸気吸い込みすぎか? いや、でも今日は硝酸の実験をしただけだが……。硝酸が光で分解されて二酸化窒素ができたとしても……セキはでていないし……違う、か)
 海老根は薄れる意識の中で原因を探ろうとする。だが、意識は急速に薄れ、それに追いつかない。
「エビネちゃん!」
「エビネ!?」
 海老根の耳に、自分を呼ぶ化学部員たちの声が聞こえた。だが、意識は白く黒く明滅して、沈んでいく。

「ただの睡眠不足ね。海老根さんってお勉強大好きだものね」
 保健室の先生の苦笑する声が海老根の耳に聞こえた。
 コツコツとその足音は遠ざかる。
(睡眠不足か……)
 海老根は目を閉じたままで、まどろんだままで思った。
(そういえばこのごろ寝る時間が遅くなっていたな。化学の探求はつきないし……ケミカルクエスト)
 そんなことを、うとうととしながら思い出していた。

 少しの間のあと、名を呼ばれた。
「翔子」
 男の声だ。
 目を閉じたままで、ぼんやりと聞いていた。意識がまだもうろうとしていた。
「しょうこ……」
 額に手がおかれる。優しい手だった。ひんやりと心地よい。
 大きな手。
 意識をたぐりよせる。
 この手は。
「誰……? 正臣か?」
 目を開けると、そこには山中の心配そうな顔ががあった。
「ヨウメイ、か。……今、名前で呼んだな? おかげで間違えたぞ」
 不機嫌な声で海老根は言った。
 間違えたことを隠す照れ隠しで、心配されたというのにそんな声しか出せない。
「誰とですか? 別れた彼氏とですか?」
「そうだ」
 むすっとした表情のまま答えた。
 額に置かれた手が離れる。
「マサオミさんっていうんですか? エビネ先輩の元カレ……」
「宮迫正臣だよ。ヨウメイだって、もうれっきとした化学部員なんだから、名前くらい聞いたことがあるだろう?」
 山中は怒ったような、悲しげな、複雑な表情でコクンとうなずいた。
「幽霊部員な化学部部長で三年生、ミヤサコマサオミですよね」
「当たり」
 海老根は肯定した。
「部長とつきあってたんですか」
「学年が違うから、教室のある階が違う。だから会うこともないし、部活にも出てこないし、二月に、ちょっと部活の活動方針ことでいざこざあって、それっきり……」
「……じゃあ、まだ別れてないんじゃ……ないんですか? まだ四月の終わりだし」
 怒ったような声で山中が言う。問い詰めるように。
「さあ、どうだか」
 海老根はまた目を閉じる。
 余計なことを話してしまったと思った。
 胸がずきんといたんだ。目を閉じたままで胸に手をおく。
(もう、正臣に、恋情など抱いていないと思っていたのに……胸が痛い)

 外では桜が花びらを落とし、緑の葉をつけ始めていた。


 次回予告。
 しんみりとしたところで、暗黒生徒会生徒会長が登場だ。なんとその正体は!?
 来週もチャンネル合せるのを忘れるな!

 

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