第2章

 

 鳥達のさえずりが盛んに聞こえる。昨日は雪が降り、森はしんと静まり返っていたのに。そう疑問に思えるほどに、元気の良い声が森から響いてくる。それほどに朝を、陽を待ちわびていたのだろう。
 いつもより寒い朝。
 定時にフェッセンデンはアイラを起こしに彼女の部屋を訪れた。
まず部屋へ着くと、主人が起きる前に暖炉に火を入れておき、部屋を暖めておく。
 彼女の寝室は屋敷の東側に位置している。カーテンを閉めている為今は薄暗いが、屋敷の中で一番朝日がよく見える部屋だった。
 アイラは静かな寝息を立てている。
 こうしてみると、年齢より幼く見えた。彼女が天才の名を欲しいままにしている天才科学者には見えなかった。可愛らしいその寝顔は普通の少女のそれだ。
 フェッセンデンは、お湯の用意をする為に暖炉に向かう。主人が顔を洗うお湯だ。
 薬缶を掛けるとまた主人の所に戻ってくる。こうして、お湯が沸くまでの間だけでも傍にいて彼女を見ている事が彼の至福の時だった。
 誰よりも大切な人、アイラ。
 彼は主人が起きないようにそっと額に口づけた。
(アイラ、貴女がいるだけで、ただそれだけで私は……)
 ギシと床が鳴る。
「う……ん、フェッセンデン?」
(――起こしてしまったか)
「はい、おはようございます、マスター」
 アイラは目の前にフェッセンデンの顔があって驚きながらも朝の挨拶をする。
「おはよう」 
 アイラは横になった姿勢のまま、フェッセンデンの頬に手を添えながらまじまじと顔を見た。
「どうしたの? キミは私を見る時、たまに悲しそうな顔をするわ」
「そんな事はありません、マスター」
 フェッセンデンは苦笑して見せる。
「何を考えているか、教えてくれないの?」
「教える? 私が何をお教えするというのです。私に何もかも教えて下さったのは貴女ではないですか。忘れてしまったのですか?」
 言ってフェッセンデンは微笑んだ。
 さらりと彼の肩から艶やかな黒髪が零れ落ちる。
「もう、またそうやって誤魔化すのね」
 アイラは頬を膨らませて、彼の胸を軽くトンと叩く。
 フェッセンデンは笑って、
「さあ、着替えたら朝食といたしましょうか」
 アイラの手を引き起こすと、優しく微笑んだ。
「あ、そういえば!」
 アイラは、はっとしたように呟いた。
「どうしたのですか?」
「ううん、なんでもないわ」
 彼女は首を横に振ると、一人クスクスと笑った。

 いつもと変わらなく見えた日。
 その日を境に、アイラは自室に篭る事が多くなった。
 もともと研究ばかりしているのだから部屋にいる事が多かったが、フェッセンデンを部屋に寄せ付けないようになっていた。
 彼が部屋に入ろうとする事を拒んでいた。拒絶される度にフェッセンデンは悲しい気持ちになった。
「マスター、お飲み物をお持ちしましたが」
 午後の休憩時間。アイラに喜んでもらおうと、彼女の大好きなマシュマロの入ったココアを持って来た。
 ドアをノックする。しばらく待たされた後、ドアが少しだけ開いた。中は窺い知る事が出来ない。
「……、後でいいわ。それから、自分の事は自分でするから、もうこの部屋に近づかないで」
 彼女は表情を変えずにそれだけ言うとドアを閉めてしまった。
「マスター……」
(マスターは私の事がお嫌いになってしまわれたのだろうか?)
 理由も分からずに冷たくあしらわれる。アイラの役に立つ為にこの世に生まれて来たのに、その主人に拒絶されたらどうして良いか分からなかった。

 夕方。白く彩られた森は夕闇に包まれようとしていた。鳥達は巣へ戻って行く。森の静かな夜の始まりだ。
 屋敷の廊下にも明かりが灯され、炎が赤く揺らめいている。
 薄暗い廊下にパタパタと走る音が聞こえた。
 アイラだった。
 大事そうに小さな袋を抱えている。中からは小さな金属の触れ合う音がした。
「マスター」
 フェッセンデンは笑顔で呼び掛ける。
「フェッセ……」
 彼に気付いたのかアイラは慌てて立ち止まる。ふわりと長い銀髪が揺れる。
 広い屋敷の廊下は冷え冷えとして、アイラの吐く息も白い。
「マスター、どちらに行かれるのですか。私もご一緒いたしましょうか?」
 久しぶりに主人と会話を交わせる。フェッセンデンは嬉しくて微笑んだ。
「ついて来ないで」
 彼女は冷たく一言そう言うと、足早に去って行った。
 後にはフェッセンデンが一人。彼は言葉も続かなかった。ただ、呆然とその場に取り残された。

「博士、私はマスターに嫌われてしまったようです」
 アイラの父であり、フェッセンデンの生みの親の一人、グロウラー博士の研究室にフェッセンデンは来ていた。
 フェッセンデンからは普段の落ちついた微笑みは消え、頭を深く項垂れていた。
「ほほう。君はそれでも良いのかね」
 博士は暖炉の前の椅子にもたれかかったまま、パイプを燻らせている。
「え?」
「また元のように仲良くして行きたいと思わないのかね?」
「思います。私は、マスターの事が好きです。傍にいたいです」
 真摯に、思いを、口にした。
 博士の後ろの暖炉で、大きな音がして薪がはぜる。
「なら、それを本人に伝えなければならん。理由を聞き、悪い所があったら直すからとな。それが人間のやり方だ」
 博士は振り向くとにっこりと笑った。
「はい」
 フェッセンデンは強くうなずいた。
 彼の顔にはもう陰りはなかった。

 外では月が銀色に輝いていた。
 フェッセンデンは博士の部屋を出るとその足でアイラの部屋に向かった。
「あ、いたいた。どこに行ったのかと思ったわ」
 いきなりドアが開き、アイラが部屋から出てくる。
「マスター」
 フェッセンデンはアイラが明るい調子で出て来たので少し驚く。ピリピリした様子などもう微塵も感じられない。
「はい、あげる」
 アイラは手にした小箱をフェッセンデンに渡した。
「あのね、キミの誕生日でしょ、今日は。だからプレゼント作っていたの」
 ニコニコとしながら彼を見上げる。
「誕生日? 私の?」
 フェッセンデンは意味が分からないといった風にアイラを見る。
「そうよ、三歳でしょ。キミが作られて三年目のお祝い。キミに分からないように作るの大変だったわ」
 包みを開けると中には指輪が入っていた。銀色のリングに、小さい青い石が付いている。
「見て、私とお揃いなのよ」
 言ってアイラは指を見せる。
 彼女の指にもフェッセンデンの持っている指輪と同じ物が嵌めてあった。
「私の好きな色の石なの。フェッセンデンの目と同じ色ね?」
 アイラが言い終わらないうちに、フェッセンデンは彼女を抱きしめていた。
「マスター」
 アイラは何が起こったのか分からずきょとんとしている。
「私は貴女に嫌われてしまったのだと思っていました」
「嫌う? どおして?」
 フェッセンデンが辛そうに見えて、アイラは彼の背に手を回す。
「お傍において頂けないから。もう、いらないと思われたのかと」
 アイラは苦笑して、
「ごめんね、内緒でプレゼント作りたかったの、驚かせたかったから。嫌ってなんかいないわ。ね?」
 大丈夫だよ、とフェッセンデンの背中をポンポンと軽く叩いた。
 フェッセンデンはしばらくそのままの姿勢でいたが、アイラから身体を離すと、アイラの額にキスをした。
「…………」
 アイラはフェッセンデンを見上げたまま、両手で額に手を当てる。
 またもや何が起こったか分かっていない様子だ。
「どうか、ずっとお傍において下さい」
 フェッセンデンの真剣な表情に驚きつつも、アイラはにっこりと微笑んだ。
「勿論よ。こちらこそ、これからもよろしくね。さあ、指輪をはめて見て」
 アイラにせかされてフェッセンデンは指輪を嵌める。ぴったりだった。
 月の光に反射してキラリと光る。
「上手に作れなかったけど……」
 アイラは照れたように俯く。
「ありがとうございます、大切にします、マスター」
 フェッセンデンは優しく微笑む。
「部屋に戻りましょう。廊下は寒いわ」
 アイラは言いながら部屋の中に入って行く。
 ふいにフェッセンデンが小声で呟いた。
「え、何、よく聞こえなかったわ?」
 くるりと振り返りアイラは聞き返す。
「内緒です」
 フェッセンデンは、口に人差し指を当てる。
 アイラが幾ら訊ねてもフェッセンデンはただただ微笑むばかり。
 ――愛しています、マスター。
 もっとも身近にいながら遠い貴女に、私は機械としてしか触れ合えないから、忠誠という言葉に愛を込めて。

 森はしんと静まり返っている。
 今はまだ平和だった。
 それ故彼らは、発せられていた凶兆に気付く事はなかったのだ。

 

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