第4章

 

 アイラは一人で川岸を歩いていた。
 川は暖かい太陽の陽射しを受けてキラキラと輝いている。
 岸には色とりどりの花が咲き乱れている。
 ふわりと風に乗り、良い香りが鼻腔をくすぐった。
「今は冬のはずなのに……。こんなに花が咲いて」
 自分がどうしてここにいるのか、そんな疑問が脳裏をよぎったが、すぐに忘れてしまった。
 どこまでも続く花畑を歩くのがとても楽しかったからだ。
 身体は軽く、幾らでも歩けた。
「あっちにも花畑が続いているのね」
 対岸をみると、アイラが今いる場所より素晴らしい花々が咲き群れている。
 アイラは対岸に行きたくなった。
 ふと対岸の花畑の奥で、一人の女性が手を振っているのが見えた。
 女性のその髪は風にサラサラと揺れている。
 アイラと同じ長く美しい銀髪だった。
「誰だろう?」
 アイラは不思議に思った。
 女性は川岸まで歩いてくると、アイラに向かって微笑んだ。
 どこかで見た事がある、優しさに溢れた笑顔だった。
「あ!」
 アイラは駆け出していた。
 あの顔は。
 何度も写真で見ていた。
 産まれたばかりの自分を抱いて優しげに微笑む姿を。
 それは。

 外では雪がちらちらと降り出していた。
 雲は暗幕のように垂れ込め、空一面を覆っている。
 パーティーで華やいだ庭は一変して無人となり、人が再び戻ってくるのを待つかのように悲しげに見えた。
「どうか……」
 ベッドに寝かされたアイラの傍に、フェッセンデンは座っていた。
 手を組み、目を伏せて一心に祈った。
「どうか、私からマスターを奪わないで下さい」
 神への祈りか。
 フェッセンデンは一人呟く。
 
 アイラは、すぐにフェッセンデンに抱えられ屋敷に運び込まれた。
 パーティーの為に来訪していた医療の権威ブランチ博士により、手当てが行われた。
 傷口は肩と腹部に一箇所ずつ。銃で撃たれた傷だった。
 一番心配された肩を通る頚動脈は、銃弾が既の所で外れており傷付かずにすんだ。
「不幸中の幸いか、内臓も傷付いていない。問題は体力だね」
 ただでさえ熱が高いうえに、出血が激しかった。
 アイラの顔は青ざめて見えた。
 時おり、苦しそうに声を上げる。
「今夜が峠だね」
 ブランチ博士は言って、首を横に振った。
 その言葉にフェッセンデンの表情は凍りついた。
(死……?)
「そ、そんな! 嘘だと言って下さい。マスターが、そんな事って……!」
 フェッセンデンはブランチ博士の腕を掴んでいた。
 普段の彼なら絶対に取らない行動だ。
「アイラくんの『生きたいと望む気持ち』に望みをかけるしかないだろう」
「なんという事だ」
 アイラの父、グロウラー博士は両手で顔を覆った。
 
「博士、先にお休みになられて下さい」
 グロウラー博士は娘の傍に寄り添っていた。
「わしは研究にばかりかまけて、普段アイラをかまう事はほとんどなかったのだよ」
 ぽつりとグロウラー博士は口を開く。
「…………」
 フェッセンデンはそれを黙って聞いていた。
「妻がアイラを産んですぐに死んでから、全てを忘れる為に研究に没頭していたよ。それでもアイラは私に懐いてくれていた。私のように研究者になると言ってね」
 グロウラー博士は俯きながら続ける。
「こんな事になってから、こんなにアイラが大切だと気付くとはね」
 肩が震えている。泣いているのだ。
 普段、感情を殆ど出す事無いグロウラー博士が。
「博士、マスターもきっと分かっていらっしゃいます」
「そうかね」
「ええ」
 フェッセンデンは微笑んだ。
「夜の間、私がマスターを看ております。私は寝る必要はがありませんから。さあ、博士はお休み下さい」
「それじゃあ、お言葉に甘えるとしようか……」
 グロウラー博士は立ち上がり、フェッセンデンの肩を軽く叩いて、部屋を後にした。

「貴女は……!」
 パシャパシャと音を立てて、アイラは川の中に入り込む。
 川は浅く、深い所でもくるぶしほどまでしかなかった。
 中ほどまで来て叫んだ。
 女性はそれを見ると慌てて駆けて来て、やはり川の中に入って来た。
「だめよ、これ以上こちらに来てはいけないわ」
 子供に言い聞かせるかのように優しく言う。
「母さま、母さまでしょう?」
 アイラは急き立てるように女性に問うた。
「アイラ、まだ貴女はここに来るのは早いわ」
 女性は問いには答えず続ける。
「ほら、見えるでしょう、貴女の大切な人が。御覧なさい」
 女性は川面を見るように促した。
 アイラは言われるままに足元を見る。川面は波立ち何も見えなかった。ただ、流れのなかに水草や小石が見えるだけだった。
 それでも、次第にそこにぼんやりと人の姿が映し出されて行く。
「あ……」
 艶やかな黒髪、青い海の色の瞳。
 優しい穏やかな笑顔。
 嬉しい時も悲しい時もどんな時でも共に時間を過ごした人。
 いつも一緒にいてくれた人。
「さあ、帰りなさい。貴女を大切に想ってくれている人の所へ」
 微笑む女性のその顔は、どこか悲しげだった。
「私、どうやって帰ったらいいの?」
 振り返ってみても、ただ花畑が続くだけだった。
 どこまでも穏やかな世界が広がっている。
「願いなさい、戻りたいと。大切な人の元へ帰りたいと」
「大切な人?」
 アイラは水面に見た人物を思い出す。
 懐かしい笑顔。忘れる事など決して出来ない、誰よりも大切なあの人の笑顔。
(フェッセンデン……)
 心の中で、その人の名を呪文のように呟いた。
 すると次第に、世界がぼやけ始めた。
 花も草も空も、パレットの上で絵の具を混ぜたように輪郭を失って行く。
 全てが淡く白い光に包まれて、目の前にいる女性の顔も見えなくなっていった。
「ありがとう、母さま……」
 ぼやけて行く視界の中、女性は小さく手を振り、微笑んでいた。

 グロウラー博士が出て行くと、フェッセンデンは博士が座っていた場所に腰掛けた。
 未だ、アイラの意識は戻らない。
「私は涙を流す事が出来ないけれど、流すとしたら、こんな時なのでしょうね」
 悔しかった。
 自分が人でない事が。主人を守れなかった事が。
 フェッセンデンがアイラの顔を覗き込んだ、その時。
 ポタリとアイラの頬の上に水滴が弾けた。
「?」
 フェッセンデンは両手を差し出すように上げると、その水滴を今度は受け止めた。
「な……みだ? 私が泣いている? この水滴は……」
 瞬きと共に落ちてくる水滴。
「こんな事があるはずないのに」
 頬を伝う涙は、覗き込むアイラの頬に再び落ちた。
「ん……」
 それまで微動だにしなかったアイラの指が微かに動いた。
「マスター!」
 フェッセンデンは主人の手を握る。
 僅かに開いたアイラの瞳が、彼を捉えて焦点を結んだ。
「おはよう、フェッセンデン」
 目を開いた彼女は、薄く笑顔を浮かべる。
 フェッセンデンの手が握り返された。
 アイラの声は弱々しかったが、フェッセンデンには聞き取る事が出来た。
 大切な人の声。
 忘れる事のない声。
「マスター! ああ、良かった。本当に……!」
 彼は跪き、主人の手に頬を寄せた。
「……夢を、見たの」
 アイラは弱々しい声で、呟く。
「喋ってはいけません、今はお休みになられる事が大事です!」
「いいえ、聞いて」
 アイラはそれを遮り、続ける。
「貴方の夢よ、フェッセンデン」
 アイラは苦しいのか、そこでいったん口を閉ざす。
「私の夢ですか?」
「――正確にはね、夢に死んだ母さまの夢。それで母さまが、大切な人の所へ帰りなさいって。私ね、貴方の事が真っ先に頭に浮かんだの」
 苦しそうではあったが、しっかりとした口調で続けた。
「貴方のいない所になんて、行きたくないの」
 アイラは言って、フェッセンデンの手をぎゅっと握る。
 フェッセンデンはそれを言葉もなく聞いていた。胸がいっぱいになり、締め付けられるようだった。
「私も、マスターがいない世界など考えられません」
 ただ、それだけ言うのが精一杯だった。目を伏せて、繋がれた手から伝わる体温の暖かさを感じるだけだった。

 陽射しがいつもより暖かく感じられた、次の日の朝。
 アイラが目を覚ましたと知った博士の喜びようは言葉に出来ないほどのものだった。
 アイラはただただ驚くばかりだった。
 物静かに研究にふける後ろ姿ばかり見て来た。
 笑うところなど、滅多に見た事はなかった。その父が顔をクシャクシャにして自分が生きている事を喜んでいるのだから。
「父さま、私は大丈夫よ」
 アイラは父を安心させるように言う。
「だが、油断は禁物だよ。当分、安静にしているようにね」
 グロウラー博士は嬉しそうに目を細めた。
 アイラは俯いて黙り込んでいたが、意を決したように口を開く。
「私は殺されかけたのね? 銃で撃たれたのでしょう?」
 顔を上げて、グロウラー博士とフェッセンデンを見据える。
「…………」
 問われた二人は気まずそうに、アイラから目を逸らそうする。
「本当の事が知りたいの。お願い、答えて」
 アイラの目は真剣だった。
 しばらく沈黙が続いたあと、とうとうフェッセンデンが折れて重い口を開いた。
「スナイパーが庭影に潜んでいました。マスター、貴女一人を狙っていたようです」
「そのスナイパーはどうしたの?」
「私のセキュリティシステムが作動し、殺しました」
 フェッセンデンのセキュリティシステムとは彼とは別人格のもので、主人が危機に貧した時に発動するものだった。
 アイラに戦慄が走る。
 ドールの基本原則は、人を傷付けないこと。
 それをフェッセンデンが破ったと言うのだ。
「フェッセンデン、貴方は……人を殺したというの?」
 アイラの手は寒さのためか恐怖のためか、震えていた。
「言葉を間違えたかもしれません。破壊したのです。粉々に」
「破壊?」
 アイラはやっとの事で口にする。
「そうです。スナイパーの正体はロボットでした。マスター、貴女の創った『ドール』です」
 アイラはフェッセンデンの表情を読み取る事が出来なかった。

 

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