閉めてください

 

 その日、俺はイライラとしていた。
 駅の階段でけつまずいてみごと鼻を擦りむいた。しかも電車に乗り遅れた。その電車は冷房が効いていなかった。
「くそっ!」
 このままだと遅刻だ。
 電車から降りて会社への道のりは、じりじりと暑く朝から汗が流れた。アスファルトの照り返しがきつい。
 新聞の『今日の占い』にはアンラッキーって書いてあったっけかな。
 そういえば、すれ違う人が俺を見てはクスクスと笑っていたのが気になっていた。
 いったい、今日はなんだっていうんだ?

 会社はロビーまで冷房がきいてない。
 オフィスは八階でエレベーターを使わないと行けない。
「あ、待ってください。乗ります!」
 俺がエレベーターに乗り込むと、一人の女性が走ってきた。同じ部の高峰さんだった。
 営業部の花と呼ばれる高峰さんでも、遅刻するんだな。めずらしい。
 俺はエレベーターの扉を開けて待った。
「はあ……はあ、どうも、すみません」
 小走りに乗り込んだ彼女は肩で息をしている。
 こんなに暑い日なのに、高峰さんからはふわりと良い香りがした。
 きりりとした目元が涼しげで、俺は高峰さんってカッコイイ女性だなって思った。
 スーツが似合う女性だった。
「いえ」
 俺は半ばにやけつつ、扉を閉めるボタンを押した。
 遅刻したおかげで、憧れの高峰さんとエレベーターで二人きりだ。ヤッホウ。

 扉が閉まった。静かな機械音を立てて、俺たちを乗せた幸せの白いゴンドラ……もといエレベーターが動き出した。
 高峰さんは俺と対面するかたちで立っている。高峰さんは今日も綺麗だ。 

 エレベーターの中も冷房がきいていないらしく、むしむしとする。額に汗が浮かぶのが自分でも分かった。

 ふと、高峰さんが口を開いた。
「……すみませんが、閉めていただけますか?」
「え?」
 いきなり問われて、なんのことか分からず聞き返した。
 高峰さんは真顔だ。
「ですから、閉めていただけます?」
 高峰さんは要求を繰り返すばかりだ。
 その表情はポーカーフェイスで読めない。
(閉めるだって? だって、扉は閉まっているぞ?)
 俺は眉根をひそめる。
「閉めていますけど……?」
 ぽかんとしながら言った。我ながら間の抜けた顔だったと思う。
 意味が分からない。なんだっていうのだ。
「お願いですから、閉めてください」
「閉めていますよ、高峰さん」
 俺はエレベーターの扉を指差した。
 高峰さんはきっと俺を睨んできた。
 美人を怒らせると、こ、怖い……。
「閉めないと、本当に怒りますよ!」
 そう言って、高峰さんはぷいと顔をそらしてしまった。
 ガーン。なんてこった。
 押し問答しているうちにエレベーターはまもなく八階に到着しようとしていた。
「高峰さん、なにを閉めるって言うんです? 扉は閉まっていますよ!」
 俺はわなないた。
「ズボンのチャックです。全開ですよ!」
「えっ!?」
 俺はあわてて下を向く。
 顔から血の気がさっと引き、そのあと逆流してかっと熱くなった。
 チーン、と、あわれを誘うような音でエレベーターが八階への到着を告げた。
 
 なんと、閉まっていなかったのはエレベーターの扉ではなく、社会の窓だったのだ。

 


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