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◇孝介さんと奥さんの話
「お赤飯を炊いたから、取りにいらっしゃい。」
恭平は、照子の突然の電話に驚いて、しばらく黙ってしまった。
「…恭平くん?聞こえてる?」
「あ、はい。それじゃ、今から行きます。」
「手の空いた時でいいのよ。」
照子は遠慮したのか控えめに言って、電話を切った。
恭平はしばらく受話器を握ったまま、照子の夫、孝介のことを頭に浮かべた。
まともな職につかず、妻が細々と経営するクリーニング屋のスネカジリを続けている叔父は、今家にいるのだろうか。
顔を合わせることだけがつらい。
言葉を交わしてしまったら、過去のひどくつらい思い出にとらわれて、身動きが取れなくなってしまいそうな気がする。
とは言っても、照子の誘いを理由もなく断るわけにもいかないので、恭平は仕方なく身支度を整えた。
出かけようと玄関に行き、靴を履く。
するとタイミングよく扉が開いた。
恭平の視界に短い制服のスカートと、その下から覗く生足が飛び込んできた。
「あれっ?兄さん、出かけるの。明美も行く!」
「えっ……」
恭平がウンともスンとも返事のできないまま、明美は恭平の腕にくっついた。
内心ほっとしているが、それでも一応、言っておかなければならない。
「…宿題は?」
「あるけど、後でやるもん。今日は聡ちゃん早めに帰ってくるでしょう?」
「頼ってばかりではダメだよ。」
「はいはい。わかってるから早く行こうっ。」
恭平は急かされて靴を履き、明美と連れ立って家を出た。
孝介と照子の家は普通に歩いて10分ほどの、同じ町内にある。
恭平の足で15分かけて辿り着いた時、店先には照子が立っていて、近所の主婦と楽しそうに話しこんでいた。
甥と姪の顔を見ると、さっそく話を切り上げて裏から家の中に入れてくれた。
「いらっしゃい。明美ちゃんも来たのね。」
「はい!お邪魔しま〜す。」
明美は恭平の腕から照子の腕へと乗り換えて、無邪気に甘えた声を出した。
照子もそんな姪の様子を嬉しそうに眺めている。
子供のいない孝介・照子夫婦は、物心ついた時から、恭平兄弟たちにとって家族と同じくらい、心の許せる存在であった。
照子はさっそく、赤飯をつめたタッパーを持ってきた。
「できたてだからまだ熱いけど、夕飯に食べるといいわ。」
「どうもありがとうございます。」
恭平は丁寧に頭を下げて、照子から赤飯を受け取った。
家の中をキョロキョロと見渡していた明美が、ふと思いついたように照子を見る。
「叔父さんは?」
ドキリ、と恭平の心臓が鼓動した。
「今日はどこかにお出かけみたいねえ。何をしているのかしら。」
照子はとぼけたように言って、恭平の動揺には気付かなかったようだ。
恭平は早くこの場から立ち去りたかったが、そんな心情を露知らずな明美が軒先に座り込んだ。
「叔母さんさあ、孝介叔父さんに働けって言った方がいいんじゃない?」
「あら、大人なことを言うようになったのね。昔はずーっと遊んでくれればそれでいいって、駄々をこねていたのに。」
「それ、すごい昔の話だよぉ。」
明美は口を尖らせた。
照子が声をたてて笑う。
「兄さんもそう思うでしょ?叔父さんは好きだけど、これじゃ叔母さんが可哀想だよ。」
「あっ、うん…」
恭平は困った顔をして、照子を見た。
彼女も言葉を探しているのか、同じような顔をして恭平のことを見返した。
「いきなり離婚するとか、言わないでよ?明美、嫌だからね。」
「まあ、大袈裟ね。」
照子は調子を合わせて答えたものの、内心ひやりとするものがあった。
夫婦仲はうまくいっているとは言いがたい。
それでも長年、連れ添ってきた。
「そうか…明美ちゃんには教えてあげようか。」
照子は意味深長なことを言って、明美の隣に腰掛けた。
恭平は立ったまま、明美と照子の顔を交互に見比べる。
「叔母さんね、確かに離婚、考えたことあるのよ。」
「えーっ……」
「昔ね。ほら、叔父さんと叔母さん、子供がいないでしょ。何度か作ろうとしたんだけど…。って、こんな話はまだ早いかしら?」
言ってから後悔したのか、照子は明美から目を離して年長の恭平を見上げた。
恭平は肩をすくめて何も言わず、先を促すポーズを取った。
「うまくいかなかったの?」
「そう。叔母さんに女の魅力がないって言われたらそれまでだけど、叔父さんにもその気がないっていうか。つまり、相性が悪いのかもしれないわね。」
「…。」
明美は何も言わなかったが、しきりにウンウンと頷いている。
何か思い当たる節があるのかもしれないが、恭平は兄として、男として、見て見ぬ振りをした。
「それで、二人の仲が悪くなっちゃった時があるのよ。いっぱい泣いたわ。愛ちゃん…明美ちゃんのお母さんにも相談したのよ。」
「お母さんに?」
「そう。愛ちゃんはもうその頃には出産と子育てのプロフェッショナルのようになっていたから、心強かった。彼女に勧められて、病院に行ったのよ。」
「…病院?」
恭平が声を上げた。
無意識に、背筋に冷たいものが走る。
しかし照子は気にせず続ける。
「そう、産婦人科ね。そこでね、叔母さん、自分が子供のできない体なんだって知ったの。」
「え……」
恭平と明美は同時に絶句し、口を結んだ。
特に明美にはショックが大きかったようで、腕を腹の辺りに回して無意識に押さえていた。
「嫌だ…ごめんなさい。」
「いいのよ。それよりここから続きがあるんだから。」
「続き?」
「そう。子供ができないってことをね、私ったら愛ちゃんより先に、孝介に伝えたのよ。たまたま家にいたから、あの人。」
「…叔父さんは、なんて?」
明美は早く先を知りたがった。
恭平は複雑な気持ちを抑えて、孝介の顔を思い浮かべる。
「孝介は何も言わなかったわ。ただ、そうか…、って言って。だからどうした、とでも言いかねない顔だったわね。」
「えー。それだけ?」
明美は不満そうだ。
照子は不意に視線を恭平に投げかけた。
「恭平くんだったら、どう?結婚した人が、子供ができない体質だったとしたら。つまり、一生自分の子供はできないことになるのよ。」
「…それは…」
恭平は言いよどんだ。
正直、そうなってみないとよくわからない。
相手のことをどれだけ好きかという問題であるような気がするし、かと言って、一生子供を持てないのだと宣言されるのも、悲しいくらいショックであるような気もする。
れっきとした同性愛者である孝平だって子供を持てて幸せだと公言しているくらいだから、愛しい妻がいて、血の繋がった子がいる家庭というのは底知れない安心と幸福が含まれているのだろう。
…と想像はできても実感が湧かない。
「難しいかな。そういう理由で、離婚したり別居したりする夫婦っていうのはいくらでもいると思うの。だから、叔母さんもつい、離婚されるものだと思って。言ってくれないから、こちらから迫ったのよ。」
「うそっ…そこまでしなくても。」
「そうねえ。そうかもしれないわ。でも、我慢できなかったのよ。孝介は、図々しいようでいて、肝心なことは何も言わないから。言葉で伝えるのが苦手みたいなの。」
「でも今離婚してないってことは、その時も離婚しなかったんでしょ?」
「そういうことね。孝介がね、」
照子はそこで言葉を切って、当時のことを思い出しているような遠い目をした。
明美も、恭平も、照子が次に言うであろう言葉を待った。
「俺は子供はいらない、だからお前も諦めろ。」
照子は精一杯、似ていないモノマネをして孝介の言葉を再現する。
笑ってもらえると思っていたのか、照子は言った後の間に耐えられず、頭を掻いて頬を染めた。
「…あれ?似てなかった?」
明美は黙って兄を見上げた。
見られた恭平も、明美の瞳を見返して、お前が思った通りのことを言え、という意味をこめて目を細めた。
それを受けて明美は、照子へと視線を戻す。
「…うん、似てなかった。」
「あら。残念。」
「叔父さん、優しいところあるのね。」
「うーん、それはどうなのかしら。あれは優しさなのかしらねえ…」
逃げ、だったのではないかと思う。
自分が女を抱けない体質であることを、認めなくて済むから。
少なくとも自分が照子を傷つけることは、もうないのだろうから。
そういった逃走の心理が働いたのではないか、とうすうすではあるが照子は勘付いていた。ただ、それを口に出したことは未だかつて一度もない。
「とにかく、そのお陰で私は離婚する気がなくなっちゃったし、孝介にも元々そんなつもりはなかったわけだから。今までどおり、ってことになったの。」
「ふーん…。」
「どう?安心した?」
「うーん、複雑…かも。」
明美は正直に首を傾げて、立ち上がった。そのまま恭平の腕を取る。
「帰ろう、兄さん。」
「ん?うん…」
「叔母さん、お話してくれてありがとう。また来るね。」
「待ってるわよ。」
照子は承知していたのか、明美に優しく手を振った。
恭平は明美に引っ張られるようにして、照子にお辞儀をしながら玄関を出た。
「明美。お前、照子さんにあんな話をさせといて、その態度はないんじゃないか?」
帰り道、恭平は妹の無礼さを咎めるような口調で言った。
明美は前を見つめたまま、恭平の肩に頭をもたれた。長い睫が、瞬きの度に豊かに揺れている。
「だって…なんか、照子さん、やっぱり可哀想だったから。」
「…。」
「でも、叔父さんも可哀想なんだなって思ったら…なんか余計なことを言いたくなくて。私なんかが何を言っても、慰めにもお悔やみにもならない気がしたの。」
「…。」
恭平は何も言えなかった。
明美は知らないかもしれないが、恭平はもう一つの真実を知っている。
孝介がかなり深い同性愛者であるということと、それが幼少期に母親から暴力を受けていた心の傷から生じているということ。
それでもなお、恭平には彼を「可哀想」の一言で済ますことはできないということ。
複雑な想いを抱えたまま、恭平は妹を見た。
真実のかけらしか知らない明美は、それだけで心が充分に傷ついてしまったようだ。
兄は妹の手を、優しく強く、しっかりと握ってやった。
***
◇後書き
リクエストありがとうございました。
孝介・照子夫婦のお話でした。孝介さんの心は想像できないくらい暗いものがありそうですが、彼には実の兄の孝平さんや妻の照子さんなど、少なくも強力な理解者がいるので、きっとこれからもきちんと生きていけるのでしょうね(*^_^*)
これからもマイペース更新を続けるつもりの管理人ですが、
三年目もゆったりまったりなお付き合いをよろしくお願いします。m(_ _)m
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