◇夢で愛さんに会えた恭平くんがヒッソリ泣いてしまい慰める孝平さん


【母への涙】



恭平は大抵人の言うことを良く聞くし、例えそれが多少理不尽な理由から強引な理屈をこねられていても、無闇に逆らうことをしない。
そもそも争い事が苦手なのだ。我が強くないとも言う。
それが彼の美徳であり、欠点である。

とりわけ父には素直で、右を向けと言われれば理由もそこそこに右を向く。来いと言われればついて行く。

そんな彼がここ数日、こともあろうにその父を避けるようになっていた。従順な恭平にしては珍しい。
孝平は、残念なことにすぐに理由が思い浮かばなかった。
1度だけなら気にとめないが、2度も3度も愛想笑いを返されればさすがに気分が悪い。
問いつめようにも、仕事上にも気になる事を抱えていたので思うように時間が取れない。孝平にとってはどちらも代え難いものなので、恭平のことは念頭に置きながらひとまず目の前の山を崩していった。

悶々としながら仕事を終え、退社した午後20時。
外は小雨が降っている。
玄関前まで竹本が車を回してくれたので、傘をたたんで乗り込んだ。

「冷えてきたな。」
「そのようですね。」
「いつから降っているのだろう。」
「今朝の予報によると、午後3時頃だそうです。」
「そうか。」
孝平は窓越しに空を見上げ、月を探したが見えるはずもなく。
仕方なく座席に背をうずめた。

「明日、峰山たちと会議だったな。」
「そうです。朝10時から。今頃皆さん発表資料作りに必死ですよ。」
「長い残業はやめさせろよ。」
「楽しそうでしたけど。」
「それが救いだな。」
車は左カーブを曲がった。通行人はいない。
窓に雨の滴が点々と流れていて、そこに恭平の姿を思い出した。
何かを隠して微笑む姿は見ていて痛々しい。
孝平は振り払うように1度だけ首を傾け、肘をついて再び空を見上げた。

「…秋の天気が移り変わりやすいとは本当だな。昨日から今朝まで、確かに晴れていた気がするが。」
「昨日は旧体育の日でしたしね。」

10月10日。

「あ。」

孝平は身を乗り出した。
急なことに竹本も驚き、思わずブレーキに足をかける。しかし前方には何もなく、変哲もない道路が続いているだけだ。
幸い後続車に迷惑をかけない程度の減速で済んだ。
車を軌道修正し、竹本が再び孝平に注意を戻した時には、孝平は平静を取り戻していた。
しばし沈黙し、待ってみるが孝平から説明してくれる気配はない。竹本はじれて口を開いた。
「…何事ですか。」
孝平は助手席でふふっと自嘲するように笑い、手を振った。
「すまない。何でもないよ。少し思い出したことがあって。」
「…何、ですか。」
慎重に尋ねる。
孝平は不意に真顔になり、ついと視線を逸らした。
どんな時も相手の顔を見据えて話す孝平にしてみれば、これは異例のことだ。竹本は妙なところに関心した。

孝平は答える。
「妻の誕生日が、な。今日なんだ。」
「………えっ。」
「生きていたら、あいつも40歳過ぎだな。早いものだ。」

竹本はそれ以上聞かなかった。
孝平が聞いてくれるなと顔を逸らしたのも理由だし、それよりも考え込んだまま自宅の前に着くまで少しも動かなかったことが決め手だった。
実際、竹本の選択は孝平にとっても正解だった。

別れの挨拶もそこそこに、孝平は手に持った傘も差さずに早足で玄関をくぐった。
靴を脱ぎ捨て、リビングまで一直線に歩くとソファーに倒れた恭平を見た。
別の意味でギクリとし、慌てて顔を覗き込む。
肩を掴むと、ハッとして恭平が目を開けた。

「あ、父さん、お帰り…」
歯切れ悪く答えた恭平を、孝平はじっと見つめた。
彼はエプロンをしたまま眠っていた。体を起こそうとして、孝平に見つめられる気まずさを知る。
「…何?どうしたの?」
同時にポトッと頬が濡れたことに気付き、手を添える。
それが自分の瞳から流れ出ているものだと認識するのに数秒を費やした。
理解できた途端に目頭が熱くなる。

「恭平。」

孝平は声をかけた。
目の前で恭平は声を押し殺し、流れ出る涙を止めるために何度も頬を拭っている。
「ごめん、今日のことを忘れたわけじゃないんだが。」
「…」
「もっと早く帰らなければならなかった。愛にも謝らなくてはな…。」
孝平は目の前で涙を流す恭平を見てられず、カバンを置いてくるよと言って部屋のドアを開けた。
ついでにネクタイを緩め、首元と両手首のボタンも外す。
机に飾られた写真たてを手に取り、妻の笑顔に謝罪する。

今日が記念すべき君の誕生日だと、思い出すのが遅くなった私を許してほしい。


背後に足音がして、振り返ると恭平が立っていた。
「恭平…」
「お母さんが、夢に出てきた。」

恭平があまりにも息苦しそうに言うので、孝平は不安を覚えた。
一歩近付く。もう一歩。
恭平はもう、涙を流し続けることはなかった。
葬式の日涙を止めたあの時のように。情けなく脆そうなのに、頼もしい笑みさえ浮かべて。
「お母さん、笑ってくれてた。」

リビングのテーブルに座り、肘をつき、恭平を見て、微笑んでいたのだそうだ。
“お誕生日おめでとう”と恭平が言うと、ゆっくりと目を閉じて“ありがとう”と答えたと言う。
記憶の中の母はあの時のままに若々しく、全体的に白っぽい服が透き通って見えた。肩にかかった髪がゆるやかなカーブを描いていた。
恭平はそれを懐かしく眺めながら、言う。
“今日はみんな帰りが遅いらしくて。ごめんね…”
“そうみたいね。忙しいのは良いことだわ…誰かに必要とされているということだもの。”
“それはそうだけど…。せっかく母さんの誕生日なのに。”
“少しでも思い出してもらえたら、お母さんは幸せよ。心の隅で必要とされてるってことだもの。”
“…。父さんも…?少ししか思い出さなくて、それでいいの?”
母は複雑な表情になった。見透かされているのかもしれない。
恭平の背徳を。

母を大切に想えば想うほど、父を好きになった自分は何なのだろうとやるせなくなる。
耳元で甘い言葉を囁く彼の気持ちはどうなんだろうと疑いたくなる。
どれも真実なのに、全てが矛盾している気がしてしまう。
母を母と、父を父と呼んではいけない。生まれてきてはいけなかった。
出会ってはいけなかった………


どん底の沼にいる恭平を救い出したのは母の手だった。
頭を撫でて、両手を引いてくれる。

“お父さんには未来があるのよ。恭平にだってお父さんの倍以上、大きな未来があるわ。言ったでしょう、母さんは少しでいいから、ずっと覚えててもらいたいの。少しだけでいいから、ずーっと忘れないで。必要として。多くなくていい、多すぎない方がいい。少しが、ずーっと続いて欲しいのよ。忘れないでね。”

母の笑顔は優しかった。
天使のように。

“そうしたらお母さんも、お父さんや恭平の未来に在ることができるでしょう?”

ないと思っていたものが輝き出す。



「お母さんを忘れないでね。」
恭平は囁いた。やっと聞き取れるほどの小さな声で。
孝平はそれを受け止める。
初めから忘れられるはずがないのだ。目の前の人物が、彼女の腹の中から生まれてきたのだから。

孝平は返事の代わりに、恭平の背をポンポンと叩いた。
涙で腫らした恭平の目は赤く充血していたが、もう潤んではいない。
「忘れるものか。そのことで怒ってたのか?」
「…母さんに、顔向けできない気がして…」
「恭平が言う台詞ではないなぁ。」

顔向けできないのは、むしろこの関係を欲し、かつ始めた自分である。
その責任は何もかも負うつもりだ。可能な限りの償いはしよう。

「…父さん。」
「うん?」
「俺は…」
恭平は口を開けたまま一瞬静止し、尻切れトンボのまま言葉を切った。
言いたいことはなんとなくわかるものの、孝平は黙って先を促す。

頬を染め、瞳には母への思慮を残し、愛に似て形の整った唇が開かれる。
視線と共に心まで吸い込まれそうだ。

「…父さんを……好き、でもいいんだろうか………」

答えの出る問いではない。

孝平は何かを言う代わりに、手を握った。
恭平も握り返す。

ふとテーブルの上に飾られた、先ほどと同じ写真に目がいく。6人で写っている家族写真。

その中で愛は、幸せいっぱいに笑っている。


***


◇後書き

リクエストありがとうございました。

星崎充さまに捧げます。
孝平さんは10/11を忘れたわけではありません。ただこの日だとは覚えていなかった…恭平くんはもどかしかったでしょうね(^^;)夢の中で愛さんが複雑な表情をしたのは、そのまま恭平くんの心情が反映されたものなのではないでしょうか。

これからもマイペース更新を続けるつもりの管理人ですが、
四年目もゆったりまったりなお付き合いをよろしくお願いします。m(_ _)m


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