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◇恭平くんがいないとどうにもならない佐久間家
俺んち、兄貴中心に回ってるんだ。
かつて良平が、杉野に言った言葉である。
杉野はほぼ一人っ子の状態で育ってきたし、父方だけの血が繋がった唯一の姉とは年も住んでる場所も離れていたから、当時は良平の言っていることが想像の範囲でしかなかった。
存命だった母は専業主婦だったらしいから、彼女のこなしていた家のことを代わりに兄がこなしているのだろう、と。
衣食住の管理を行っている主たる人物が年齢的にたまたま長兄だったのだろう、と考えた。
その想像は間違ってはいないのだが、必ずしも完全正解とは限らない。
ということを杉野が思い知ったのは、付き合って半年後の秋のことだった。
授業を終え、掃除をクリアした後、杉野はいつも軽い足取りで校門へ向かう。
この時期になっても受験勉強なんて後回しだった。
校門から少しばかり歩いた、駅と反対側の細い川沿いに1本の桜の木が立っていて。そこの下で待ち合わせするはずの良平の姿を探す。
いつも先にいて、遅いッとぶーたれる良平が、この日はまだ来ていなかった。
どうしたのだろう?
瑞樹なんかとふざけて遊んで遅くなっているのだろうか。
あ、委員会の会議か?最近文化祭がアツイとかなんとか言っていた気がする……
悶々として幹の横に座り、英単語帳を捲る。
しばらくするとそこへ、息を切らした聡平が駆けてきたのだ。
「いたいた、せんぱーい。」
彼は良平とそっくりの鼻に縁なし眼鏡をかけて、そっくりの声で呼びかけてきた。
違うのは髪の長さとよく日に焼けた肌の色だ。
サッカー部の聡平は、それはそれは魅力的な小麦色をしていた。
「おー聡平。今日練習休みか。」
「いえ、あるんですけど、休みもらってきたんです。」
「へぇ?珍しいな、未来のエースが。」
「そんな巧くないっすよ。それより良平のことですが。」
「良平のこと?」
「はい。今日は先帰るワリィ、とのことです。」
口調までそっくりに真似ることはないのに。
杉野は呆れて単語帳を閉じた。
「急用ができたってこと?」
「あれ、あいつから聞いてないんですか?」
「何を?」
「…。」
聡平は微かに動揺を見せ、まばたきを数回繰り返した。
杉野は首を傾げる。わずかな沈黙の後、聡平は顎に手を当てて言った。
「あ〜…。そういうことか。」
「え?」
「あいつにも恥じらいとか世間体なんてものが存在するんだな。なるほど。」
「は?」
「杉野先輩に知られたくなかったんじゃないっすかね。」
「何を?」
「兄貴が心配で仕方ないってこと。つまりまぁ、兄貴離れできてないんですよ、あいつも俺も。」
「…はい?話が見えないんだけど…」
「昨日、兄貴が急に、足が痛いって言い出して。昔怪我したとこですが。」
杉野は恭平の歩き方を思い出す。
確かどちらかの足が少し出し遅れるような、不規則な歩き方だったはずだ。
「そんで今日、親戚の叔父さんの車で病院行ってるはずなんですよ。それを迎えに行ったんじゃないかな。」
「ほう。じゃ、そう言うお前も?」
「俺は病院までは行かないっすよ。帰ってメシ作ろうかと思って。代わりにできるのはそれくらいですからね。」
ついて来ます?
聡平の言葉に、杉野は戸惑いながら頷いた。
佐久間の家は静かだった。閑散としている。
聡平は手際よく杉野を招き入れ、リビングで麦茶を出した。
「午後に行くって言ってたから、たぶんそろそろ帰ってくると思うんですけどね。」
聡平は言って、テレビをつけた。適当に時間を潰せと言うように、リモコンを杉野に手渡す。
「恭平さん、そんなに悪いの?」
「や、そんなことないと思いますよ。今寒くなってきてるから、それで関節なんかが痛むんだと。去年も今ぐらいの時期にそんなこと言ってましたから。」
「へえ…」
五体満足の健康体には、想像はできても実感はない。
そうなのか、と杉野は呟いた。
慌てた良平が帰ってきたのは、それから1時間後だった。
その頃には台所からシチューのいい香りがしていたし、杉野は英作文の練習問題を何問も書き終わっていた。テレビの番組も変わっていた。
良平はひどく焦っていた。
「聡、聡、いるか?明美は?」
「俺はいるよ。明美はまだ。」
聡平は台所から顔を出した。
「兄貴どうだって?」
「それがさ、入院だって。入院。」
「え?!」
聡平と同時に杉野も驚いた。思わず腰を浮かす。
そこで杉野に初めて気付いた良平は、幾分かほっとした表情を見せた。
「あ、杉野…。今日はごめん。」
「うん。それより入院って?」
「ああ、検査入院?って叔父さんは言ってた。それで俺は服を取りに来たわけ。」
そうだ服、服、と言って良平はすぐさま兄の部屋へ駆けていく。
その足取りが頼りなくフラフラしているようで、彼の動揺ぶりを表していた。
聡平はコンロの火を止め、エプロンを片手でがばっと取り去った。そのままそれをテーブルに放り投げ、良平の後を追う。
「良、俺が行く。」
「いいよ、あとで明美を連れてきて。」
「そうもいかないだろ。」
杉野先輩がいるんだから、と杉野の耳にも聞こえた。
まずい、帰った方がいいだろうか。
何となくこのまま彼らを放っておくのは気が引けるのだが…。
進退極まった杉野の元に、最後は良平がやって来た。
その後ろでバタバタと聡平が玄関を出て行く。
良平は疲れた顔をして杉野の横に座った。
「学校からそのまま来たのか。」
「ああ、聡平と。」
「ごめんな。授業中とかもソワソワして落ち着かなくってさ。」
「恭平さんそんなに痛いって?」
「兄貴は大したことないって言ってる。でもいつも自分で歩いて病院行く人が、今日に限って車を頼んだりするから、ひどいのかなって。思うだろ?」
「ああ。」
「そしたら入院だし。嫌な予感って当たるよなぁ…」
検査だから短いだろうけど、と付け足して、良平はやっと制服のブレザーを脱いだ。
いきなり脱ぐので、杉野は思わず息を止める。
白いシャツが透けて向こうの肌が見えている。首もとの、鎖骨のラインを凝視していたら、横からブレザーが飛んできた。
「っんな見るんじゃねー!」
やばい、襲いたい……
そんな下心を見透かしたタイミングで、中学生の明美が帰ってきた。
何か良いことがあったのか、ご機嫌よろしくリビングまでやってくる。
そして制服のままで座っていた杉野を見つけ、反射的に振り回していたカバンをさっと背中に隠した。
「わぁ!」
「久しぶりです、明美ちゃん。」
「こ、こんにちはぁ。びっくりした…。あれ、良平、サンは。」
「誰が良平サンだ、誰が。似合わねぇ言い方するんじゃねーよ。」
着替えて階段を降りてきた良平は妹の気遣いに悪態をつく。
次いで、早くお前も着替えろと忠告した。
「へ?なんで。」
「兄貴がしばらく入院することになった。会いに行きたいだろ。」
「えっ!?…もしかして昨日の?」
「そう。早く。」
明美は動かなかった。
輝いていた瞳は、今や涙の中で揺れていた。
数秒前まで上機嫌であったのがまるで幻のようだ。
「……そんな!入院なんて聞いてないっ。どのくらいなの?」
「知らねぇよ。検査のためだから、すぐだよすぐ。」
「やだ。どうしよう。いやだなぁ…」
「泣くなっ!早くしろ。」
良平は泣き出した妹を二階へ押しやった。
杉野は何も言えない。ただ呆然とするのみである。
早引きする勢いでいち早く病院へ駆けつけた良平。
毎日熱心に取り組んでいたサッカー部を休んだ聡平。
そして入院という言葉だけで泣き出してしまう明美。
たかがと言っては失礼かもしれないが、兄一人の周りでこれほど一喜一憂する弟妹が世の中にどれだけいるのだろう。
杉野は見たことがなかったし、自分にいないもののありがたみなんてわからない。
いたら楽しいだろうな、と望んだことがあるのは否定できないが……
明美は素早く着替えを済ませ、一階へ降りてきた。平静を取り戻したのかもうぐずってはいなかったが、鼻の頭がほんのり赤く染まっていた。
良平はポケットに手を突っ込んで杉野のカバンを持ち上げる。
「ごめん杉野…。今日は、もう。」
帰って、と遠慮がちに言った。
もちろん杉野にも居座る理由は何もない。
「明日詳しく話すから。ごめんな。」
「いいけど…俺もお見舞い行こうか?」
「お前勉強しろよ。受験生だろ。それに、俺がお前の相手してらんないと思う。みっともなくて…自分でも笑っちまうけど。そんな俺をお前にはまだ見せたくない。明日、また会おう。」
「…そんな。」
俺は見せてほしいのに。
「杉野。頼む。」
「……わかったよ。」
長居は無用らしい。
明美が玄関から良平の名を呼んだ。早くして、とまるで初めから急いでいた風に言っている。
チッと小さく舌打ちし、きびすを返した良平に、杉野は置いてけぼりをくらう気がした。とっさに腕を掴む。
「…?杉野。」
「恭平さんは…」
「兄貴は大丈夫。俺がなんとしてでも元気にして連れ戻す。」
そうじゃない。
言いたいことは、そういう意味のことではなかったのだが……
杉野は微笑んで、そうだね、と答えた。
あれから数年を経た現在でも、例えそれぞれが進学して異なる環境下に身を置いているとしても、佐久間家の中にはコレと言った大きな変化はないようだ。
杉野は、未だかつて良平がみっともないと笑った良平自身の狼狽ぶりを見たことがない。少なくとも可笑しいと思ったことは一度もない。
誰の話題より敏感に反応するのは確かだ。
誰よりも怖れ、心配するのも確かだ。
それは良平に限ったことではないこともまた、確かなのだ。
杉野は思う。
杉野は恭平という人物が好きだ。知れば知るほど、嫌いになれない。
その恭平は相変わらず彼の兄弟全員、ましてや父親にまで、大きな存在感をもって彼らの中心に在るらしい。
このことが少し悔しい。
***
◇後書き
リクエストありがとうございました。
このサイトの核を鷲掴みするようなリクエストでございました!ひ〜!考えれば考えるほど、ドツボにはまっていくような…;; 苦肉の策で結局入院させてしまったし(苦笑)恭平くんの姿を一度も出さずに書きたかったので、それができたのは良かったな、と思います。
これからもマイペース更新を続けるつもりの管理人ですが、
四年目もゆったりまったりなお付き合いをよろしくお願いします。m(_ _)m
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