入社して十年近く経ち家庭を持たない西川は連日の残業と接待攻勢に疲弊していた。
疲労を引き摺って帰るマンションは通路の蛍光灯が切れ掛かってパチパチはぜる音を立て点滅する。
家の前に猫の死骸。
今月に入って二度目。エスカレートしている。
無残な状態で放置される遺体を見下ろし、西川は玄関を開けることをためらう。
ただでさえ残虐な状態で放置される猫の遺体を扉を開けることで押しのけてしまうと、今よりもっと嫌な気持ちになるだろう。
耳鳴りを聞きながら新聞受けに刺さったチラシを抜いて、猫の遺体がバラバラにならないように包む。以前同じように葬った土の隣へ埋めに行く。
誰が、何のためにこんな事をするのか。
憎まれてのことだろうが、理由が分からない。
土に汚れた手は生き物の死のにおいが染み付いていた。
家に帰り洗面台で手を洗う。鏡に映る汚れた顔。
込み上げてくる嫌悪と恐怖に嘔吐する。

俺が狂うのを待っているのか。馬鹿な。

ネクタイを緩め上着を脱いで、それだけで力尽きてベッドに倒れこむ。
明日は企画会議と得意先への接待……あと何があったか。
眠らないと明日に響くと分かっていても、疲労が脳を動かし続ける。
泥のようにベッドに沈む身体を疎ましく感じながら、眠れなくともせめてと西川は目を閉じた。

閑寂としたなか玄関の扉が開く音が響いた。
虚ろな意識の中、殺されるのかと思う。
あまり恐怖を感じない。……それは嘘か。
ただ諦めが勝る。

「こんばんは。ぼくですよ」
そんなふざけた言葉で寝室に現れたのは、見たこともない若者だった。
どこにでもいる、ごく普通の青年だ。
彼が猫を殺しているのか……。とてもそうは思えない。
しかし他人の家へ平気で上がりこむあたり、普通の青年とも言えない。
「無用心ですよ、西川さん」
「……そうだね」
掠れた声で平然を装うと、男は満足そうに笑い近寄ってくる。
気味の悪さに胸がむかつき、上体を起こし睨みつける。
「君ね、何のつもりか知らないけど……」
男はジャケットのポケットからナイフを取り出していた。
ナイフを突きつける男の目はにやにやと笑いを残したままだ。
「殺されるのと犯されるの、どちらがよろしいですか?」
「……どっちも嫌だ」
「そうですか。どっちもして? 困ったなぁ」
「いいかげんにし」
声を荒げる前にナイフの刃先が首筋を走った。
動脈を外したものの、熱い痛みと液体の流れ出るのを感じた。
「冗談だと思いますか?」
男は笑っていた。こいつは、間違いなく狂人なのだ。


携帯はさっき脱いだ上着のポケットのなか。
こんな時間だ、誰かが訪ねて来ることもあるまい。
右手首と右足首のそれぞれに掛けられた手錠はベッドの足に繋がれた。
その間に抵抗して出来た痣と切り傷が熱を持つのか身体中がどくどくと脈打っている。こんな風にひとに暴力を振るわれたのは初めてで、理不尽なはずなのに萎縮する。ろくに喧嘩もしないで育ったことが今更悔やまれた。
どうすれば逃げられるか。西川の頭の中には逃れる手立てと諦念がせめぎ合う。
男はベッドに腰を下ろすとジーパンのチャックを下ろし、咥えろと命じた。
嫌だと言い、また酷く殴られる。
男は西川に人間を辞めろと言った。それしかないのかと思う。
暴力が人間を服従させるのか。

「歯ぁ立てたら全部折るぞ」
西川は吐き気を抑え男の昂奮した性器を口に含む。ヘタクソと罵りながら、支配感に満たされてか男の欲情は脈打ちながら拡大していく。
こうやるんだと言いながら男は西川の手を取り、卑猥な舌使いで指を舐める。
言われたとおりに出来ないと分かると、男は自ら腰を使い始める。
髪を掴まれ揺すられながら、西川は自意識の死だけを祈った。
口内に放たれた男の精を吐き出すと、気に入らないのか殴られる。
自分より若い男に好き勝手され西川の自尊心は打ち砕かれる。
憎悪に支配されながら、暴力に抗う術を持たない。生き物を殺す事をためらわない男だ、上手く遣り過ごす方が賢い。そう念じながら西川は男の気がすむのを待った。
男はまた西川の指を舐め「痛い思いをしたくなかったら慣らせよ」と言った。
意味が分からずにいると、男は舌打ちをして西川の排泄器官まで指を誘導した。
信じられないという気になっても、どうせ拒絶したところで殴られるだけだと腹を括り指を差し込む。歯を食い縛り耐えるも、喉の奥から呻きが漏れた。
苦痛と嫌悪感に襲われ死にたくなる。
「そうじゃなくてさぁ」
形ばかり後腔を犯す指に男は満足せず、西川の手に自らの手を重ね指を進入させてくる。一本の指でも苦しいのに二本の指を受け入れるのは殴られるよりも辛かった。
西川は殺しきれない悲鳴を漏らした。
中で蠢く男の指を嫌悪しながら呻く。痛みと苦しみが下半身に集まってくる。
男の指が前立腺を掠め、西川は身体を振るわせた。
「ほら、ここ」しつこくそこを刺激しながら男は言う。
西川の立ち上がった性器を満足そうに擦りながら男は獣のような色目を西川に向ける。これは生理現象だと念じながらも西川は息を乱し与えられる快楽から気を逸らそうと苦心した。

「西川さん、一人の時じゃないと声出ないんですか?」半笑いで男は言った。
「一人でやってる時はあんなに可愛い声を出すのに」
盗聴までされていたことに怒りが込み上げる。マスターベーションまで聞かれていたことが怒りと羞恥心を呼び激しく脳を揺さぶった。
何故こんな目に遭うのだと、理不尽さに胸が騒いだ。
背後で荒い息を吐く男に、訳を問えば答えるのだろうか。
痛めつけられる身体を置き去りに脳が思考する。
張り詰めた男の性器が何度も前後し体内で精を吐く。
湿りを帯びて出し入れが易しくなっていくのが嫌だ。
男を悦ばせる己の器官が嫌だ。
男の手にオモチャにされる自らの性器をも嫌悪する。
西川は短絡化していく思考を止められなかった。
男の思うままにされる身体が思考することを拒絶する。
突き上げに支配された呼吸に羞恥を覚えながら、 男を楽しませるような声を発しないことだけ注意した。
しかし、西川が吐き出す呼気だけで男は支配感に満たされていたのだ。
ベッドに取り縋りながら、西川は男の意のままに呼吸を乱した。


「誰なんだ、おまえは……どうしてこんな……」
ようやく行為が終わり、西川は疲れ果てながらも訊ねた。原因も分からないままストーキングされたあげく犯されたのだ。何か理由があるならば、納得できるかもしれない。そんなわけないが。
「西川さんみたいに立派な人が覚えてもないようなクソ野郎ですよ」
男は自嘲するように笑い「簡単な仕事も任せられないような人間です」と言った。
それでようやく分かった。一昨年、入社間もなく辞めた……。
「そうか、君は……」
「そうです。ぼくですよ」
俯いてばかりいた新入社員を、西川は何度となく鼓舞していた。時に厳しい口調になっていただろうが、それで逆恨みされていたのだろうか。そんなことで……?

「ぼく、西川さんが好きだったんです」
男は消え入りそうなほど低い声で呟くと、そんな事は言っていないというほど調子を変えて「また来ます」と笑い素早く家を出て行った。
一人きりになって、西川は110番の電話を掛けるのをためらった。
被害者は間違いなく自分だ。
しかし、司法に委ねた所でまた繰り返すだけなのではないか。
根本を解決することは難しいかもしれない。 だが、西川はどこに仕掛けられてるかも分からない盗聴器に語りかける事から始めようと思った。
それが正しい判断でないことを知りながら、西川はそれ以外方法はないように感じた。男を犯罪にまで追い込んだのは自分だという引け目からだろうか。
自分を好きだったと言った男の言葉を信じてみたかったのかもしれない。

「聞いているのか、吉本……」


(終)
(05.3.21)
置場