愛の罠



 派手なアロハシャツを着た男は、閑静な住宅街には不自然な存在だった。
 サングラスで表情を隠し、素足に雪駄。サラリーマンにはとても見えない。
 斜に構えた男の腕を取り、室内に引っ張り込む。よろけながら、なだれ込むように樋口の胸へ顔を埋めた男は不満げに声を上げた。
「危ねぇじゃねぇか!」
「なんで家に来たんだ!」
 怒鳴り声に怒鳴り声を返すと男はサングラスを外し、急ぎの用だと言った。
「悪かったな……携帯が繋がらねぇってオヤジが癇癪起こしてんだ」
「ああそう、で? 仕事なら明日にしてもらいたいな」
 冷たく言い放つと、男の目は不安に揺れた。
「頼むよ……急ぎの用だって言われてんだ…オヤジが癇癪起こしてて」
「だから? こんな時間に急ぎの用? 遺言書の作成かなにか?」
 もうすぐ日付が変わろうとしていた。いくらそのスジの顧問弁護士になったからといって、こんな時間にまで拘束される気はなかった。
 それに急ぎの用と言ったって、どうせあの事だ。
「頼むよ……ガキの遣いじゃないんだ…」
 このまま帰ったらオレ……と言う男の目は薄っすらと涙で潤んでいた。本人に自覚はないのだろうが、その外見とのギャップが樋口を大層喜ばせた。
「君、名前は?」
 突然の問いに男は困惑しながら「藤原」と答えた。
「藤原君、これは貸しだからね」
 藤原の顔にパッと笑みが生まれた。言いつけられた仕事が上手く行った事に満足しているのだろう。少年のように屈託のない笑顔に、樋口は目を細めた。
「藤原君、貸しは必ず返さなければいけないよ」
 樋口が浮かべた笑みの正体を、藤原が気付くことはなかった。


 呼び出されたホテルに着くと、藤原は入口で立ち止まり頭を下げるので樋口は「明日、家においで」と言って別れた。
 どうせ今夜は帰れそうにない。金払いのいい上客を逃さないためにも、樋口は望まれるまま時間外サービスに励もうと思った。
(それに……)
 それに、どうやら新しい風が舞い込んできたようだ。樋口は溢れそうな笑みを堪えエレベーターに乗った。

 翌日、夜。
 玄関には藤原が立っていた。昨日とは違うがやはり派手なシャツ。裸足に雪駄という姿。樋口は込み上げてくる笑いをこらえ招き入れた。
「昨日は無理を言って……これ」
 差し出されたのは桐の箱に入ったメロンだった。樋口は視線を外しながら桐の箱を差し出す藤原をまじまじと見詰めた。樋口がいつまでも箱を受け取らない事を不安に思ってか、藤原は探るように樋口の顔色を窺った。
 目が合った瞬間、樋口はフッと息を吐き出し盛大に笑った。
「何がおかしいんだよ!」
 不服そうに喚く藤原をなだめ、樋口は箱を受け取った。目には薄っすら涙を浮かべている。
「いやいや……大変よろしい」
「なんなんだよ……」
 藤原は戸惑いながらも樋口に促されるまま部屋に上がった。
「さて、藤原君」
「な…なんだよ?」
「僕は時間外の仕事に煩わされるのは嫌いなんだ」
「分かってるよ」
「そんな僕が君の頼みを聞いたんだ」
「……」
「……メロンでチャラになるような安いものだと思うかい?」
 樋口の目に冗談が滲んでいないことが藤原を不安にさせた。樋口の目の奥を探るように覗き込む目は、飼い主の顔色を窺う犬に似ている。
「さっきは…よろしいって……」
「心がけは、ね」
 今、必死で頭を巡らせているだろう藤原の眉間に樋口はそっと口付けた。
 反射的に身を反らせよろけた藤原の腕をつかみ、樋口は余裕の笑みを浮かべた。
「まあ、少し付き合いなさい」

 これはゲームだよと言って樋口は藤原の視界から消えた。
 藤原は目隠しされたまま、座らされた椅子の背に回すようにして両手をビニールテープで拘束された。
 暴言を吐きながら暴れる藤原に、樋口ははっきりとした支配者の声で静止を命じた。
「君は僕に借りを返さなければならない」
「だからって……こんなフザケタことっ!」
「今日だけだ。今日だけ、君は僕に服従したまえ」
 ふざけるな! と声を上げる前に、藤原の口はしっとりとしたものに塞がれた。何か、と思ったのは一瞬で、ねっとりと藤原の理性を絡め取るように動くものが樋口の舌だということはすぐに理解できた。
 口内を犯す樋口の舌はすぐに藤原の意識を奪った。言葉が継げぬようにと蠢く舌に思考をままならなくされ、藤原は粘膜を支配する樋口に従順になった。
 口付けを続けながら、樋口は藤原のスラックスを脱がせた。一瞬身をよじらせた藤原を、快楽に攫う。
 唇を離すと藤原は荒い息を吐く。揺れる肩と濡れる唇に樋口は満足を覚えた。
 藤原の両足を左右それぞれ椅子の足に固定する。藤原の自由は奪われていた。
「あ…あんた変態だっ……!」
「知ってるよ」
 くすくす笑う樋口に、藤原は聴覚だけで恐怖した。
 派手なシャツのボタンを外すと、引き締まった腹筋が現れる。視覚を奪われた藤原は身を硬くし、かすかに震えている。樋口の指先が腹を撫でると、全身の筋肉がビクリと反応した。
「どうして自由を奪うか解るかい?」
 樋口の問いに、藤原は「変態だからだろ!」と声を荒げる。樋口は笑い、藤原の乳首に爪を立てた。
「一方的に快楽を与えるためだよ」
 甘い悲鳴を上げる藤原に痛みと隣り合わせの快楽を与え続ける。樋口は藤原の乳首を舐め、歯を立てる。痛い痛いと声を上げながら、藤原の下肢は反応を始めていた。
「藤原君、きみマゾだろう?」
「んっ…なわけっ…あるかっ!」
 そうかなぁ…と笑いながら、樋口は藤原の身体の中心で熱を持つ場所をやわやわと扱いた。
「もうこんなにしてるの?」
 耳元に囁くと、藤原のものは樋口の手の中でビクンと脈打った。見えないことが羞恥を呼び、快楽を生む。藤原は樋口の思うまま、過ぎる刺激に溺れていた。

 卑猥な水の音が余計に快楽を煽る。藤原は触れられたことのない場所を樋口によって開かれていた。一本だった指が今何本になっているのか、朦朧とした頭では判断できない。不快だったはずが、しつこく擦られるうちにいつしか堪らない疼きを呼んで藤原を追い詰めていった。
「っはあ……も…もうっ!」
 ねだるような藤原の声音に樋口は満足する。
 乞われるまま与えるのもいいが……。
 思案し、身を離した樋口に藤原は「早く」と喜悦に染まる声を上げた。
 樋口は何も言わず藤原の目隠しを外した。涙を浮かべた瞳は欲に滲んでみだらだ。探るような藤原の視線を無視して、樋口は手足の拘束も外していく。
 突然の自由に藤原は戸惑い、限界の近付いた身体を持て余し縋るように樋口を見詰めた。
「さて、藤原君。日付が替わってしまったわけだけど」
「…っ……な、に?」
「約束は今日だけってことだったから」
 残酷なほど涼やかに言う樋口に戸惑いを見せ、藤原は小さく「でも……」と呟いた。
「どうするかは自分で決めなさい」
 そう言うと樋口はじっと藤原の目の奥を覗いた。惑い揺れる瞳の色を確かめるように。
「……頼むよ…こんな……」
 震える藤原の声に樋口は笑みを浮かべ「なに?」と問うた。
 藤原は両腕で樋口の首に巻きついて、耳元にはしたない言葉で乞うた。
 藤原は樋口の首に頭を埋めて、かすかに震えていた。藤原の媚態に樋口は目を細め、震える身体を抱き締めた。
「……大変よろしい」


 ぐったりと伸ばした身体の関節すべてが弛緩し、糸の切れた糸吊り人形のように天井を見詰める。藤原は樋口の口付けをうるさがって寝返りをうつ。
「なんでこんなことになるんだ」
 吐き捨てるように呟いた藤原の頬に無理やりキスして上向ける。眉間に皺を寄せる藤原に、樋口は「またおいで」と囁いた。
 女ならば、嬉しいんだろうな。そう思いながら、藤原は「ふざけんな」と答える。
「もう二度と来るもんか」
 声を上げすぎて掠れた声は樋口の支配感を満たす。これからこの男をどうやって欲に狂わすか。思案しながら深い口付けを仕掛ける。
「すぐに来たくなるさ」
 樋口はそっと藤原の耳を舐め「僕じゃなきゃ満足できなくなってるよ」と甘く囁いた。
「……っな!」
 顔を赤くして「冗談じゃない」と声を荒げた藤原は、樋口が仕掛けた次の罠に気付くことはなかった。



(05.4.18)
置場