どうにもならぬと浮世にごろつき、身の内から溢れる酒気にまた頭が濛々と覚束なくなってくる。見知らぬ人と行き会って殴りあいの喧嘩に発展するもそれは一方的に殴られるということと同義であった。私の右手は人並みの働きをさえなさなくなって久しいのだ。
口の中に鉄の味が絶えない。冷え込みがちな深夜の線路沿いを右足、左足と交互に出して歩いていく。頭を右、左と順に動かしてみる。なあに狂騒なんてバカみたいなものだ。ハハハと笑い、そのむなしさに口を噤み、見上げた夜空に月もなく、群雲の風情もなかった。薄汚れた空の端、駅の方角ではまだネオンが光っている。
途方もなく長く意味のない人生があと何年残っているのか考えるのも恐ろしい。未来という言葉を夢をもって見詰めていられたのはいつまでだったろう。いつから暗澹を意味する言葉になったのだろう。線路沿いの安アパートへ帰る。帰路はいつだって空虚なのだ。他人の家へ帰る。
薄い鉄製のドアを開ける。年季の入った蝶番が悲鳴を上げる。部屋の隅で女の息子が勉学に励んでいる。当の母親はいない。言葉もない。
大学受験を控えているから邪魔しないでちょうだいと女は言った。酒を飲んでばかりいる私より輝かしい未来を持つ息子の方が大切らしい。当たり前のことだ。女の息子は私たちが持っていないものをすべて持っていたのだから。女はろくでもない人間だったが息子のことを語るときだけ母親らしい顔をした。けれどそれは私や酒場の仲間たちに限ったことで、当の息子本人とはまともに会話もできないようだった。赤の他人である私が傍で見ていても、ぎこちない母子関係であった。女は我が子の前では初めての片想いに胸を焦がす少女のようであった。子供はそんな母親を蔑んでいるようだった。私との関係を憎んでいるようだった。
部屋の隅に端座してノートにシャープペンを走らせる姿は修行僧のように情緒を排した一心さがあった。彼にとって私は空気と同じかそれよりも希薄な存在であった。けれど私は空気と馴染めないので、同じにされても居心地悪く気詰まりであった。
「……夕飯は食べたのか? なにか作ろうか」
「食べました。結構です」
「コーヒー淹れるけど」
「……」
「飲むか?」
「いりません」
私にとって情婦であり彼にとっての母親である女が存在しない空間では私たちは他人よりも緊張を強いる関係となるのだ。手鍋に水を張りガスを点ける。湯が沸くあいだ、私は私の時間を生きていることを証明したいがために煙草に火を点けた。子供はとうに自分の時間に戻っている。私たちが共有したほんの一瞬間は彼の頑なさを壊しはしなかった。
星が好きなのよ、と女が言った。息子の好きなものだった。ああそうなの、俺も子供の頃はよく星を観に行ったよ。ぎこちなく食卓を囲みながら交わした会話は彼から天体嗜好を奪った。彼は私と同じ嗜好をすべて捨てていく。部屋の隅、彼専用の本棚の一番隅で天体写真集が埃を被っていた。
「あの子の父親がよく星を観に連れて行ってくれたのよ」
息子のいない場で女は言った。
彼の人の父は一人きり。私はあの善良な大工にもなれず、酒を浴び博打に遊び仕事もしないで堕落姦通した女の世話になって暮らしている。恥じらいもない。卑怯者の生存方法だ。彼はそれを嫌悪している。
高校生の頃、清廉潔白なクラス委員は私の怠惰を嫌っていた。私は彼を嫌いじゃなかった。正義を信じ正論のみを語る彼を陰で笑うものもあったが、正しさの前ではなにものも勝利しないことを私は知っていた。野良猫がなつく要領で私は彼に親しみを覚えた。彼の孤独を知った。彼になら裏切られても平気だった。それは私が彼以上に彼の正義を信じていたからだろう。
何年も忘れていたことを思い出す。女の息子があの頃の彼と同じ年頃で、学生服で、彼と同じ目で私を見るからだろう。
頬が熱い。先ほど殴られたあたりが今更熱を持ってきたのか。今更熱さを感じただけか。子供はペンを置いて寝支度を始めている。
「お母さんは?」
今更過ぎる質問をする。知りませんの一言が返ってきた。
「男の人と遊んでいるのかもしれないね」
恐らくないことだろうと思いながら言ってみる。
「俺みたいのが父親になるよりいいかもしれないね」
子供はなにも答えなかった。覚束ない右てのひらを頬にあてると冷えて心地好かった。自然と頬が緩んでいた。私は笑っていた。意図しない表情だった。子供は眉間のあたりに少し力を入れたようだが私の前で表情の変化を見せない心積もりか視線を逸らし、敷いた布団に身体をもぐりこませてしまった。
電灯を橙の豆電球だけ残して消してしまう。子供はこちらに背を向けたまま布団の中で身動ぎもしない。不意と胸がざわついた。孤独は恐らく私の心臓と同じ形をしている。高校時代のクラス委員、話に聞いただけの彼の父親、呼んでも応えることのなかった私の父親、その全部が年若い青年の背中にあった。私を傷付けるのは私の手に触れないものだけだ。私の手に触れぬものだけが美しい。まぶたの上に置いた右手が涙で湿った。なんて醜いのだろう。なぜ泣いているのだろう。天体観測。君は、星を観るのが好きだった。