冬は寒い。午後四時を過ぎて風は夜の冷たさを帯び始めていた。マフラーだけではそろそろ不十分か。ポケットに両手を突っ込んで歩く。吐いた溜息が白く目に表れた。昇降口を出て駐輪場へ向かう。自転車は寒いだろうな。
「坂井!」
呼びかけられた方向へ振り返る。美術室の窓から竹下が肩を竦めて手招きをしている。そういえば朝辞書を貸していた。
「なに? 辞書なら机に置いといてくれたらいいし」
「いや、そうじゃなくて」
「なに?」
「豊島がさ、豊島しほがおまえのこと好きだって」
「ふーん」
「ふーんっておまえ、他にあるだろ色々」
「なんで竹下が言うの?」
「あ、そっち? そっち気になっちゃう感じ?」
「さみぃ」
「あ、来る? こっち。あったかいよ」
「いい帰る。で?」
「ああ、豊島しほ? メールしたいんだって」
「会話になってねーよ」
「ああ、うん。恥ずかしいから自分で言えないって」
「ふーん」
窓枠越しに会話していると美術室特有のにおいが鼻をついた。竹下は油絵具のにおいが手にしみているらしい。
「……あれ、おまえが描いたの?」
「あれ? そう、俺」
「上手いね」
「さり気なくそういうこと言うなよ、好きになっちゃう」
「ばーか」
冗談で会話を終わらせて別れる。さっきよりも深い溜息が出た。カンバスの中に描かれた木星。頭上はるか遠くあんなに綺麗な天体があるなんて、信じられない。一体あれはなんのために美しいのだろう。
「はっ」
くだらない。くだらないと思う気持ちが声に出た。どうだっていいんだあんなものは。俺は合理的でなければならない。機械的でなければならない。感傷だけを頼りに星を眺めて、それがなんになる。無駄なものは必要ない。なんにもならないものは必要ない。
「しばらくの間ね、住んでもらうことになったから。部屋が見つかるまでの間だからね。優しい人だから」
夏に母はそう言った。居ついてしまうだろうことは分かっていた。母に紹介されて現れた男は母よりも若く、不健康そうな顔付きをしていた。
「なにをしている人?」
「事故でね、右手が少し……」
母が言葉を濁すので、追求は無意味と悟った。男は事故の影響で職を失い、寮住まいを解消されたのだそうだ。苦労してるのよ、と母は語る。端から生活力のなさそうな男だが、もとより母はそういう男が好きなのだ。
小五の時に父が死んだ。言葉の少ない人だった。涙が流れなかった。悲しいのかも分からなかった。可哀相な子供だと周りは言ったが、その実感すらなかった。もしかしたら自分はよくない質の人間なのかもしれない。時々そう思う。
母が連れてきた男は暴力を振るうタイプではなかった。声を荒げることもなかった。そういう面では母の理想に適っているのだろう。時折だれともなく喧嘩をしてきて頬を腫らしてくることがあるが、それは一層母の献身欲求を満たすようであった。けれど、それについてなにか思うということがなかった。
母との関係は良好だ。あるいは俺が母の人生にさしたる興味がないだけかもしれない。母が恋をした。その相手について? どうとも思わない。母と子とは別の人格である。俺が恋をしたわけではない。
もう何年も暮らしているアパートへ帰る。あちこちペンキの剥離した階段を昇る。電車が音を立てて線路を走っていく。通路に風が吹きぬける。冬は寒い。この古めかしい鉄筋アパートは時が止まっているように思える。世間から孤立してしまいそうだ。そんな焦りが胸を這い回る。むなしい。その原因はなんであろう。
「この子、星をみるのが好きなのよ」
言葉のない夕食時に母が笑って言った。咀嚼しながら窺った母の目線の先には本棚があった。ああ、思い出は気まずさを埋めるために消費されていくのか。そう思った。しかし、それは正しい活用法のように思えた。母は父が生きていた時間をなかったことにするつもりがないことを知った。天体観測は父の趣味だった。
「ああそうなの、俺も子供の頃はよく星を観に行ったよ」
ちらと窺いあった視線が合った。男は不器用な笑顔を作った。なにを言えばいいか分からなかった。心臓がなにか違和感を伝えようと早鐘を打っている。なにか俺の中で正しくないことが起こっている。通夜の席で泣きもしなかった俺が父親との思い出を守ろうとしているのか。違う。もっと、なにか、肉体に違和を生じるほどの、なにか、些細な、重大な、泣きたいような、笑いたいような、怒りたいような、その全部が違うような、なにも整理がつかないな。感情が言葉にならない。答えのでない汚い数式のようだ。
「この季節なら白鳥座が……」と男は続けた。夏のことだった。
冬ならプロキオン。シリウス。ベテルギウス。案外覚えているものだ。この三つで三角形を作っている。と、父が言った。マフラーに顔を半分埋めながら。恐らく男も知っているのだろう。望遠鏡で同じ星を眺めたことだろう。
「恋をしているか」
母のいない夜、気まずさに負けたのか男が問いを放った。顔を明後日の方向へ向けていた。
「しません」
「しないのか? していない、じゃなくて」
どう違うというのだろう。恋? 男の口から出るには不似合いな言葉だ。あるいは母との関係を裏表のない恋だとでもいいたいのか。利害関係の一致だとしか思えない関係を恋愛だとでも言うつもりか。
「……それは寂しいね」
寂しい。なにが? 知らない。そんなこと思ったこともない。寂しさを慰めるための恋は母がしているものだ。俺はそんな無駄なことはしない。時間の浪費だ。体力の浪費だ。寂しい? そんな惰弱を慰めるための浪費をしている余裕はない。豊島しほ? 知りもしない女子を利用して恋愛の体裁を整えれば恋をしていることになるのか。あらゆる感情が無駄だ。俺の足を引っ張る。俺は合理的でなければならない。機械的でなければならない。情に流されて人生を台無しにしたくない。俺は嫌悪している。母の弱さも、男の弱さも、父の弱ささえ嫌悪している。俺は強くならなければならない。誰よりも強く生きなければならない。なんで? 理由なんかない。
「あなただって、恋をしているとは思えない」
「……そうかもしれない」
男は笑いもしなかった。その無表情さは俺が欲してるものに近いように思えた。落ち着かない。何故だろう。居心地が悪い。俺は冷たい人間だ。自覚している。けれど何故だろう。寂しいという言葉が胸のむなしさにぴたりと嵌ってしまった。寂しいのか、俺は。そしてこの男も、寂しいのだろうか。この弱さは許していいのか。許したら楽になれるのか。竹下が描いた木星は写真で見るより美しかった。恋をしている。美しさに。感情に。非合理で人間的な、俺が手にすることのないすべてに。気付いてしまった。俺はうらやましかった。母と男との間でだけ通じる微笑みが。誰かと共有される空気が。俺は死ぬまで一人かもしれない。一人きりで死ぬのかもしれない。寂しい。泣いたら、男は抱きしめてくれるのだろうか。父親のように振舞ってくれるのだろうか。なにを期待しているんだ。人を試すのは怖い。試して裏切られたくない。初めて知ったこんなこと。父が教えてくれた冬の大三角。男が語った北十字。頭上はるか遠く広がる銀河。俺はすべて好きだった。宇宙の話が好きだった。父も男も、秘密の話をするように天体を語った。望遠鏡をのぞいた目にだけ映る秘密があるのだろう。俺はなにも知らない。恋がしたい。なにか分かるかもしれない。俺の知らない世界をのぞけるかもしれない。彼らの秘密をのぞけるかもしれない。この寂しさがなくなるかもしれない。
男は一人で紫煙を吹かしている。最終だろうか、電車が走るのにあわせて古いアパートは音をたてて揺れた。母が帰ってくるまであと少し。静かな夜が始まる。