ごっこ



 人差し指と中指とで繋がっていた右手と右手は旧校舎三階踊り場で離れてしまった。それを不服と思うほど子供でもない。けれど身体からなにかが抜け出ていくようなむなしさがある。
「せんせ、アリノッチ最悪だよー」
「みわジャージ脱がされたんだよ! ありえなくない?!」
「いやぁ……、スカートの下にジャージを履くのは校則違反なんだろ?」
「生徒手帳に書いてませーん」
「ええっ……、でも有野先生がダメだって言うんならダメなんだよ」
「理不尽!」
 笑い合う先生と生徒。正しい放課後のありように思える。階段に座って二階を見下ろしている自分が余程バカに思える。三階にいる少女たちから俺は見えないだろう。左側にもたれて座る。コンクリートに反響する声、声、声。頭が冷えて耳から耳へ通過する。
「アリノッチからジャージ取り返してよー」
「ちゃんと謝ったら有野先生も返してくれるって」
「ぜったいむりー」
「早くしないと有野先生帰られるよ」
「イトちゃんいじわるきらい」
 笑い声が弾んでる。駆けている。「走るなー」笑い声。楽しそうだ。
「わ! なにしてんの」
 見つかった。
「人待ってんの」
「おしり冷たくない?」
「冷たいよー」
「こんな所で待たなくったっていいのにね」
 ねーと二重ソプラノ。階段を三段残して跳ねていく。セーラー服に怖いものなどあるのだろうか。圧倒的に負けている。無邪気さで。可愛い自分を恥ずかしげもなくやってのけるのだから。だから彼女たちは可愛いんだろう。真似できない。感性の仕業なのだから。
「……お待たせー」
 頭上から密やかな声。沈みこむようなヘルツで浸透していく。
「待ってねーよ」
「ふふ」
「……待ってたけど」
「もう少し待てる? 帰る?」
「待ってる」
「準備室開けようか?」
「いい」
「じゃ、携帯鳴らす」
「うん」
「じゃあね」
「うん」
 金曜日。一時散会はいつも旧校舎で、いつも同じ調子で、多分俺がもっとわがままに振舞わなければならないんだろうけどできなくて、先生はいつも距離を量っている。
 ルールは適宜増えていく。一緒に帰るのは金曜日の午後六時半以降。状況に応じて散会。制服を着ているときは先生と呼ぶ。キスはしない。セックスもしない。休日も会わない。メールはする。電話もする。それはつまり親しいメル友とどう違うのだといわれたら俺はなにも答えられない。先生と生徒という関係以外に許される限界なのだろう。先生が超えるつもりのない限界を俺が超えられるわけがない。
 予想より早い着信があった時点でメールを開くまでもない。『ごめん今日は無理』残業か他の先生との付き合いか、どちらにしても珍しくもない。こういう場合俺が返す言葉は決まっている。『分かった。先に帰る』聞き分けのよさだけがとりえなのだ。
 片想いじゃなくなった後も片想いの頃と同じだけ辛いのか。毎時毎分自分が抜け出ていくような恐ろしさがある。頭も空っぽに、考えていることは先生に嫌われない方法だけだ。中身のなにもなくなってしまった自分では先生に呆れられてしまうかもしれない。喪失感を埋めるべく本を読む。映画を観る。勉強をする。けれどすべて砂のようにさらさらとてのひらから零れていく。秒単位の喪失感から逃れようもない。先生のことだけ考えている。先生は、きっと時が過ぎるのを待っている。
「毎年二百人近い生徒を送り出すけれどやっぱり慣れないね。その中にはほとんど話もしないままだった子もいると思うと後悔するよ」
 そう言った。先生はでも、と言葉を続ける。
「毎年新しく二百人近い生徒と出会えるんだからやりがいがあるよ」
 じゃあ先生、俺も先生の人生を通過していく何千人という生徒のうちの一人なのかな。「若いうちは間違えたっていいんだ」って先生は口癖みたいに言うけれど、間違っているのは俺なのか、先生なのか、俺にはもう分からない。若さゆえの過ちを見守っているつもりなら、受け入れているつもりなら、先生はバカだ。大人ぶってなんにも分かってない。苦しさは本当だ。絶対だ。思春期なんてくだらない論拠で俺の苦痛を誤魔化さないでほしい。不確定な未来なんて知らない。今だけが大切だ。後悔するかなんて未来に決めることだ。今、俺の知ったことじゃない。
 わがままだ。儘ならん。なにが正解なんだ。俺が女子高生だったら正しいのか。ハードルの一つはなくなるのか。違うな。そんなことは問題じゃないんだ。もっと根本的なこと。生まれてくるタイミングを間違えたってだけだ。
 着信。先生から。
「もしもし」
「お。無事に帰れたみたいだな」
「うん。今回は危なかった。街のいたる所に罠が張り巡らされていたからね。流石の俺も今回ばかりはダメかと思った」
「ふふ。無事でなにより」
「先生さ」
「なにー」
「……呼んでみただけー」
「なんだよっ」
 先生は帰宅途中らしい。歩行中の呼吸が耳元でくすぐったい。先生が住んでる町はどんな風だろう。どんな部屋で生活しているんだろう。想像もできない。なんでだろう。
「はぁー、さみぃー」
 午後八時。外は寒いだろうな。
「夕飯なに食べるの?」
「食べてきたよー後藤さんと」
「後藤先生? またかよ、どんだけ仲いいんだよ」
「後藤さんも悩み深いんだよ。奥さんにプラモ捨てられて生きる気力失ったりとか」
「城フィギュア? くだらねー」
「武将スクラップも捨てられたそうだよ」
「あーそれは流石に酷いね。武将スクラップだもんね」
「でも伊達政宗のページだけ残しておいてくれたそうだよ」
「独眼流だもんな」
「独眼流だからね」
「どうでもいいよ!」
「あはは、大問題なんだって!」
 いいな、後藤先生。後藤先生のこと嫌いじゃないけど憎い。俺も先生とメシ食いたい。
「俺も先生とメシ食いたい」
 言ってみた。頑張った。新しく一緒に食事しないというルールが追加されるだけかもしれない。というか十中八九そうだろう。先生が引いた線は壁のように地から天まではるか伸びて俺ではとても超えられそうにない。
「お母さんが作ってくれるんでしょ? うらやましい」
「事前に言っておけばいいだけじゃん、外で食べるって」
「えぇー、……じゃあ、卒業したらね」
「来年まで待てばいいの?」
「そうだね、卒業祝いしたげるよ」
「絶対覚えてるからな。貯金しといてよ」
「なに食べるつもりだよ? マックとかでね」
「絶対許さん」
「えー、じゃあ考えとくよぅ」
「絶対だからね」
 一年後。全部のルールがリセットされた後。多分先生はそんな後のことは考えていない。一年もたずにこの関係が消滅すると考えているのだろう。ならばこの約束は挑戦状だ。あと一年、ルールを守って正々堂々勝負する。俺はかなり執念深いほうだ。負けず嫌いだ。卒業後どうなるか分からないけれど、先生とお食事する権利一回分だけは絶対なのだから、確実なただ一回だけ目指していく。俺の好きを受け入れた時点で先生は負けているんだから早く無駄な抵抗を止めたらいいのに。一年後、教師と教え子という関係が終了した後、先生は一体どんな顔をするのだろう。怖い。楽しみ。不安。全部、あるけれど、春の日は冬の夜よりも暖かいのだから俺はきっと大丈夫なはず。



(09.1.17)
置場