春待ち



 セーターを着た上からパーカーを着てまだ寒い。そろそろ寒さの底だろうか。ロシア人はすごいな。一年中寒くて暮らしていけるのだから。
「伊藤くんさー、折角背高いのに猫背じゃみっともないよぉ」
 僕と同じかそれ以上に着膨れた後藤さんは僕と同じかそれ以上に背を丸めて言う。
「大丈夫です。猫背でも後藤さんより背高いんで」
「そういうこと言う」
「あ、すみません」
 後藤さんはにやにや笑いながらコーヒーをすする。放課後、理科準備室でぐだぐだと無駄口を叩きあうこともすっかり慣習化してしまった。教師歴もうじき二十年という大先輩でありながら若輩の自分と親しく付き合ってくれるのもひとえに後藤さんの懐の深さゆえだろう。
「伊藤くんも来年三年持つんでしょ?」
「そうですねぇ……、問題なく持ち上がれたら」
「なに、問題起こすの?」
「まさかまさか」
「やめてよー、変なことすんの」
「しませんって」
「若いんだからモテモテでしょ」
「そんなことないですって」
「もてるよー、僕より背高いんだから」
「ホントすみませんでした」
 ポケットの中で携帯がブーブー鳴っている。今更遠慮するような関係でもないのでメールを開く。
「彼女か!」
「いやいや、そういうんじゃないですって」
 『いま電話してもいい?』一行。なるほど葛藤が見て取れる。『いまはだめー』返信。
「今が一番楽しい時期だろうね」
「そんなんじゃないですって」
「丁度期末が終わったぐらいからだよね」
「いやいや」
 着信。『100%後藤タイム』うは、バレバレ。『大正解^^』送信。怒るかな? 怒らないだろうな。なんだか心配になるくらい消極的な子だから。
「後藤さんだって若い頃はもててたんじゃないですか?」
「ボクですかぁ! ボクぁモテモテだったよそれは」
「生徒と付き合っちゃったり?」
「え? なに伊藤くん生徒と付き合ってんの?」
「いやいやいや……まさかまさか」
「いくら誘惑が多いからってダメだよー生徒と付き合ってもリスクしかないんだから」
「いやいやいや……そういうわけじゃなくてですね」
「ま、でもどうしても相談したいって言うなら有野先生だね」
「風紀の鬼じゃないですか! 冗談でも言えないっすよ」
「なに言ってんの。有野先生の奥方は元教え子だって話だよ」
「……嘘だぁ! 絶対嘘。騙されませんから僕は」
「いや、ほんと。有野さん酔ったら奥さんと娘さんの自慢しかしないんだから」
「信じられない。あの有野先生が」
「みんな知ってるけどねぇ。だから余計に風紀の鬼なんだって」
「はぁー、なるほど」
 思いがけないところに相談相手はいたわけか。人に歴史あり。確かに生徒と結婚した話が周知の事実であった場合、生徒に甘くしてたら影でなにを言われるか分かったものじゃない。茶髪の生徒用につねに黒染めスプレーを持ち歩くのも頷けるのかもしれない。いや、それはやりすぎか。あそこまでの風紀に対する情熱は氏本来のものだろう。しかし有野先生と話すハードルの高さったらえげつないな。生徒と付き合ってます。それも男子生徒です。なんて言ったら僕が指導されてしまうな。それだけのタブーを犯しているわけだけど。
「生徒だけは止めときなって」
 素気ないほどはっきりと言われてしまった。後藤さんはふざけがちであるけれど間違ったことは言わない人だ。昼行灯を気取りながら頭は切れる中村主水のような男だ。ぐうの音も出ない。
「分かってますよ」
 けれど、拒めようはずがない。クラスで人一倍おとなしい、人生に苦痛を感じているような子が一度だけ投げてきたサイン。ポーズもなにもなくして感情をぶつけてきた彼を、僕は可愛いと思った。抱きしめたいとも思った。庇護欲なのか支配欲なのか自分でも分からない。反面、切なさもあるのだ。まだ若い彼が学校という檻から解き放たれた時、僕への気持ちを錯誤と悟る日がくるだろうことが分かっているから。それならばせめて後悔が少ないように、傷つかないように努めるのが大人の責任だろう。建前か。きれいごとか。進行形で傷付けているだけかもしれない。
「ボチボチ帰るかぁ。彼女待ってんでしょ」
「そうですね」
「お、認めたねぇ」
「もう可愛くて仕方ないんですよ」
「のろけるねぇ」
「もうね、さっさと帰って電話したいんですよ僕は」
「やだー伊藤くんに振られちゃうぅ」
「後藤さんのことだって好きですよ」
「いやー二股ぁ! 最低ぇ!」
「いいから帰りますよ! 早く!」
 エゴかもしれない。僕は、彼のまっすぐな眼差しが愛しい。偽善と思われているのかもしれない。しかし、それでいいのだ。僕の汚い欲望が偽善という仮面で隠されるならそれに越したことはない。
「来年度は一年が長く感じられそうですね」
「三年持ったらあっと言う間だよ。大変なんだから」
「それもそうですね」
 来年の同じ時期、彼が笑っていられたらいい。再来年も、もっと先も。彼が笑っていると胸が苦しくなるくらい嬉しいのは僕自身であるけれど、そんなことは内緒にしておく。必要とされるうちは応えたい。自分勝手な本音は伏せて、帰宅途中に電話をかける。
「待たせたな!」
 冗談めかして。
「待ってないよー」
 きっと電話越しに可愛い顔をしているんだろう。本人も気付いていないだろう表情を僕だけの秘密にして歩く夜道はとても短く感じる。会いたいな。数時間前に教室で別れたばかりなのにもう会いたい。子供じゃないんだから我慢しよう。なにより我慢を強いているのは僕なのだから。
「はぁ、寒いよぉ」
 吐いた息が白くなる。冬はまだ厳しい。けれど、空気は澄んで月がとても輝いている。耳元で密やかな笑い声。
「風邪ひかないでよ」
「俺? ひかないよ。こっち超暖かいよ」
「うらやましいですぅー」
 くすぐったいほどの平穏が冬の夜空に不似合いだ。恥ずかしくなるくらい幸せだ。
「会いたいな」
 こころの中の声が電話越しに聞こえてしまった。彼の寂しさが僕の耳を温める。なんて答えようか。大人ぶってみようか。でも無理だ。言葉が勝手に出てしまう。
「僕も会いたい」
 抱き締められたらいいのに。好きだと言えたらいいのに。苦しいくらい愛してる。言えないな。僕は大人だから、先生だから、好きだという気持ちだけじゃどうにもならないことを自覚しなければいけない。
「今日も先生の夢みるよ」
「じゃあ、僕も」
「笑うところだよ、今の」
「難しいね」
 笑いあって、おやすみまた明日。通話を終えると自分が一つの天体のように宇宙に放り出されたような寂しさが襲ってきた。暗闇は深い。重力が必要だ。住宅街の夜はうら寂しい。大人を気取るのもなかなか辛い。冬の長さは大変堪える。けれど素知らぬ振りして春を待つ。今夜は早く寝よう。明日も君に会えるのだから。



(09.2.6)
置場