ポプラ


 綿の降る春の日に僕たちは目覚めた。
 日差しが大気になれて友好的に窓ガラスを透過している。こどもの頃、僕らは二人で一人の人間だった。てのひらの形が同じように、見ている世界もこころの形も同じだった。

 どしゃぶりの雨の日、僕らはこころにケロイド状の傷を負った。侵食していくみたいに、低温で火傷をするみたいに、痛みのない傷だった。
 カケルは僕に背を向けて煙草を吸っている。紫煙は明確な拒絶を表していた。カケルがいつ煙草を覚えたのか僕は知らない。僕は窓ガラス越しに降る綿を眺めながら、もうひと眠りしようか考えている。

 段々にずれ始めていた。物心ついた頃から少しずつ違っていた。カケルが明確に僕と距離を置きはじめたのは小五の頃だったと思う。中学生の頃にはまったく他人のように振舞っていたし、高校に上がってからのことはほとんど知らない。
 大学へ上がって僕は家を出て、そのまま社会人になった。カケルのことを忘れたことはなかったけれど、彼の生活は不安定すぎて僕にすべてを把握することはできなかった。住居すら実家に知らせず三年。僕はカケルの三年間を想像することすらできない。いや、想像することを拒んでいるのだ。音信不通のカケルと再会したのは一週間前のことだ。

 趣味を同じくする人間が集うバーへ連れられた夜、そこにカケルがいた。数年ぶりの再会に驚き、思わず駆け寄った僕をカケルは幽霊でも見たように目を見開いて一歩後ろへ体重を引いた。
「カケル……、だろ?」
「ああ、……久し振り」
「久し振りじゃない、おまえ今までなにしてたんだよ」
「……いいの、彼」
 言われて振り返ると連れは困惑をあらわに微笑んでいた。
「知り合い?」
 僕に聞こえるほどの声音で彼は訊く。
「ただの知り合いですよ、ご心配なく」
 僕が答えるより先にカケルが答えてしまった。それじゃあ、と場を辞そうとするカケルを咄嗟に引きとめる。このままもう二度と会えない気がしたのだ。
「家に連絡入れろよ。気まずいんなら僕のところでもいい」
 名刺の裏に携帯番号と住所を走り書きして渡す。渡されたカケルは持て余すように名刺を眺めてポケットにしまった。
「絶対だぞ」
 なにも答えずカケルは誰かと店を出て行った。
「意外なタイプと知り合いなんだね」
 含みのある言葉なのだろうか、僕は上の空で連れの言葉に相槌を返す。
「全然似てないだろ、弟なんだ」

 生まれた時は同じだった。同じ時期に歯が生えて、色違いの同じ服を着て育った。言葉で確かめなくても同じことを考えていたし、感情全部が同じだった。手足が伸びてきて段々同じであることに違和感を覚え始めても、僕らはだれの目から見ても兄弟だった。
 数年ぶりに再会したカケルはまるで別人だった。髪の色も眉の形も服の趣味も、すっかりサラリーマンになってしまった自分とはまるで違う次元の人間だった。
 その夜から毎夜あのバーへ通った。カケルからの連絡はなかったが、僕はカケルが安寧に暮らしているか不安だった。せめて幸福ならばいい。家族と縁を切ったって、カケルを守るものがあるのなら僕はなにも言わない。けれど僕はあの夜カケルがふいとこの世界から消えてしまいそうな胸騒ぎを覚えた。杞憂だろう、と思うには僕らの絆は強すぎた。同性愛者が集うそのバーで、僕はカケルの噂をいくつもきいた。
 ありふれた言質の影にカケルの荒んだ生活は見て取れた。はぐらかすような笑顔で語られる博愛主義の意味ぐらい僕にだって分かる。「誰に強制されているわけでもない」「性に合っているんだろう」「あまりよく知らないが」本質のない言葉が各々の口から発せられた。浮雲のごとき存在の軽薄さは売笑の性なのだろうか。カケルは馬鹿じゃない。衣食住のために身を売るような奴じゃない。もっと賢く立ち回れるはずだ。そう思いたいだけなのだ。
 僕が僕の生活をしているようにカケルもカケルの生活をしている。当たり前のことだ。僕たちはもう大人なのだ。
 いつからだろう。以前なら今のカケルの状態を僕は自分のことのように感じただろう。自分が汚されたような怒りを感じたかもしれない。なのに、今カケルを遠く感じている。他人に対するように、ただ身の上を案じるだけだ。自然発生したその優しさを僕の過去が拒絶する。カケルとの過去だ。培ってきた時間だ。優しさが思い出を裏切っている。偽善者。カケルが僕を避けるのも当然のことなのかもしれない。
 今、僕の生活にカケルはいない。カケルの生活に僕がいない。それはなにも特別なことじゃない。当たり前のことだ。健全な成長だ。一つの魂を二つの身体に分け合った時点で僕らは他人であったのだ。

「あなた、ミチルのこと嗅ぎまわるのやめなさいよ」

 女性の姿をした恐らく男性が件のバーの止まり木で僕に語りかけた。頭の先から爪先まで女性の身体をしていたけれど、声だけは男性のままだったのだ。
「あの子にも事情があるんだから……」
「事情?」
「生活していかなきゃなんないでしょ」
「あいつの食い扶持は他にないんですか」
「知らないけどそんなこと。でも、あんたがやってることでミチルの仕事はやりづらくなってるわけよ」
「僕はあいつの家族です」
「だからなんだっていうのよ。自立した成人男性の人生に干渉してくる家族って一体なんなのよ。あんただってそうなんでしょ。私たちは恋をする以上両親を裏切ってんのよ」
「そんな風に……言わないでください」
「覚悟がないならあなたにミチルの何を言う権利もないわ」
 一人で死ぬ覚悟よ、と言って彼女は煙草に火を点けた。
 同性に対する恋愛感情はいつから自発したのだろう。曖昧だった中学時代を経て高校二年の夏に自分は同性愛者なのだと自覚した。これは僕だけの性質で、カケルとは共感できないことなのだと思っていた。因果か。水よりも濃い血のためか。因子なんてどうでもいいことだ。僕はカケルもそうだとは思いもしなかった。潔癖な子供でもなしショックだなんてことはない。ただ呪いのような血の絆を悲しく思っただけだった。
 カケルが捨てたのは家族ではない。僕自身だろう。半身を捨てるために自身に無理を強いたのだろう。なのにこうして僕らは繋がってしまう。断ち切っても断ち切っても癒着して、走ろうとするカケルの足を止めてしまう。カケルを苦しめているのは誰でもない僕自身で、そのことに気付いてしまったから僕は、僕らは話し合わなければならないのだ。
「あいつの連絡先を教えてください」
「諦めなさい」
「他人になるためなんです」
「……」
「ミチルは……僕の名前だ」

 夕方から降りだした雨の音を聞きながらカケルに電話をかけた。落ち着かないのは何故だろう。暗んだ部屋を照らすために点けた蛍光灯の白々しい明るさのためだろうか。
「話しをしよう」
「ああ……」
「あの店でいいか?」
「いや、おまえの家へ行くよ」
「ああ、わかった」
 僕たちは、ずっと他人になろうとしていた。無関心が有効な手段だと思い込んでへたくそな演技を続けてきた。時間は僕らになにももたらさなかった。僕らは互いに対し優しすぎたのだ。
 他人になることと家族でいることの両方を成立させようとしたって無理だったのだ。カケルはそれを早々に理解していた。僕はカケルは僕と違うと思っていたから可能性を信じていた。カケルは新しい家族を作り、育った家族と系図という細い糸で繋がるのだろうと思っていた。そうしたら僕はカケルの子供を抱き上げて、僕に似てるねとジョークを言うつもりでいたのだ。両親が微笑んでいれば、カケルが幸福であれば、僕は一人で死んでも平気だった。けれど現実はどうだ。なにもうまくいかない。
 呼鈴が鳴る。深呼吸一つ。扉を開けるとずぶ濡れのカケルが立っていた。
「……傘は」
「電話してた時にはもう濡れてた」
「ああ……」
「ずぶ濡れで傘を買うのも意味がないだろう」
「そうだな」
「……寒いな」
「上がれよ、今タオル持ってくる」
「……」
「……」
 僕らは見つめ合ったまま身動ぎもしなかった。細い糸の上を歩くように息を詰めて、相手の眼球上に映る自分の馬鹿みたいに深刻な顔を眺めていた。
 カケルの冷えた手が撫でるように頬へ触れた。どちらからともなく、多分同じタイミングで僕らは唇を合わせた。舌を絡めあった。僕の知らないやり方で舌先が口内をなぞっていく。僕は僕のやり方で貪った。欲情を誘うためだけの、傷付けあうようなキスだった。
 抱き合うとカケルの上着が含んだ雨気が滲みてきて、僕らは合図もなく服を脱ぎあった。夜気に粟立つ肌がやけに白んで見えた。
 知りうる限りの酷いことをした。痛ければ痛いほどよかった。上の空で肌を撫であって、僕は与えられたのと同じだけ与え返す。目も見合さず、汚して、嬌声を上げ、僕は自分の膝頭さえ他人のもののように眺めていた。他人にするような優しさと冷たさで熱を分け合って僕はカケルの背を撫でる。
「ミチル」
 一度だけ、カケルは僕の名を呼んだ。
 方法はこれしかなかったのだろう。カケルが僕の名を自分を呼ぶ記号にしていた理由は知らない。たとえば、と冠して憶測を仕立て上げるのももはや意味がない。僕たちの孤独は同じじゃない。身体を繋げて僕たちは同じになれないことを知る。どんなに深く抉ったって、どんなに激しく抉られたって、僕らは一人の人間になれなかった。
 子供の頃、僕らの住む家の近くにポプラの並木道があって、毎年春になると庭先に綿毛が吹き込んできた。僕たちは無邪気に降る綿を眺めて、綿が積もったら何をしようか話し合ったものだった。
「かまくらをつくろう」
「わただるまにしよう」
「綿菓子屋さんをやろう」
「ふたりで」
 庭に出て二人して口を開けているところを母に叱られたものだった。砂糖がなけりゃ甘くないよと父は笑っていた。思い出は美しいのだ。自分を傷付けない過去だけを記憶しているのだ、美しくないはずがない。
 綿の降る春の日に僕たちは言葉もなく目覚めた。暖かな日差しが剥き出しの素肌を慰める。優しさが痛いほど寂しさを縁取るようだ。
「……春だな」
 煙草を吸い終えたカケルが呟く。カケルも思い出しているのだろうか。僕らが無垢で幸せだった頃のことを。離れ離れになるなんて思いもしなかった頃のことを。
「そうだね」
 僕は目を閉じる。眠っている間にカケルは帰ってしまうだろう。それでいいのだ。特別だった僕たちはありふれた関係を結んでそれぞれになった。多分もう二度と会わない。運命のベクトルが変わってしまったのだ。多分もう二度と会えない。家族を裏切って、互いを切り捨てて、僕たちはようやく孤独を始めるのだ。
 眠れないけど目を瞑る。別れの言葉を知らないから、僕はカケルが出て行くまで眠ったふりでいた。玄関の扉は蝶番が錆びている。高い金属音を立てて戸が閉まる。靴音が段々遠くなっていく。ゆっくり開いた目の端に春風に舞う綿毛の絵画。絵具をベタ塗りしたような青空だった。さようなら。さようなら。言葉がオブジェのようだ。僕はただ、ぼんやりしている。



(09.3.28)
置場