わたしは海をだきしめていたい



 一山いくらのはかなさ結構。十把一絡げて個体認識の排除を行いマジョリティ面して歩きたい。連れられた風俗店でシャワーだけ浴び後は女の人とジャンケンなどして時間を潰しそれでも持て余した時間を矮星ひとつに対する思索をもって過ごした。女の人は女の人の時間を過ごし、私は私で爪先の爪の伸びているのに気付いて爪を切らなければならないことを記憶した。
 情動の迷い道いずこあらん涅槃の蓮華。ふふと忍び笑いひとつ。女が横たわる隣へ横臥。枕へ頭を乗せれば沈む沈む。身の潔白を誇る歳でもない。清らなる処女の舞は御許へ。花環の冠。飛び跳ねるみぐしの軌道を視線で辿る痩せこけた男の下へ諸人こぞりて捧げ給うは柊の葉一枚。馬鹿馬鹿しくも真剣に泣くのを堪えている。自意識滅せよ。柳原さんは今自由恋愛を謳歌している。

 認識をもって個体は存する。私は私自身を見詰めすぎた。割れてしまえよ自惚れ鏡。映す影は一体なんだ。三十を前にしてみすぼらしくも貧相なこの男が自意識に溶かされて少女に変わるわけもなし。もう諦めてしまいました生を。実現し得ない夢ばかり。日々衰えていくこの身体が女性のようになめらかになるはずもないことを知っていて次目覚めたらこの悪夢は消えてなくなるかもしれないなどと、幼稚と知りつつ願ってしまう。
 結婚も安定も望んでいない。再度の生を。私が私を認識する以前からの再生を。丸い頬の少女になりたい。

「おまえは予定ないのかよ」
 同僚の結婚報告に微笑みながら柳原さんは言った。
「ええ、残念ながら」
 輪の中で微笑みながら、ふざけながら、距離をとりながら、私の心は電車の中へ置き忘れた傘のように環状線をぐるぐる巡る。
「いないのか、そういう相手は」
「ええ、ははっ、残念ながら」
「誰かさんと違ってガツガツしてないし本当はモテモテなのよね」
 既婚者は優しい。水島さんに「いえ全然」と答えつつなにか都合のいい軽口を探す。
「いい人がいたら紹介してくださいよ」
 多分どうにもならないだろうけど。清らなる愚者ならば聖者となるか。馬鹿を言え。聖者は聖者らしい行いをする。私は私を見詰める以外をしない。嘘でも女性を愛さない頑なさこそおろかなり。
 そろそろ危険信号。異性の影なく普通という権利を得たい。三十、四十、五十、死ぬ間際も一人。覚悟はできている。けれど社会性との共存を思えば無理なのだろう。結婚をする、家庭を持つ、安定する、それだけで許されるものも大いにあるのだ。逆に、それをしないことで失うことも大いにあるのだ。
「単に俺のお節介でホントは相手がいるならいいんだよ」
 駅まで向かう道で柳原さんは言った。離婚したばかりでこんなに結婚を勧めてくるのも珍しい。勘違いをしてしまうから止めてほしい。勘違いしたところで柳原さんは同性には走らない。走るはずがない。柳原さんが私に構うのに特別の理由なんかないのだろう。特別の理由もないのに近付こうとする。距離は離さなければならない。言わなくていいことまで言ってしまいそうだから。
「相手なんかいません。いたことない」
「うそだろ」
「いいんですよ、僕は全然」
 全然つらくない。全然かなしくない。二十八年間こうだったんだ、今更なにもつらくない。この後四十年、五十年、続いたとしてつらくない。
「……付き合えよ」
「えっ」
「経験して悪いもんじゃない」
「えっ、あの」

 そして着いたは風俗街。一瞬でも期待した自分が馬鹿だったのだ。柳原さんは健全だ。その健全性が好きなのだ。タイマーが鳴る。時間ですよと女が言う。表象される無関心の瞳は放射状のまつげの中央。ありがとう、寝てたかな、と微笑めば女は上着を持ってやってくる。夢とうつつのあわいに心ごと置き去りにしたい。私も寝ていたから分からないと女は言った。それもそうだねと私は笑った。書割越しの演技がへたくそだ。
 嘘でも女の身体を撫でれば私は正常なのだろうか。嘘でも好きだと誤魔化せば、常識の内側におれるのだろうか。
 言葉もなく柳原さんと合流した。駅まで歩いた。ホームには人が点在していた。蛍光灯の明るさが身のやましさを縁取るようだ。
「お節介だったと思うけど……」
 低い声で柳原さんは囁いた。
「そんな悪いもんじゃねぇだろ」
 この人はさっきまで何をしていたんだろう。肉欲の影もなく素気ないくらい白々とした横顔がある。
「僕は同性愛者です」
「……それは……、ああ……、そうか、それは悪いことをしたな」
「後悔してますか」
「ああ、申し訳ないことをしたと思ってるよ」
「気持ち悪いですか」
「いや、そういうのは……自由だろ、個人の」
「僕は柳原さんが好きです」
「……そうか」
「……」
 欲しかった言葉はそんなものじゃなかった。拒絶が欲しかった。
 ホームに滑り込んでくる電車は夜に光り輝いて騒々しい。人人人の隙間に縫い入って、会話は終わってしまった。
 夢をみてしまう。いつだって、実現し得ない夢をみる。誰からも愛されない自分が誰かに愛される夢だ。死が二人を別つまで手を握り合って、お互いがお互いを世界で一番愛している。その相手が柳原さんだったらいいな、と叶うはずもないと知っていて願ってしまう。ありえもしない。私の性嗜好は私の自由にすぎず、柳原さんとは相容れないことを理解している。だから、好きでいられないくらい酷い罵倒が欲しかった。距離を離して欲しかった。
「じゃあな」
 先に降車する柳原さんはいつもと同じ声音でいった。

 浦々が浜に松の枝ぶり月明らかに白波さめざめ片手に縄を持ち探している手頃な幹を。あれでもないこれでもないと思案か業物。あはは、ちっとも面白くない。首括りが浜の羽衣伝説。樹齢百余年の大樹にかける荒縄厳重に、戴冠さながらの恭しさで差し出す首の根。
 夢をみている、という意識の下みる夢の滑稽なことといったら!

 翌日蕎麦屋で蕎麦を啜る。狭いテーブルで柳原さんと向き合って、ざる蕎麦を啜る。いつもと同じだ。不愉快なほどいつもと同じ空気だ。なかったことにされた。なるほど。大人らしい選択だ。カミングアウトしたところで、されたところで、日常が変わるわけではない。今までどおり同僚で、毎日顔を合わすならなかったことにするしかない。けれど、これなら避けてもらったほうが有り難い。
「僕はどうしたらいいですか」
「えっ」
「好きでいていいんですか」
「……」
「応える気もないのに優しくしないでください」
 もっと端的な言葉がある。嫌いになってください。嫌悪してください。話しかけないでください。そのうちどれか一つでも柳原さんが実行してくれたら、私は一人で傷ついていられる。甘美な悲劇の蜜だけ舐めてさめざめ泣いていられる。けれど柳原さんはそのどれも実行しない。優しいのだ。卑怯なほど。
「……俺はおまえが心配なんだよ」
「僕は大丈夫です」
「大丈夫なやつだったら俺は放っておくよ」
「なら放っておいて大丈夫です」
「放っておけないんだよ」
「……期待させないでください」
「……俺はずるいんだろう」
「知っています」
 ずるくて、とても優しい。
 大いなる海に抱かれるようにその胸に強く抱かれたい。そしてきつくきつく抱きしめたい。あなたの起こす波ならば私はいずこなりとも巻かれていこう。波にのまれた私を知らぬ存ぜぬあなたはただ悠然と凪いでいればいい。なにも期待してやいない。
「蕎麦湯たのみます?」
 日常へかえる。暗中模索の夜間遊泳。実現し得ない未来は死んだ。ならば来世、五十六億七千万年後の野辺に咲きいずる私をどうか見つけてください。なんてね。



(09.4.27)
置場