スタートライン



 仕事がない。
 お金もない。
 住まいもない。
 ないない尽くしでついにアパートを追い出されてしまった俺が真っ先に電話したのは大富豪片桐だった。
「あ、どうも! ええ! そうです、お金が必要で! 保証人になってください!」
『ふざけんな』
 一刀のもと伏された。しかしそれで引けるほど事態は安穏としておらん。食い下がる。かくかくしかじか、家がないんです、そうなんです、家賃滞納の末退去を余儀なくされたのです。ネットカフェ? そんな金があるか! なめてんのか。今日はもうパンしか買えねぇよ!
「じゃあなんですか! 野垂れ死ねっていうんですか! 実家に骨届けてくれるんですか! 援助してください! 援交しよ!」
『おまえな……、ちゃんとしようよ』
「仕事がないんだよぉお! この平成大不況に俺を生かす地力がねぇんだよぉお!」
 仕事もないし働く気もないし俺は一体どうしたらいいんだろうな。冗談めかして言ったもの、現実的に生きるか死ぬかの瀬戸際だ。住所不定で働ける口は限られている。この不況下では最底辺の仕事すら望みが薄い。仕事を選ばなければなんだって、と言う者もあるだろう。選ばせてすらもらえない現実を知らない者のいう根性論にはへつらうしかない。反駁する根性すらないのだ俺には。
「ちゃんとしたいよ……、俺だって」
 若さで誤魔化せるのもそろそろ限界だ。俺だって分かっている。日銭を稼ぐのだって段々きつくなってくる。今は精神的にきついだけだが、今後肉体が追いつかなくなっていくのだろう。怖い。考えちゃダメだ。怖すぎる。
『……今どこ?』

 俺の最大の幸運は片桐と知り合いだったことだろう。さすが社長になる人間は人情がある。はぐれ片桐人情派にもほどがある。片桐は別にはぐれてないか。どうでもいいわ。二時間待っている駅前のベンチに座って。
 待たされているのはほかでもない、電車賃がなかったからだ。仕事が終わったら迎えに行くというその言葉を信じて待ち続けているのだ。昼間は暖かくなってきたものの夕方を過ぎるとまだ冷える。ポケットに手を入れて身体を丸める。足を動かす。寒さをしのぐ。このまま片桐が来なかったらどうしよう。ここで寝るのか。今のうちにスーパーとかでダンボールもらってこようかな。いや、片桐を信じよう。金持ち嘘吐かない。
 ポケットの中で握り締めていた携帯が振動する。片桐だ。来られなくなったなんて言わないよね。遅くなるなんて言わないよね。ああ、嫌だ。最悪の事態しか考えられない。
『あ』
 通話ボタンを押した第一声がそれ。『あ』? なんだよしりとりかよ。一文字でしりとりってなんだよ。人影が寄ってくる。見上げると、スーツを着込んだ片桐だった。
「ファミレスにでも入ってるかと思った」
「なんで? 金ないのに」
「俺は持ってるし」
「え、……なんだよ、じゃあメシ食ってればよかった」
「パン買えばよかったじゃん」
「アホか、本気で無一文になるわ」
「ま、いいや。待った?」
「そんな待ってない」
「冷たいけど」
 片桐が俺の背中を撫でる。すごい気遣い。
「いくら俺がクールな男だからって滲み出るほど冷たくないよ」
「なに言ってんだよ」
 苦笑する顔が優しい。片桐に優しくされると妙に申し訳なくなるのは何故だ。後ろめたさか。俺のわがままで利用されている片桐はもっと俺を邪険に扱ったほうがいい。
「メシ食ってこ。近くにファミレスある?」
「ファ……ファミレスでいいの? 社長なのに」
「なんだよ文句あんのかよ。腹減ってんだよ」
「ない。ファミレス大好き」
 そういうわけで、駅前のファミレスへ入る。和風ハンバーグ膳などを頼む。茶碗に盛られたお米なんてどれくらいぶりに食べるだろう。お味噌汁なんて何年ぶりだろう。定食屋すら行かなかったから忘れてしまった。
「なんかすごくファミリーを感じる」
「ファミレスってそういう意味じゃなくね?」
 うん。知らんけどファミレスの語源とか。
 黙々と食事を済ませ俺と片桐は揃ってメロンソーダを飲んでいる。何故ファミレスに来るとメロンソーダを飲んでしまうのか。七不思議の一つとして数えた方がいいだろう。
「アパート追い出されたっていうけど荷物は?」
「なんか帰ったら大家の息子がいて、大家の婆さんの方はいい人なんだけど息子はやべぇって思ってたらと査定の人がきて、売れるもの売ってあとは返済してくださいって言われて、あと出てってくださいって言われて、全部売ったら三千円くらいになったからスロで増やそうって思ったら全部飲まれちゃって、なにも持ってないです」
「なんでそこでギャンブルに走るかなあ」
「勝てそうな気がして」
「大体そう言うよね、負ける人って」
「負けるなんて思わないじゃない」
「借金いくらあんの?」
「さぁ……」
「誤魔化さないで全部言え。返済計画立ててやるから」
「えっ! 貸してくれんの?」
「貸さねぇよ。稼げよ」
「いや、だから仕事ないって」
「仕事はやるよ。だから働けよ」
「マジ俺片桐さんスーパーマンだなって思う」
「そういうのいいから」
 流された。俺は結構真剣にそうだなと思ったんだけど。食い下がるようなことでもないから俺も流しておく。駅前に現れた時マジで嬉しかったんだけど、まあいいや。あんまり言うのも恥ずかしいし。
 メロンソーダを飲みつつ負債を明らかにしていく作業は片桐の眉間に皺を寄せていくのと同じ進行をした。怒ってる? 呆れてる? 見捨てられる? 全部自業自得だけど居心地が悪い。逃げたい。けど、今逃げ出したらもうやり直せるチャンスはなくなるだろう。分かっている。声が震えてきた。けど言う。恥ずかしい。俺はどうも片桐に見栄を張りたいらしい。かっこつけたいらしい。でなけりゃこんなに恥ずかしいはずがない。
「……これで全部?」
「多分……、消費者金融はこれだけ。あとは人から借りてたから」
「ヤミはないよな? クレジットは?」
「ヤミは無理でした。クレジットも審査通らなかった」
「とりあえずやばそうなのはいくらか金入れて返済計画を提案するしかねぇな。明日朝一で動くぞ」
「ご迷惑お掛けしてほんとすみません」
「ほんと迷惑だよ。ちゃんと働けよな」
 なんでそこで笑ってくれるんだろう。怒ってくれたら俺は勝手にいじけていられて楽なのに。いい奴すぎる。かっこよすぎる。同性に微笑まれて照れるなんて。恥ずかしい。頬杖をついて顔を隠す。
「もちろんですシャチョー!」
 ふざけてみた。後悔した。けれど言ってしまったことは取り返しがつかないから俺はふざけたままでいる。今まで生きていて何度も同じ失敗をしているのに成長がない。呆れられるな。片桐の俺への評価がまったくの最底辺になったら? 俺はショックを受けるかもしれない。今更嫌われたくないなんて無理か。俺は結構最低な人間だ。最低な所ばかり見せている。どうしようもないね。取り返しがつかなくなった後に後悔したって。
「出ようか」
 片桐が言う。俺は素直に従って、帰宅ラッシュに込み合う電車で片桐宅へと向かった。
 以前AV撮影の際一週間滞在した部屋はなにも変わっていなかった。勝手知ったる他人の家でシャワーを借りる。着替えも借りる。片桐のTシャツは俺のものより布地がしっかりしていた。てろてろしていない。買いたてか? それとも金持ちのTシャツはてろてろしないのか? どうでもいいよ。貰ったろ。
 入れ替わりに風呂へ入った片桐はさっさと上がって今はノートパソコンに向かっている。エロサイト巡り? さり気なさを装って画面を覗いてみる。一杯数字。なるほど、頭いいね。黙ってテレビでも見ていよう。退屈だな。
「先に寝てていいよ」
「え? ああ、うん」
 寝ないけど。眠くないし。あれ? 邪魔だとかそういうことか? 分かんねぇな。寝ようかな。ていうか。
「セックスしないの?」
「はぁ? したいの?」
「いやっ! するのかなぁーって思っただけ」
「しないよ別に」
 しないのか。まあそうだよな。俺の身体に価値なんかねぇよ。あれ、ちょっとショック? ショックなんてこともない。とはいえ手持ち無沙汰感は一層増した。
「……寝まぁーす」
「はい、おやすみ」
 随分あっさり言ってくれる。もっと交流を図ったり遊んだりしねぇのかよ。しねぇよな、社長だしな。ひとつしかないベッドへ身体を預ける。三秒で寝た。真夜中に隣に横たわる片桐の気配に目覚めたが眠ったふりをした。片桐は俺と同じような体格で、俺以上に疲れを背負っていた。沈んでいく布団に背負っているものの重さが見えた。頑張ろう。ただそれだけを思って再び眠りについた。

 翌朝、片桐の作る簡単な朝食に心底感動して、すぐに家を出て消費者金融めぐりをした。頭金代わりに相応の返済をしつつ今後の返済計画の提案……ということのほとんどを片桐に任せていた。恥ずかしくてたまらなかった。逃げたくてたまらなかった。けれどこの羞恥心は健全なものだと思えた。昨日今日と俺はもしかしたら生まれて初めて己の堕落を恥じているかもしれない。
 途中片桐は遅刻する旨を会社へ電話していた。社長でも遅刻の連絡するんだ。言うと、片桐は呆れたように笑っていた。
「社長っていうけどベンチャーだし小さい会社なんだよ」
「でもすげぇじゃん」
「誰でもできるよ」
「俺も?」
「……いや、おまえは無理」
「ほらー」
 片桐の会社はゲイビデオ制作とアダルトグッズ販売をしているらしい。弟がバーを経営していて云々というから、そっち方面で事業展開しているんだろう。学生時代から能動的な奴だったが会社を興すような人間は得てしてそういうものなのだろう。商業高校の普通科卒という俺の経歴で知り合えたのが奇跡的だ。そう考えると遊んで暮らしていた日々も意味があったと言える。いやいや、ダメだ。堕落の日々を過剰に肯定してはいかん。俺は真面目にならなければならん。眼鏡に七三、首からカメラをぶら下げてアメリカとかに行かねばならん。水木しげる作画のサラリーマンのように生きねばならん。あれ、でもそれだと妖怪に襲われる。怖い。いや、ていうか、俺はバカか。
 電車の中で言葉もなく、昼日中の電車のシートに隣り合って座りながらぼんやりとしている。電車の走行スピードが遅いような気がする。
「……俺もネクタイとかしなくていいの」
 他の座席に座っているサラリーマンはみなネクタイをしている。
「うち服装自由だからいいよ」
 でも片桐はネクタイにワイシャツをぴっちり着込んでいる。立場上ラフな服装ができないだけと分かっていても、隣に座る自分が居た堪れない。かっこ悪いな、俺は。
 走行音に身体を預けこれからの人生を考える。今まで逃げてきた普通のことをする生活に俺もそろそろ取り組まなければならない。俺にできるかな。やらなくちゃ。借金と同じだ。いつかツケは返さなければならない。本当ならひとりでやらなきゃいけないことを片桐に手伝ってもらっているんだ、甘えてなんていられない。

 片桐の会社は雑居ビルの三階の一室だった。思っていたより広くない。従業員は三人だけ。訊いたら、他にもう一人いるのだそうだ。それにしても少ない。さほど広くない室内には丁度いいくらいの人数であると言えば言える。
「がっかりした?」
「全然!」
 片桐の歳で四人に給料を払っているのはすごいことだ。
「とりあえず雑用しながら事務覚えてもらうつもりだから」
 そういうと片桐は事務作業をしている若者の下へ向かった。ついていく。
「彼、北原くん。彼から教わって」
「どうも、北原です」
「あ、どうも。お世話になります」
「この前ビデオに出てた人ですよね」
「あ、はい」
「大人気なんですよ」
「まじっすか……、もしかして俺ビデオに出てチャッと稼いじゃった方がいいんじゃないっすかね?」
 片桐に訊いてみる。大きな溜息を吐いている。
「おまえにあぶく銭持たせたくねぇんだよ」
「あぶかないんで」
「あぶくよ」
「心入れ替えたんで、あぶかないです」
「堅実に生きろよ」
 北原が笑っている。
「まぁ、人気の半分は社長のファンが……」
「言うなよ!」
 片桐はすごい剣幕で北原を諫め自分の机に向かっていく。あとで聞いた話では、会社設立当初は人手不足で片桐もゴーグルマンとしてビデオに参加していたらしい。ゴーグルをしているくせに片桐ときたら一部で人気が出てしまい、ビデオ出演のなくなった最近は片桐待望論が叫ばれていたとかいないとか。つまり俺の実力ではなく片桐出演のレア度で大人気なわけだ。なんだ。じゃあ二度と出ねぇよ。

 毎日朝起きて、働いて、昼飯食って、働いて、夜片桐の家に帰って飯食って、寝て起きて同じことを週五回のセットで繰り返していく。ごく当たり前のことなのに新鮮で、俺にはできないと思っていたことが案外簡単にできてしまっている。片桐のおかげなんだろう。恥ずかしくない人間になったら実家に連絡しよう。なんとかなっていますとはにかんでみよう。まだ走り始めたばかりだけど、きっと俺は大丈夫。だって毎朝片桐に叩き起こされるんだもん……。逃げようがねぇよ。



(09.5.16)
置場