彼もまた



 毎朝同じ時間に起きることに苦痛はない。もう癖になって目覚ましも必要ないくらいだ。誰しもそうだとは思わないけれど、隣に眠る男の寝汚さはいかがなものかと思う。腕を組み眉間に皺を寄せ難しい顔をしているくせに、いかにも寝るのが苦痛だという顔をしているくせに、アラームが鳴っても起きてこない。しかめっ面でスヌーズを止めて、それで眠っているんだから大したものだ。
 とは言え休日まで起こそうとは思わない。寝かせたままで起き出して、洗濯機を回す。合間にシャワーを浴びる。簡単に部屋の片づけをする。洗濯物を干す。我ながらつまらない休日だ。家族以外の誰かと生活するのは初めてだが、ここまでペースが変わらないのもどうかと思う。高橋のなにもやらなさ、できなさは怒りを通り越して感心すらしてしまう。今までどうやって生きてきたのかと思う。訊いても適当に、という答えが返ってくるだけだ。適当に。なるほど、適当なりの惨状であったのか。

 高橋と出会ったのはまだ学生の頃だった。誰だかの中学時代のツレだとか、いつの間にか仲間内の飲みの席にいて、会計時にはいなくなっていた。そんなことが何回か続き、流石にツッコミが入ったときも「さーせん」の一言で流れてしまった。その日も会計時にはいなくなっていたのだ。それでも仕方ねぇなで済んでしまうほど短期間のうちに仲間内に馴染み、許される男のポジションについていた。真似できないと思う。自ら最底辺を公言し飲みの間はパシリのようなことも進んでやって、アホだバカだと言われてへらへら笑う。プライドはないのか。あるのかもしれないが価値観が違うのか。
「高橋ってなにしてる人?」
「俺っすか? バイトっす。辞めたけど」
 アッハと声高に笑う。笑うようなことだろうか。思うけれど、アルコールのために赤くなった顔のやつに普通の感性を求めることがそもそも無駄なことだった。
「じゃあ今無職?」
「無職無職! もーすっげぇ無職。同じところでずっと働くのなんか向いてないっていうか。やんなっちゃって、あんまねぇ。なんかバイトないっすか。手っ取り早いの。チャッと稼げるやつ。楽いの」
「心当たりはあるけど……、後で調べてメールするわ」
「まじっすか! あざーす。いやー片桐さんほんとイケメンでいらっしゃる」
 へらっと笑ったと思ったのは一瞬で、すぐにグラスに視線を傾ける。酒を一息に呷る、その仕草にほの暗いうろのようなものを感じたのは気のせいだったのか。いや、高橋もなにも考えてないわけではないのだろう。プライドもあって、俺を嫌うくらいの根性はあるのか。
 空いたグラスを置き口を拭うとひとつ溜息のような息を吐く。仲間に向けてすっと手を挙げる。
「しっこ行ってきます」
「うぜぇ! 言わなくていいし……てかばっくれるつもりだろおまえ」
「やーん! ひどーい。まだまだ飲み足りないんだからねっ」
「うぜー」
「おしっこ行ってくるよー」
「行けよ勝手に」
「はいはーい」
 千鳥足で場を抜けて、案の定高橋は戻らなかった。
 一事が万事そんな調子でこの先こいつはどうするんだろうと思っていたがやがてそれぞれ時間が合わなくなって定期的な飲み会が開催されることはなくなった。そこが高橋との縁の切れ目だと思った。実際何年も連絡はこなかったのだ。飲み仲間のうち幾人かは時々会って金を貸したりしていたようだが俺のところにはそういう話はこなかった。定期的に飲んでいた時期でも話すことといったら割りのいいバイトの話くらいで個人的な会話をするということもなかったのだが。
 忙しさにかまけてすっかり忘れていた名前が数年ぶりに携帯のディスプレイ上に表示された時、一抹の失望を感じたのも事実だった。ついに落ちるところまで落ちたのかと思った。通話ボタンを押して聞こえてきた声は数年のブランクを感じさせないほど以前と同じ調子でふざけたものだった。拍子抜けした。相変わらず人懐こいようで懐かない、人を馬鹿にしたようなチャラけた喋り方で仕事はないかと言う。なにも変わっていないのか。先に感じた失望とは違う苛立ちを覚えた。
 ビデオに出演させてみようと思ったのは根性を試したかったというのもある。高橋の言う適当がどこまで許容するのか知りたかったのもある。まさか変な方向に目覚めるとは思わなかったが。

「俺、片桐さんに嫌われてると思ってたから」
 ビデオ出演数日前に高橋は言った。好き嫌い言うほどの付き合いはなかったように思うが、俺自身高橋に嫌われているのだと思っていたから意外だった。嫌われてる、なんてことは嫌いな相手にはあまり言わないことだ。
「片桐さん俺のこと馬鹿にしないし、なんか……、だせぇって思われたくなかったし」
「今は?」
「もう片桐さんしか頼れないんすよ」
 力なく笑った。適当にしのぎきれない疲れがあるのだろう。AV出演で自分がなにをされるか分かっていて受け入れているのは本当に後がない証拠なのかもしれないと思った。本当に俺を最終手段としていて、なんでもやろうという覚悟なら、まだ性根は腐っていないのかもしれない。
 撮影前は口数少なく落ち着きなく瞳を揺らしていたが、撮影が始まったら上の空にも手順通りこなしていた。まったく売れそうにない。初めから分かっていたこととはいえ脱がせてみたら余計に分かる。商品力ゼロ。身体を鍛えてるわけでもなければアイドル顔というわけでもない。一体どこの購買層を狙うのか。しかも集中力が切れたのか次第に声出しも適当になっている。ふざけんなよこっちには最低限売りたい枚数があるんだよ。
 そういうわけで。どういうわけか俺は封印したはずのゴーグルを再度装着することになったのだった。後悔しかなかった。行く先々でビデオ観ました、と含みをもって言われるのに作り笑いで応えるしかなかった。何故またビデオに? なんて、売上げ作りたかったからに決まってんだろ。言えるわけない。自信満々だと思われる。アンケートや諸々の数字を参考にしての皮算用だったとはいえ、本当に出るんじゃなかったと悔いたものだった。

 なんだかんだあって、一緒に暮らし始めて、ノンケのくせに俺を好きだとか言い出して、気の迷いもいいとこで一時的な錯乱にすぎないと分かっている。覚えたての快楽に流されているだけだ。分かっている。はずなのに、高橋に好かれて悪い気がしないのも事実だった。
 馴れ馴れしいくせに目を合わせないし、かと思ったら遠くから見つめてくるし、好かれたがってるくせに優しくすると居場所をなくしたみたいに戸惑っている。どこまで不器用なんだよ。笑ってしまう。
 寝室を覗くと高橋はまだ眠っていた。起きているのだろうか、と思うほどきつく眉根を寄せ歯を食い縛っている。酷い寝顔だ。面白い。
 高橋には裏も表もなくて、今現在の気持ちが全部なのだろう。今きっと相当無理をしていて、それでも弱音を吐かず逃げ出さないのは、まあ普通のことだけど、昔の高橋からしたら大した成長だ。
 隣に横たわる。甘えたがりの甘え下手は昨晩も誘っているのかいないのかよく分からないことをぐるぐる言っていた。面白かったからそのまま聞き流してはみたものの可愛いと思わないこともない。自分でもどうかしてると思う。絶対にどうかしている。中てられた。そうとしか思えない。時々無性に可愛がりたくなる。甘やかしたくなる。俺そんなタイプでもなかったよな、と自問がむなしい。中てられてるのかそうでないのか、答えは出ないが俺も高橋みたいに感情的に生きてみたいと思う日もあるのだ。前髪をすくとまぶたがかすかに震えた。起きたらどうしてやろうか。温んだ時間に眠たくなってくる。二度寝も悪くないかもしれない。



(10.8.20)
置場