夢の中で私は正しい人間だった。目覚めたあと、私は人間でないことを思い出した。人間がするように布団から起きだし顔を洗い、朝食として栄養剤の点滴を腕にさした。防腐剤入りの液体は私の生体の維持のため欠かせないものだった。
液剤が半分になる前にソダツが起きてきた。朝の挨拶などなく、彼は自分の朝食の準備をしている。温かいコーヒー牛乳が彼の朝食だった。
朝のニュースを横目に眺める。ソダツの目には画面左上の時報しか映っていない。私は点滴をさしながら新聞を読み、言葉のない朝に煩わされない努力をする。
一つのダイニングテーブルの上で私とソダツはそれぞれの時間を過ごす。干渉しあわないことが優しさだった。私の腕に注がれる点滴の薬剤が底をつく前にソダツは身支度を整え学校へ出る。私は空になった薬液のパックを捨てる。
この家で暮らすようになって半世紀以上経つ。家屋は時の流れを経て所々床が悲鳴を上げるようになった。五十年、私はなにひとつ変わることがない。
二十五の折、私はひとりのマッドサイエンティストの餌食となった。雪の降る冬の日で、入院中の父が恐らく最後に帰宅する日だった。帰りを急ぐ私をかどわかしたのは同じ研究所に勤めていた同い年の男だった。
七日七晩の玩弄は絞殺による縊死に終わった。犯されながら首に男の全体重を乗せられて、私はようやく悪夢が終わるのだと安らかな気持ちにすらなっていた。死の間際見た男の薄笑いの意味すら気付かずにいたのだ。
再び目覚めた時、私はやはり犯されていた。死の最中にも玩弄が続いていたらしいことは男の言葉からすぐに知れた。汚され続けた挙句、私の身体のほとんどは男の手によって作りかえられていた。決して止まらない心臓と、劣化しない内臓と、特製の薬剤で維持される肉体を与えられた。けれど脳だけは俺のものだ、という希望はすぐに打ち砕かれた。脳髄のほとんども男の手による人造物に入れ替えられていたのだ。十年、私に自由はなかった。
不老不死の研究成果か、不死の実現はどうか知らぬが不老だけは間違いなく完成されていた。三十年の時を要した。その間幾度も私の臓器は怪しい挙動をしたが、その都度腹を割かれ新しいものに入れ替えられて三十年経つ頃にはすべてが安定して私の不自然な生を進行させた。
老いることなくそれまで生きた二十五年と同じだけの歳月が過ぎた。歳相応に五十になった男は十二歳になる男の子を連れて帰ってきた。その子が私と同じように男の悪趣味の被害者であるならばなんとしてでも助け出そうと思った。子供は男の実子だった。十二年の間子を養育してきた母親がその年亡くなったのだそうだ。
子供は男に育てられなかったからか、男の血縁であるというのにまともだった。聡い子ですぐに私と男との関係を理解した。何度も私を逃がそうとしてくれた。けれど数十年間老いることなく生き続ける私にもはや帰る場所はなかったのだ。
子供が中学生になって、私は一度彼と連れ立って生家へ赴いたのだ。育った町の風景は私のまるで知らないものになっていた。整然とした区画に私の知る家々は点在していたけれど、その大部分が見知らぬものに変わっていた。私の家は駐車場になっていた。ぼんやりと立ち尽くす私を置いて、子供は愛想を振り撒き近隣の住人に事情を尋ねてきてくれた。
やはり父はあの後すぐに亡くなったらしい。失踪した長男の死亡が確定してしばらく後に母も亡くなったそうだ。駐車場になったのは五年前だという。
時を止めた私に過ぎ行く時の概念は身に余る。父母が亡くなった歳を越えても私はなにも変わらないのだろう。
「悪魔もおまえを気に入るだろうね」
年老いた男が言った。果たして老衰のない私が悪魔と対峙するときはいつになるのだろうか。自殺か、他殺か、そのどちらかしかないというのに。
七十になる前に男は息を引き取った。死に際までも男は私を辱めることを止めはしなかった。私には諦念しかなかった。
男の葬儀の間、私は部屋に閉じこもりきりだった。存在しない私は公の場に居場所がないからだ。男の死に際して私が思ったことは「解放された」ただそれだけである。
その夜、十年ぶりに帰宅した子供は神妙な面持ちをして私の部屋へやってきた。端座したまま言葉もなく俯いているので、あんな男でも父親だったのだ、死が堪えるのだろうと思い慰めの言葉を探したが、私には用うるべき言葉がみつけられなかった。思惑は別として、二人押し黙ったまま刻々と刻む秒針の音を聞くのは追悼の形式としては適切だと思えた。
「死のうだなんて思っていませんよね」
低く押し殺した声で子供は言った。私はなにも言えないでいた。
あの冬の日から四十年以上の時が経っていた。その間、私は何度も自殺して、その度男に蘇生された。死はようやく現実味を帯びたものとなったのだ。
「死なないでほしい、というのは僕のわがままですが」
子供は真剣な顔をしていた。眉間に深く皺を刻んで言葉を探している。“生きてほしい”ただそれだけの言葉が悪魔的に歪められた時間のために重苦しいものとなっていた。
「一度、あなたを見捨てた僕が言えることか分からないけど」
声が震えていた。おまえは悪くないよ、その一言が喉下に引っかかって出てこない。実父に対する憎悪に染まる子供を見ていられなくて、家を出るように勧めたのは私自身だというのに。
「家族になってくれませんか」
子供はまっすぐに私を見据えていた。しっかりとした口調だった。子供は三十になっていた。
それから五年間、私は彼と生活した。親子のように親密で、他人のように思いやり深い日々だった。
二人だけの生活が六年目を迎える前に彼は一人の女性と結婚した。若いながら聡明な女性で、私にまつわる不自然な事情も理解していた。新婚家庭に居座るのも申し訳ないと家を出ようかと提案した時も、嫌じゃなければいてほしいと私を気遣ってくれた。
一年後の夕食時、三人でダイニングテーブルを囲みながら彼女は妊娠を打ち明けた。はにかむ彼女の前で男二人目を瞬かせ、一拍置いて顔を見合わせ、にっこり微笑み喜んだ。十二歳だった少年が人の子の親になるのだ。ただ無意味な自分の生が初めて意味のあるものに思えた。命が育まれ次へ連なっていく。父母の死を知らせた後、黙って私の手を握っていてくれた少年は家族を守る強い男になったのだ。
穏やかで幸せな毎日だった。日々変化していく母体を見守りながら、我々は新しい家族を迎えるための準備がなによりの楽しみだった。
私が死んだ日から半世紀の時が過ぎようとしていた。月の明るい晩にソダツは産まれた。産まれたばかりのソダツを覚束ない手付きで胸に抱き、私は泣いていた。生まれたばかりの生命の輝きが美しかった。愛しかった。夫妻の笑みは神々しいほど美しかった。
這い始めたソダツの手のひらを私は愛していた。歩き始めた足を愛していた。楡のごとく育つ芽吹き萌える生命を愛していた。私はソダツの全存在を愛していた。
あの幸福な時間は地獄へ落ちるべき私に与えられた最後の楽園だったのだろう。そんな慈悲深い神がいるならば、何故これほどまでに私に試練を与えるのだろうか。生き地獄中のオアシスは私に苦痛を遣り過ごす方法を忘れさせた。彼らが亡くなったのは雨の激しい夜だった。
ソダツが十二歳の頃だった。研究者であった両親は揃って一泊二日の出張に行っていた。夕食後私は食器を洗い、ソダツはリビングで本を読んでいた。テレビから流れる天気予報を眺めながら、大丈夫かなと呟いた声が広い家に沈んでいった。普段泊まりの出張がある時は必ず電話を欠かさないはずなのに、八時になっても九時になっても電話は鳴らなかった。
「忙しいのかな」
段々言葉も少なく落ち着かなくなっていたソダツを安心させようと私は笑ってみせたが、内心では不安だったのだ。電話をかけてみようか。しかし留守を任されているのに煩わせるのも申し訳ない。きっと電話できない用事があるのだろう。
「大丈夫、早く寝なさい」
思い出を脳内再生した時に、私の発言はどれほど残酷に聞こえたろう。大丈夫なことなんかひとつもなかったのに。
深夜零時を過ぎて電話は鳴った。事故の知らせだった。
飲み会後ホテルへ帰る最中に飲酒運転の車が歩道に突っ込んできた。ニュースではありふれた事件が、当事者にとってありふれたことのない大変な事件なのだ。二人の死亡を知らされて、私は身体中から力が抜けていくのが分かった。涙が流れなかった。ソダツに知らせなければ。起こすべきなのか。寝かせてあげるべきなのか。どちらにしても酷なように思う。
ソダツの部屋は安らかな寝息に満ちていた。私はベッドの傍らに膝をついて少しのあいだ無防備な子供の寝顔を眺めていた。
「ソダツ……、起きて、ソダツ」
ソダツは重たいまぶたを薄く開け数度まばたきをするとなに、とくぐもった声を上げた。
「起きた? ちゃんと聞いて。お父さんとお母さんが事故に遭った」
「……なに?」
「お父さんとお母さんが亡くなった。さっき連絡があった」
「……」
「明日、おばあちゃんたちが来てくれるそうだから」
「起こしてごめんね。もう一度寝るんだよ」
私はソダツの辛さを和らげる術を知らなかった。自分の悲しみだけで精一杯だった。ソダツは眠れないかもしれない。起こすべきではなかったかもしれない。けれど、目覚めた後知らされるのも同じだけ辛いだろう。ソダツが私を嫌うのも仕方のないことだ。
翌日彼女の母親と兄が尋ねてきた。私は手伝いの人間だと自らを名乗った。ソダツの養育は彼らに委ねられた。私は天涯孤独の身であること、就業できないことを理由に家の管理をするという名目で家に残ることを許された。
「あなたにも事情はあるだろうけど」
そうやって言葉を濁しながら、ゆくゆくは家を出て行くように勧告された。それはもちろん、分かっていることだ。私の置かれている状況は常識的に逸脱している。だからこそ、私は常識の世界に生きる彼らに従いたいのだ。ソダツが帰るまで家を守る。役目を終えたら私は死ぬる。
私は私が定めた寿命まで生きることを決めた。夫妻が私のために残してくれていた貯金を崩しながら苔のような生活をした。生活に目的がなかったので邸内の蔵書を片っ端から読みはじめた。あのマッドサイエンティストの蔵書は元々研究畑にいた私には興味深いものだった。人格はどうあれ研究者としては一流だったのだろう。膨大な本の山で学生時代に親しんだ本が出てくるとなんだか懐かしい気持ちになった。もし、私が平穏に生活を続けていたら? 研究を続けていたら? どうなっただろう。むなしい仮定は何度も脳内でシュミレートした。もし、あの男が凶行に及ばず愛を語っていたら、私は応えただろうか。今更公式を構築して答えを導き出したところでそれがなにになるというのだ。意味なし。すべてナンセンスの一言で片付いてしまう。
私は何度も死んだ。そして何度も生き返った。人の理に逆らう私はナンセンスの権化であるようだ。胸に本を抱いて眠る。このまま目覚めなければどんなにいいだろう。すべて夢であればどんなにいいだろう。願いながら目を閉じて、私は何度も絶望する。
「あんた、まだ生きてたんだ」
十五歳になったソダツは予定よりも早く帰宅した。祖母宅から通えない圏内の高校に進学したからだ。
「おかえり、久し振りだね」
「全っ然変わってないのな」
十二歳の頃の面差しを残すものの、ソダツは他の同じ年頃の子供と比べて大人びて見えた。ひょろりと伸びた上背に目方が追いついていないのか、華奢な少年性を残した身体に目付きだけはすれていた。
「部屋に荷物置いてあるから、学校始まる前に足りないものないか確認して」
言うと、ソダツは持っていた鞄を叩きつけるように上り框に投げつけて黙って部屋へ向かっていった。なにが気に入らないんだろう。なにもかもか。ソダツは苛立っている。毎日毎日苛立っていて、一ヶ月も経たないうちに彼の部屋には大きな穴が開いていた。
「なんでまだ生きてんの?」
彼が気に入らないものは私なのだ。私たちは言葉を交わすことはほとんどなかったけれど、ソダツは時折私を傷付ける意図をもって言葉を放った。それは軽蔑と侮辱の言葉であったけれど、ソダツの言葉は私が私自身に対し思っている言葉とまるきり同じであったから、私はソダツを憎むということがなかった。
私たちは向かい合わないことでお互いに対する優しさを示すようになった。ソダツが私に感情を見せたのは最初の数ヶ月のみで、あとは石のように感情を表すことはなくなった。しばらくは私も語りかけることを続けたが、それが彼のストレスになっている気がしていつしか止めてしまった。家事を勤めることで私は彼と係わることから逃げていた。ソダツが恐ろしかった。
機械になりたい。
「ようやく分かった。違和感の正体だ。あんたの正体だ」
深夜三時、ベッドの脇にソダツは立っていた。横たわる私を見下ろしていた。月の明るい夜で、カーテンの隙間から明るさが刺していた。
「爺さんは相当頭がおかしかったんだね」
「そうだね」
「二十五歳から死ぬまで、あんたの観察日記をつけてたよ」
そう言ってソダツは古びたノートを投げて寄越した。ナンバリングは一、遠い記憶の中で止まったままの西暦下二桁の記載がある。
「あんたがされてたこと全部書いてあったよ。なにされて喜んだかも全部」
「そうか」
「変態。親父とも寝たのかよ」
「バカなことを言うな、あるわけない」
「脱げよ」
ソダツは十七歳になっていた。高校三年生になっていた。小さかったてのひらは私と同じくらいに大きくなっていた。タオル地のベビー服を着て這っていた頃が懐かしい。走馬灯のように思い出す。一体だれが死んだんだ。一体なにが死んだんだ。
私は服を脱ぐ。ソダツは眉を顰める。
「ツギハギだらけ。爺さんはこんなんのどこに欲情したんだか」
「自分が付けた傷だからだろ」
「へぇ、じゃあ俺も傷付けてみようか」
「好きにしろよ」
つまらなそうに鼻を鳴らしてソダツは服を脱ぐ。まだ完成しきらない肉体が忌々しかった。愛もなく、子供は知らなくてもいいことを知りたがる。
頭を押さえられたまま私はソダツのペニスを咥えた。喉の奥にこすりつけるようにソダツは乱暴に腰を動かしてくる。こんな悪夢が現実になってしまうのか。
「ケツほぐせよ」
言われるまま己の指に唾液を絡めてアナルへ埋めていく。久しく忘れていた痛みに奥歯を噛み締めて私は言われるまま己を犯し続けた。
「あっ! ……っく」
「ジジイの変態調教はさすがのもんだな」
乳首を親指で押し潰し捏ねながらソダツは笑っていた。私のペニスの先からは先走りが零れ始めていた。
背後から犯された。ソダツは目先の快楽に夢中になっていた。直腸内に注がれる液体の熱さが疎ましかった。行為は一晩中続いた。肉体は有機的な事物にすぎない。体温が嫌いだ。
「弁解をしろ」
ソダツは顔を伏せたままだ。
「弁解しろ」
なにに対して? 生に対して?
私たちは隔絶されていた。ソダツの苛立ちの理由が私にあるのなら、私はわけも分からず申し開きをするのもやぶさかでない。けれど、ソダツは過ぎ去った時間に苛立っている。時の流れを堰き止めて、逆流させる能力は残念ながら持ち合わせていない。私は沈黙する。押し黙って、ソダツの気が済むのを待つ。
「あんたはなんのために生きてるんだ」
「……君を、幸せにしたかった」
「嘘を吐くな! 見捨てたくせに!」
「……そうだね」
ソダツの腕が振り上げられたのを確認してすぐに左目の横から白さがはじけた。痛みは後からやってきた。目を瞑ると頭部が全体的に熱く脈打っているのを感じた。ソダツの呼吸は怒りのために荒んでいた。私は落ち着いていた。殴られた拍子に機微を落としたのかもしれない。
「殺してやる」
「いいよ」
「いいかげんにしろ」
「好きにすればいい」
「いつまで被害者を気取るつもりだ」
「処世術なんだ」
「どうして……」
どうして?
「こんな……」
こんな?
「……」
それ以上言葉はなかった。ソダツは俯いている。私は両手でソダツの顔を上向ける。驚いたような、怯えたような瞳がある。唇にキスをする。戸惑うようにてのひらが背中を撫でる。
「……私たちは、家族にはなれない」
「ああ」
「恋人にも、なれない」
「……」
「こんな家は潰してしまえよ」
「……ああ、そうする」
「悪い夢は全部忘れなさい」
「……」
「おやすみ。君のことが好きだよ」
ソダツが眠るまで、私は彼の身体を抱いていた。かたくなだった身体からやがて力が抜けていき、深い寝息が聞こえてくる。張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。彼はとても疲れている。
午前四時。窓の外から見上げた空は明るさをはらんでいる。キッチンで水を飲む。コーヒーメーカーをセットする。なにも持たず、私は家を出た。ソダツ。君の苦悩も過去も未来も私はすべて愛している。“君のため”なんていうごまかしはしない。私は私の愛のためにいつだって独善的であったのだ。
東の空から黎明が訪れる。