スティグマ



 赤い。瞬間熱いと知覚した。
 沈黙は真空の波のように俺を中心として広がり、室内の端へと行き渡る前に俺を中心としてざわめきが発生した。波紋のようだと思った。同心円状の中心で俺と伊丹だけ変わりなく微動もしなかった。当事者であるということはそういうことなのだろう。
「ごめん」
 ポカンと馬鹿のような顔をして伊丹は言った。
「別に」
 他に言葉もなかった。
 保健室、先生、伊丹が、刑部君が、色々な声がする。右目が開かない。泣いているのだろうかと頬を拭った指先が赤く染まっていた。そうか、と俺はようやく理解した。
 大丈夫? と女子の声が頭上に集まってくる。伊丹のナイフが刑部の目に云々と事情を話す男子の声も聞こえる。当の伊丹は呆然としている。別にいいよ、と声をかける前に美術教師に腕を掴まれてそのまま保健室へと連れて行かれてしまった。
「もう少し我慢しろよ!」
 死ぬわけでもなし大袈裟なことを言う美術教師の車に乗って眼科へ、まぶたが切れていますね、と医者は言った。
「視力は?」
「追々検査していきましょ」
 俺の頭上でばかり話が進行していく。
「今日はこのまま帰ってゆっくり休め」
「いや、鞄学校なんで」
「高橋が同じ中学だったろ、届けさせるから」
「別に平気なんで」
「いいから」

 伊丹はどうしているだろうか。

 放課後鞄を届けに来た高橋に伊丹の様子を問うてみる。
「伊丹も早退したよ。すっげぇショックだったみたい」
「別に平気なんだけど俺」
「アドレス教えようか?」
「伊丹の? 知ってんの?」
「逆になんで知らんの? もうメールしてんのかと思った」
「友達じゃねぇし」
「じゃあ教えるわ」
「いらん。メールせんし」
「いや、アド送っとくわ」
「いらんいらん」
「いや、送るから」
「うぜぇアド替えるわ」
「うるせーばか、今送る今」
「やめろバカ、いらん」
「はい、送信しましたバカが」
「知らんし」
「伊丹超へこんでてさ、俺あんな伊丹見たの初めてだったから、なんて言うの、サプライズ?」
「サプライズ?」
「ビックリっていうか、ショックっていうか、フォローしてやってよ」
「おまえがしたらいいじゃん。俺メールしたことないし」
「俺じゃ意味なくない?」
「仲いいじゃん」
「おまえがメールしろよ。超元気! って」
 そんなこんなあって俺は伊丹にメールをした。高橋に言われた通りに送った。
 『Sub刑部です
  超元気』
 俺はバカか。もっと適切な言葉があるんだろう。ずっと考えている。
 あの時間、あの瞬間、俺は世界に伊丹と二人きりになってしまったような錯覚を覚えた。それまで笑っていた伊丹の顔がみるみる強張っていくのを見た。伊丹が世界で一人きりになってしまう気がした。あの時、世界には俺と伊丹しかいなかったのだから、俺は美術室に残らなければいけなかった。顔が熱い。鎮痛剤と抗生物質をのむ。まぶたの傷が綺麗に消えればいい。伊丹にあの小さな世界は似合わない。

 翌日俺は客寄せパンダと同じだった。白々しい眼帯がどうにも嫌だった。大丈夫? 心配したんだよ、話したことのなかった女子に囲まれて俺は苦笑のようなものを浮かべていたと思う。帰ろう。めんどくさい。でもその前に、慣れないことをしておこう。いつもだったら教室のどこにいても聞こえる伊丹の笑い声がない。自席に座り高橋となにやら話している伊丹はなるほど、確かに超へこんでいるのだろう。
「よー、ほら刑部超元気なんだって」
「おー、俺超元気」
「あの、昨日……ほんとごめん」
「別にいいよ」
「綾波コスできるって喜んでたぜ」
「おー、超嬉しい」
 高橋くんにはあとで罰を与えておこう。
「俺今日サボるけど具合悪いとかじゃないから」
「サボんの?」
「だりぃじゃん、なんか」
「あ、じゃあ、俺も」
 きっと今日の教室は伊丹にとって俺以上に居づらい空間だろう。
「俺いかねぇー」
 嘘だろ、高橋くん。君がいないとかなり気まずい。とはいえ今更授業出るとも言えない。伊丹が可哀相だ。
「えっと、どうしよう」
 教室を出ての第一声がそれだった。教室を出る際何人かの女子に声をかけられたがすべて愛想笑いでしのいだ。愛想笑いってすげぇ。伊丹に対しても通じるだろうか。無理だな。当事者同士だから。
「今帰っても早すぎるしどっかで時間潰す」
「外行く?」
「今の時間うざくね?」
「じゃ、あそこ、旧校舎のさ……」
「屋上のところ?」
「階段とこ涼しいし人通らんし」
「じゃあそこでいいや」
 途中自販機で缶コーヒーを奢ってもらう。いらんと言うのに食い下がるので奢られておいた。それで伊丹の気が済むなら好きにしたらいいのだ。
 廊下を歩く途中からもう会話はなくなっていた。俺は誤魔化すように眠いだるいと呟いてみるもこの呪文が万能でないことを知っていた。旧校舎の階段を上っていく。特別教室棟と成り下がった校舎に人の気配はまばらだ。窓から差し込む日光すら遠慮がちだった。
 旧校舎屋上前の踊り場は懺悔室かなにかだろうか。階段を踏みしめる足が重い。このあと俺たちはどんな会話をするのだろう。どんな会話を必要とするのだろう。謝罪と許容だろうか。友達らしい会話すらしたことがないのに。
「ちょっと寝るし。先帰っていいよ」
 模範解答から逸脱しないようにする会話は形式だけのもので伊丹の気を晴らすのにはいいかもしらんが白々しさが過重だ。ごめんね、気にしてないよ、じゃあそのあとは? ごめんね、気にしてないよ、伊丹は悪くないよ、それでいいのか。俺は怪我をしただけで自分を被害者だとは思っていない。傷付けた罪悪感だかショックだかで伊丹は笑いもしない。関係ない。俺と伊丹は友達ですらないんだから、こんな風に二人で気を詰めているのがおかしいのだ。
「目、痛い?」
 俺は目を開けない。鞄を枕に眠ったふりを続けたい。一秒の沈黙が耐え難い。
「別に痛くないよ」
 めちゃくちゃ痛ぇよ。熱いよ。考えるのが億劫だ。眠ったふりをしたい。
「目、見えなくなったら俺のやるよ」
「いらねーよ」
 深刻に捉えすぎだ。よくある事故だ。よくある。
「眼帯、外してみていい?」
「やだ」
「見せてよ」
「やだよ」
「傷が残ったら……」
「残らん」
「残ったらさ、俺、後悔するんだろうね」
「すんな。大したことじゃない」
 寝かせろよ、と背を向けて俺は会話から逃避する。伊丹はなにも言わない。
 俺が責めたら伊丹は満足するのだろうか。償いをしたいのだろうか。後悔したいのだろうか。持て余している。右目の傷は俺をとても不自由にする。俺はどうしたいのだろう。
 あの瞬間。赤くて熱くて時間が止まった瞬間。糸のように細いワイヤで俺と伊丹だけ世界から切り離されてしまった瞬間。俺は恐ろしかった。伊丹以外に誰もいない世界を美しいと思ってしまった。絶対の契約が結ばれてしまったと感じていた。俺のまぶたに残る傷痕と同じ形の痕が伊丹の記憶に残るのだろうか。望んでいる。俺は、とても嫌な人間だ。
「眼帯外すとき、俺にやらせてよ」
「……いいよ」
 おまえが望むなら望むまま後悔したらいい。この窮屈で甘美な世界の壊し方を俺は知らない。伊丹も横になった気配がする。本当に眠ってしまおうか。右目が疼く。




(09.7.1)
置場