雨季に病は進行する。酷い雨の音を聞きながら俺は気鬱でならない。右目の傷はもう治っている。
左目で見る景色はいびつで不自然なほど俺に優しかった。朝伊丹たちと言葉を交わし、昼には共に飯を食う。当たり前のことのようだが、俺はいままで何ひとつ
行ってこなかった。孤独に対する信念などはない。気付いたらひとりでいただけのことだ。なんとなくひとりでいて、なんとなくひとりにされて、それで不自由なくやってきたのだ。今更仲間に入れてくださいと言うこともない。
多分俺は伊丹が苦手なのだろう。塞がった傷の上で眼帯は重たく右目を圧迫する。
「今日、空いてる?」
ホームルームを終えてすぐ、俺は伊丹の席へ向かった。意味のない眼帯がそろそろ俺を歪めそうだった。
「デート?」
バカ橋がまたバカを言う。けれども俺は咎めない。高橋は高橋なりに俺と伊丹の張り詰めた空気を気にしていた。
「え、デート?」
高橋に釣られて伊丹は驚いてみせる。おまえはふざけるな。
「……治ったから」
その一言で伊丹は了承を示すように頷き、高橋はなにか察したのか黙ったまま明後日の方向に視線を流した。この居た堪れない空気が嫌だったのだ。
昇降口の蛍光灯のひとつが切れかかっているのか明滅していた。外は雨の気配に薄暗い。降らなければいいな、と思っている。傘を持っていない。
「どうする?」
「別に、俺んちでもいいけど……、まぁ、あそこでいいんじゃん? この間の」
「旧校舎? ……じゃあ、突っ切るか」
「突っ切るよ」
下駄箱で靴を履き替えないまま外へ出る。校舎内の階段を迂回していくより外を突っ切った方が旧校舎へは近道なのだ。上履きのまま校舎間の移動をしているのが教師に見つかるとなにかとうるさいのだが、無為な会話をする数分間を思えばなんてことのないことだった。
「刑部はさ、あんまり俺のこと好きじゃないんだと思ってた」
階段を昇る伊丹の後姿を眺め答えに詰まる。駆け引きの中でも一番卑怯なやり口だと思えた。
「苦手だよ」
踊り場を曲がって一瞬目があったがすぐに逸らされてしまった。
「はっきり言うね」
「おまえだって俺のこと苦手だろ」
「……得意になりたいんだけど」
階段を昇っていく。行き着く先は施錠された屋上への扉の前で、雨のにおいを孕んだ雲さえ得られない。袋小路へ向かっていく。
「さっさと終わらせようぜ」
この数日で伊丹の調子はすっかり戻っていた。あの直後の約束さえなければ、俺と伊丹は緩やかに他人に戻れたのだろう。関係の糸はいずれ絶える。つまらない約束に縛られて俺たちは上辺をなぞる友達ごっこを続けていた。
「ちょっと待って」
眼帯の紐に指をかけたまま伊丹の制止に戸惑う。まさか眼帯外させて、というのは言葉の通り伊丹自身の手で外すということなのだろうか。
「なに」
伊丹は階下を窺うように視線を向けて己の口元に人差し指を置く。耳をすませばなにやら人の気配がする。数人のざわめきが上がってくる。恐らくこの下の視聴覚室へ赴く面々だろう。先導する教師の声もする。伊丹に促されるまま座りこみ息を殺す。こんな所で二人こそこそしていたらあらぬ誤解を受けそうだ。それに伊丹の鞄の中にはやましいものの一つでも入っているのだろう。煙草のにおいがする。
座ったまま壁に背をもたれている。隣で伊丹は階下を窺っている。反らした首があらわになって筋が浮く。馬主に愛される白馬のようなしなやかさだった。コンクリートに冷やされる身体は段々他人のもののように感じられてくる。俺は一体なにをやっているんだ。
「鍵かかってる!」
階下から一際大きな声がした。誰かとってきて、早く、職員室まで、という遣り取りが喧騒の中に混ざっていた。伊丹はこちらに向き直り、また口元に人差し指を置く。念を押されなくとも今更声を上げる気はない。これはしばらく時間がかかりそうだ。
「……っ!」
などと思った矢先に伊丹の手が伸びてくる。思わず身体を後ろへ引いた。構わず伊丹は俺の耳元へ指をかける。くすぐったい。何故このタイミングで、という疑問を挟む余地もなく伊丹は俺の眼帯を外す。俺は左てのひらに重心を乗せたまま身動きができないでいる。明るさが右目に染みる。階下では楽しげな雑談が交わされている。息を詰めた俺と伊丹の間に人の気配が入り込む。空気の振動はしかし呼吸の仕方を思い出させはしなかった。繭の中で俺たちは人の声から隔絶してしまった。こんなにも近く、ふたつの眼球で伊丹の姿を捉えるのははじめてのことだった。
「……」
数秒前、伊丹はこんな顔をしていただろうか。数日前、伊丹はどんな顔をしていただろうか。思い出せない。動揺のせいだろうか。俺の心のせいだろうか。まばたきすらもまともにできない。伊丹は眉根を寄せ真面目な顔をしている。傷の診察をした医者よりも真剣に俺の右目を注視する。右目に向かって指が伸びる。思わず伏せた目の端に伊丹の指がかすかに触れた。
「おおっ! 早かったな!」
「みかが鍵持ってきてくれて、そこで会ったんですよ」
「マッキーが鍵持ってってないけどーって言ってて」
云々、階段のすぐ下で話している。俺は伊丹の瞳孔の収縮を眺めている。広がったり縮んだりしている。黒目の中に俺がいる。まつげが数度上下した。
重い扉が開き、閉まる音がした。伊丹の瞳がそちらを窺うように端により、またすぐに中央へ戻ってきた。
「……帰るか」
近付いてしまった身体を離す。わざとらしく伸びをする。なにか話そうと思っても話題がない。俺たちは友達ではないのだから仕方がない。黙ったまま階段を降りる。そのまま昇降口まで歩いていき、靴を履き替えて校舎を出る。他人のような距離を取りながら歩いていた。
「傷、残ってたね」
「気のせいだろ」
「目閉じたら目立つよ」
「気のせいだよ」
「あのさ、ああいう時は目を閉じた方がいいと思うよ」
「おめぇも開けてただろ」
駐輪所から自転車を出す。伊丹は電車通学だったから、ここでお別れだ。駅まで自転車を押してついていく気はない。ペダルに足を乗せる。
「あのさ」
「気のせいだ!」
「刑部は嫌かもしんないけど、俺さ、刑部のこと気にしてたいんだよ」
「うるせぇ」
ペダルを思いっきり漕いでいく。伊丹が俺の名を呼んだ。うるせぇ。知らねぇ。意味が分からない。家に答えがあるわけじゃないのに帰路を急ぐ。眼帯を外したばかりの右目は視覚に若干の違和がある。頬が熱い。ぬるい風ではこの熱を冷やしてくれそうにない。速度を上げる。もっと速く。誤魔化してくれ。俺は多分恋をしている。