汗と夏虫



 アパートのベランダから花火が見えたのは入居して一年目のその時限りで、近隣に高層マンションが建ってからは打ち上げの音しか聞かれなくなってしまった。
 窓越しに路上を眺むれば浴衣を着た男女や家族連れが笑いながら道を歩いている。大河を流れる燈籠のようにゆっくりと同じ方向へ流れていく。生きた人間をおばけのように思うのは俺自身がおばけのように頼りない存在だからだろうか。ウィスキーを呷る。

 ここから花火を眺めていたのだ。二人だらしなく足を崩して座り、窓辺に寄りながら缶のままビールを煽って笑っていた。赤の他人の幸福を見下ろして世をひねたことを言いながら笑っていたのだ。団扇と扇風機で暑気を攪拌しながら俺たちはアルコールの為に陽気になっていたのだ。

 風を切り天空を駆け昇る、孤独の弾丸は夜空で花紋様を描いて散った。

 室内を圧するほどの重低音が窓ガラスを振るわせた。
「飲んでるの?」
「……飲んでるよ」
「身体を壊すよ」
「そんなに飲まないよ」
「毎晩かい?」
「寝付けないんだ」
「一緒に寝てやろうか?」

 二発目の花が咲き散る。首元に汗が伝う。

「いないくせに」

 悪友である、という顔を俺たちは決して崩しはしなかった。それ以外の関係はきっと不自由だろうと思えたからだ。汗ばんだてのひらが右手に重なった時、俺は窓の外ばかり眺めていた。最後の花火が上がったら、俺はどうしようかと考えながら。

 空気を震わす連弾に歓声の気配が伝わってくる。グラスの中で氷が音をたてて水へ変わる。迷っている。向こう側にはきっとなにもないだろうに、分かっているのに境界線を見詰めている。

「今もひとり?」
「見てのとおり」
「変わらないな」
「おまえに言われたくないよ」
 時間を忘れた男は昔と変わらぬ笑い方をする。向日性の感情が溢れ出るように、自分がおばけだと気付かぬように。
「なにしに来たんだよ」
 一際大きな炸裂音がアパートを揺らした。窓の外では夜空がほのかに白んでいた。余程大きな花火だったのだろう。
 目を室内へ戻した時にはもう旧友は辞した後だった。
 街路では人がゆっくりと散会していく。家路へ向かう人々の足並みは微笑みの量に比例して遅くなっていく。たまらない。他人の幸福は俺の矮小を縁取る枠線のようだ。畳の上へ寝転ぶと天井に二重丸の蛍光灯。夜なのに蝉が鳴いている。
 あの時と同じ失敗をしたのだ。

 最後の花火は大きく、散るのがとても遅かった。
 俺の右手を握る手は一度ぐっと力を込めて、すぐに離れていった。手の甲を掠める中指のくすぐったさに身体を縮めた。俺はそんな自分を恥じていた。
「……じゃあ、帰るよ」
 そう言って微笑んで、彼は足早に帰っていった。その姿を俺は窓辺から眺めていたのだ。それが彼と酒を酌み交わす最後になるとも知らずに。
 後悔している。簡単な言葉だ。どうするつもりもない、どうしようもないことに俺は簡単に後悔していると言葉を用いる。安易な解決に走る。会えないから仕方ない。会えないから仕方ない。会えないから仕方ないんだ今更俺はおまえを幸せにしてやれない。握り返したい手は俺の見える範囲にない。今更俺になにができる。この部屋から花火は見られなくなってしまった。俺は全部分かっていたのに、気付いていたのに目を逸らしていたから、おまえは俺を責めにくるのだろうか。
 違うな。それじゃあ、一体。

「……忘れ物?」

 独り言は壁に滲みていった。
 忘れ物があるとしたら俺の方で、忘れられないから思い出にもならずいつまでも反復を続けるのだ。思い出にならなくていい。自己正当化のなされた記憶は多分欺瞞の塊であるのだ。俺は間違っていなかったと思いながら自己嫌悪すら見ないふりではきっとおまえの影すら見えなくなるのだろう。生くるものの妄執にとり憑かれたおばけだなんてまったくあべこべでおばけになった後もおまえは難儀するんだね、なんて俺はほんの少し愉快になってもうすっかり水割りになってしまったウィスキーを舐める。あの時抱き締めていたら失わずにすんだのだろうか。
 恨んでくれたらいいのに。とり憑いてくれたらいいのに。会いたいだけだ。酒を飲んで馬鹿な話がしたい。笑ってほしい。笑っている顔が見たい。

「ほんとに自分勝手だよな」
「……嫌いじゃないだろ?」

 二対のグラスにウィスキーを注ぐ。真夜中なのに蝉が鳴いている。



(09.8.16)
置場