森へ行かない



 『子供だけで山へ入ってはいけない』なんて子供が事故に遭うリスクを減らすための言い分だって思ってた。入山に年齢制限がある道理が理解できないし、危険だっていうなら大人だって入ったら駄目だろう。知っているか知らないかの情報量の差こそあれ、大人なら迷わなくて子供だから迷うなんて理屈に合わない。
 まあ、迷っているんだけど。
 カミツキ山には入ってはいけない。何故ならその名の通り神様がおわす御山だからとかなんとか。カミツキ山の神様は噛み付くくらいだから熊か野犬か狼か。神様だなんて方便で、人にとって都合の悪い生物が生息している地帯である、というのが本当だろう。でも今時危険生物なんているわけない。環境破壊がゆゆしいんだから地球が泣いてますとかテレビで言ってたし早々出会えるとも思えない。というか狼だったら仲良くなれそうな気がする。それでその狼は人の言葉を喋れる気がする。俺の一族とか守ってくれそう。なんか俺にはそんな力があるような気がするから狼なら出てきてもいい。
 青臭い土草を踏み潰して進む。道でないような、けれど道筋があるような、四方八方分かれ道にも係わらず何故だかまっすぐ進んで行けばいいような気がした。実は俺を守護する一族の狼のお導きか? 別に信じてるわけじゃないけど。
 猛禽類の高い鳴き声が木々の隙間を抜けて空へ向かって響く。心臓がきゅっと縮んだ気がする。強く風が吹く。大きな羽鳴りを立ててカラスが一斉に飛び立った。もしかしたら、カラスの方が俺を守護する一族かもしれない。なんて、誤魔化さないことには泣いちゃうかもしれない。泣くわけないけど。止まっていた足を一歩踏み出す。一歩、一歩、心臓がずっとどくどくいっている。早足で歩く。走る。大股で走る。つま先で土を蹴る。すぐ疲れる。
「あっ!」
 けつまづいて転びそうなところをなんとか踏みとどまった。小屋がある。ぼろい。けれど右を見ても左を見ても木しかない森の中で、その小屋の周りだけ開けていた。人の手の入った空間の発見に大きなため息が漏れた。良かった。それしか考えられない。少し休んでいこう。
 恐る恐る小屋を周りから眺めてみる。賽銭箱っぽいものが正面に置いてあるから神社なのだろうか。賽銭箱の中身を覗いてみたがなにも入っていなかった。鈴もない。けど鈴を吊るしていたような形跡はある。木造の建物は全体的に煤けて毛羽立っていた。木戸に手をかける。神様仏様どっちでもいいんで助けてください。天才にしてください。金持ちになりたいです。ゲーム上手くなりたいです。引く。が、固い。開かない。困る。開かないと困る。両手で扉の端を掴んで引く。身体中の力を込めて引く。後ろに体重を預けて引く。足だけが反対方向へ滑っていく。
「おいおまえなにしてんだ」
「ひっ! ひと!」
 若いお兄さんがいた。同じマンションの高校生のお兄ちゃんより年上っぽい。けどお父さんより若いっぽい。お父さんの会社のハラダ君とかお母さんのスーパーの店長さんと同じくらいっぽい。
「おまえここらの生まれじゃねぇな」
「はいあの、はい、産まれたのは東京なんですけどお父さんの転勤でこっちに来て、でももう三年くらい住んでます。やっぱ分かりますか?」
「においが違うよおまえさん。まさかと思うが頼光の筋のもんかい?」
「らいこう?」
「あー、なんでもねぇよ。昔々は頼光の縁者だとか胡散臭いのが訪ねてきたもんだが時代が違うってな、太郎坊よ」
 お兄さんがそういうと近くに止まっていたカラスが鳴いて応えた。
「あのカラス太郎坊っていうの?」
「なんでも構わんよ。次郎坊でも三郎でも」
 あいつらに名は余る。とお兄さんは小さく呟いた。意味は分からなかったけど、なんとなく怖くって意味を問うことはしなかった。
「ぼく、迷っちゃって、帰れなくなっちゃったんですけど」
「そうだろうなぁ。獣がうるさくて敵わんよ」
「すみません。あの、ここはお兄さんの家ですか?」
「家? ただの寝床さ、家なんかねぇよ」
「あっ……」
 家のない人だったのか。それにしては随分若いし身なりがきれいだけど。人には色々な事情があるんだろう。
「太郎や、こちらの坊ちゃんを麓まで送ってやんな」
 お兄さんが声をかけるとカラスは高い声で一鳴きした。
「ガキが一人で山になんか入るんじゃないよ。寝起きの鬼にとって喰われっちまうよ」
 そう言って笑って、お兄さんは俺の目の前に人差し指を翳す。眉間のまんなかに指先が触れて一瞬、立ちくらみ。白んだ視界の中でカラスの鳴き声だけを聞いていた。


 もう七年前になる。
 カミツキ山で遭難していた俺を発見したのは山に山菜を採りにきていた村上さんであった。子供が倒れていると駆け寄った所、すやすや眠っていたので安心しましたとはその時の言である。もちろん親には叱られた。学校でも入山禁止令が発令された。カミツキ山に入ってはいけない。何故なら野性の熊と猪が出るからだ、とは当時の担任の言い分である。鬼の棲む山だからではないのか、という問いは流石に言い出せなかった。小五の当時俺はすでに大人っぽいとか言われていたからだ。鬼がナンセンス生物だということくらい分かっていた。それなのに七年間、何度も山へ行った。
「カミツキ山にお社? ないはずだよ。あそこは登山者だっていないからね」
「鬼? そんな逸話もない山だよ。山菜が採れるくらいじゃないか」
 誰に訊いても、なにを訊いても、答えは同じだった。カミツキ山に鬼はいない。けれど俺は自分が見たものを信じていた。らいこうは鬼退治の専門家だ。ただの人が自分を訪ねて頼光の関係者が来るなんて思うものか。
 思い出すたび山へ行く。理由は自分でも分からない。確かめたいだけかもしれない。けれど七年の執着が最早引くことを忘れさせてしまった。絶対にもう一度会わねばならぬ気にさせてしまった。恐らく今年が最後だ。進路先が県外だから、最後にならざるえないのだ。きっとこの町を出たら、俺は山のことを忘れようとするだろう。
 木々の隙間を縫い行って、靴底で草を踏み潰して歩く。道は目的地へ繋がっているはずだ。この山の中にいることは間違いない。歩いていけば、土の上隈なく足跡をつけていけば、会えるはずだ。
「あっ……!」
 こけた。すんででてのひらを突いたが擦りむいてしまった。痛い。なにやってんだろう。思う。子供じみた執着を七年。けれど俺は別れ際の鬼の笑顔を思い出す。とても優しく笑っていた。人を食う鬼があんな顔をするだろうか。そうやって、俺は実体のない幻を描き、信じ、自分にとって都合のいい答えばかり望んでいる。分かっているのだ、そんなことは。けれど間違いない真実は、鬼が長い時間長い時代たった一人でこの山に暮らしていることだ。一人は寂しい。俺はその寂しさに同情しているだけなのかもしれない。
 音を鳴らして強い風が吹いた。悲鳴のような鳥たちの鳴き声が虚空に向かって反響している。カラスが気圧を切り裂くように鳴いた。
「太郎! 太郎坊!」
 いるかも分からぬ空に向かって呼びかけた。風がやみ、鳥の羽ばたきも次第に静まっていく。どこからともなく応えるようにカラスが一鳴きした。眼前に、幼い日に見た社があった。

 恐る恐る踏み出していく。七年思い描いていた。何度も夢にみた。現実に、今眼前に鬼の寝床が姿を現したのだ。やはりここは異界なのだろうか。何年も踏み破ってきた道の上に、目の前に、突然現れたのだから。
 あの頃のまま朽ちかけた賽銭箱、鈴のない神社。俺は振り返る。鬼はいるか。カラスはいるか。誰もいない。しんと静まり返っている。風すらない。空気が止まっているようだ。あの日開かなかった引戸を引いてみる。思わぬほど軽い手ごたえで戸は開いた。
「あの……、誰かいませんか」
 戸の奥は暗んでよく窺えなかった。人の暮らしているような気配もない。
「あの……」
 踏み込んでいいものか考えている。もしかしたら鬼はまだ眠っているのかもしれない。あの時も寝起きのようなことを言っていた。心臓はきゅうと縮こまっている。しばらく考えて、音をたてずにスニーカーを脱いだ。
 鬼の寝床に勝手に入って、俺は怒られるかもしれない。殺されるかもしれない。けれど構うものか。俺が会いたいだけで、自分勝手で来ているんだ。裏切られたなんて間違っても思わないと覚悟は決めている。
 古い床板は右足の重みに高く軋みないた。思わず息を詰める。左足を踏み出すのを躊躇っている。
「怯えなさんな」
 奥から声がかけられる。自分に対しての言葉であった。先ほどの躊躇いも忘れて俺はすぐさま奥へ向かっていった。
「やあやあ坊ちゃん、……人間はすぐ大きくなるな」
 奥の間で鬼は座していた。あちこち朽ちてなんの装飾もない部屋だった。
「あの、あの……、ぼく、あの、お礼を言いたくて」
「来るなって言うのに何度も来ていたそうだね、太郎のやつが教えてくれたよ」
「すみません。あの、あの、ぼくお礼が言いたくて」
「落ち着きなさい」
 鬼は笑って、俺はしどろもどろなまま髪の毛をかき回して、照れ笑いと鬼の笑顔が一致したらなんか楽しい気になって、ふうとひとつ息を吐く。
「もう一度、あなたに会いたかった」
「会えたな、よかったな」
「また会いたい」
「俺はもう長くない」
 鬼の時間で? 人間と鬼の時間が違うものだということは、出会った頃と変わらぬ鬼の姿から窺えた。ならばもうしばらくは同じ時間を過ごせるのではないか。だが鬼はそっと右手を差し出す。骨張った手指の先は黒く闇に染まっていた。
「ほうらごらん、化けの皮が剥がれてきてんだ。俺は一体どんな化物だったかね。忘れてしまった。人の皮が剥がれたら、俺はもうおれんのだよ」
 そう言って鬼は目を細めて己が指先を見詰めている。俺は言葉を失くしている。
「太郎や、お客様がお帰りだ。道を照らしてやりなさい」
「待ってください、ぼくはまだ」
 カラスが鳴いた。鬼は目を伏せ口をつぐんでしまった。俺はしばらくうろうろと落ち着かない目を動かして、どうにか留まれないか思案した。だが小屋中を満たす静寂は俺を異物として排除しようとする。
「寂しくはないですか」
 鬼は答えなかった。俺は太郎坊の待つ外へ向かった。

「太郎、あの人がいなくなったらおまえはどうする?」
 戸外で待つ鳥に話しかける。なんと鳴かれたって俺には分からないのだから独り言と同じだ。
「……私は」
 つぶれた喉から発せられるような声がした。
「おまえ喋れるの?」
「私は主様の決めたことになにを言う権利もない」
「普通のカラスに戻るの?」
「さあどうだか」
 艶やかな羽を大きく広げ、閉じ込める。太郎は素知らぬ顔をしてとんとんと飛び跳ねている。きっと太郎は鬼と一緒に死ぬつもりなんだろう。太郎の幸福はきっとあの鬼と一緒にいることだからだ。そうしてこの世から消えてなくなっていく。存在しない物語のひとつとして、二人は完結するのだろう。ならば俺は?
「助かる方法はないのかな?」
「主様は助かりたいなどと願ってはおらぬ」
「太郎は助かってほしいとは思わないの?」
 太郎はひとつ鳥の声で鳴いた。
「どうすれば助かる?」
 鬼の衰弱の原因は血肉を絶ったことによる、と太郎は言った。ならば簡単なことだ。鬼の気持ちさえ考慮しなければ解決される問題だ。しかし鬼の気持ちこそがなにより解決を阻む壁なのである。踵を返す。森へ行かず、鬼の棲む小屋へ行く。生気ない土草を踏み潰して走る。俺は鬼の全部を奪う。

 静まり返った鬼の住処で俺は再び床板を鳴らした。鬼は気付いているだろう。だが声はかけられない。きっとまた素気無く追い返されるのだろう。しかし俺にはもう覚悟が決まっていた。人の道を踏み外す覚悟だ。
 奥の間で鬼は座したままだった。顔を伏せ縮こまっている姿はなんだかとても小さく頼りないものに思えた。
「教えてください、鬼を殺す方法を」
「……なんだい、坊や。俺を退治しにきたのかい」
「違います。でも、同じことかもしれない」
 鞄の中の筆入れからカッターナイフを取り出す。それを見て鬼は声もなく笑った。
「そんなもんじゃあやれねぇよ」
 だけどあなたの魂を汚すことはできる。言わずに、自分の人差し指の先を深く切り付けた。血が出るまで深く。痛い。けれどもっと、肉を断つ。
「おい、やめろ。くせぇんだよ」
「腹減ってるんでしょ? いいよ食べて」
「いらん。喰わん」
「喰えよ」
 差し出した人差し指を倦むように鬼は顔を背けた。その顎を掴み無理矢理にでも唇にねじ込もうとする。鬼は唇をきつく閉じ、俺の左腕を掴んで引き離そうとする。その力の思いがけず弱いことに焦りは益々大きくなる。
「喰えよ! 俺が殺してやる!」
 血に汚れた唇をこじ開けて傷の開いた指先を鬼の舌に擦り付ける。罪の意識ばかりであった。俺は俺のエゴのために鬼が守り続けた数百年を無に帰した。申し訳ないという気持ちはあったが許しを請うつもりはなかった。力を取り戻した鬼が俺を殺したとして仕方のないことだ。
 苦痛に耐えるように鬼の顔は歪められていた。しかし熱く柔らかい口内で不意に舌が波打つのを感じた。怖気のようなものが背筋を走っていく。舌先が傷口を抉る。肌が粟立つのは恐怖からではないと俺は自覚していた。口辺に浮かぶ笑みを堪えられないでいる。
「全部食べていいよ」
 指の上に歯が乗る。俺は震えている。悦びで身体が震えることを初めて知った。俺は鬼に喰われてしまうのだろうか。鬼の血肉となるのだろうか。ああ、それではまた鬼はひとりになってしまう。
 音をたてて一度指を吸い、鬼は唇を離す。俺はざわついた身内を治められないでいる。
「おまえは酷いやつだね」
「責任とる」
「バカだな」
「ごめん」
 鬼は笑っている。そっと己の指先に視線を落とし、暗闇の消えていることを確認すると静かに目を伏せた。
「あと何年生きる?」
「俺が知るわけねぇだろ」
「一緒にいたい」
「やめとけ」
「責任とるって言ったじゃん。あんたが死ぬ時は俺が死ぬ時だよ」
「むちゃくちゃだな、おまえ」
「むちゃくちゃになろうよ」
 血の通った鬼の手を握る。鬼はかすかに微笑んでくれる。これから一体どうしようか。どうなろうか。考えたって仕方ない。答えは用意されていないのだから。ひとでなしの俺が鬼の手を引きどこへでも行こう。どうにでもなろう。道はどこへでも繋がっている。たとえ行き止まりに突き当たっても鬼の手は握ったままだ。
 カミツキ山に鬼はいないという言葉は後年真実となった。



(10.1.10)
置場