starslave



 髪の毛にワックスすらつけなくなって久しい。毛玉まみれのパーカーを週に六日着ている。寝癖のままで町へ出る。コンビニまで。
 日差しはいつから温んできたのだろう。梅の花は町の辻で所在なげに咲いている。去年の今頃は、と記憶を辿る入口で疲労を覚え座り込む。未来に繋がらない過去になんの意味があるだろう。鼻先に埃っぽい風がゆるやかに通り過ぎる。眠たい。毎日毎時間毎秒眠い。毎日寝すぎなくらい眠っているのだ、身体が休息を求めているわけではない。他に言葉が出てこないほど俺の頭が退化した証拠だ。
「いらっしゃいませこんにちは」
 今日は男の声。いつもこの時間帯は女性声だからかほんの少し違和感がある。とはいえ日常を変えるほどの変化ではない。なにもかも意味を成さない。なにもかも機微にならない。
『生まれてこなきゃよかったのに』
 俺もそう思う。
 その場しのぎの食べ物を買って、その場しのぎの生命を繋いで、俺は一体なにになろうというのか。ゴールのない持久走をひとりで続けているようだ。消失点の先にだってなにもないのに、走ることだけが目的になっている。動機は? ないのだ、そんなものは。

 十四の折に家を出た。思えば俺は馬鹿だった。家を出てすぐ人のいい変態に拾われて、そのツテで金を持った変態の下へ渡された。絶望も幸福もすべてその男からもたらされた。俺の世界の全部だった。思い返せばそれしきの話。
 それから数年。ペドはペドらしく育った男の身体は気持ちが悪いと言った。それは道理だと思ったが、成人を迎えても捨てられる気配がないから俺は大丈夫なのだと思ってしまった。俺は特別なのだと思ってしまった。
「情のようなものはあるけど、それしかないから」
 まったく彼らしい言い分だった。幼い子供を愛玩する上で俺を邪魔に思うようになった。曰く「君のほうが子供に好かれるみたい」馬鹿馬鹿しい嫉妬だった。俺が子供を愛せるはずがないことを男は考えもしなかった。
 男は二冊の預金通帳を手切れ金とし、「後は頑張れ」とふざけた顔をして笑い、それが今生の別れであった。
 しばらく遊んで暮らしていたがすぐに飽きてしまった。むなしくなってしまった。さびしくなってしまった。古いアパートを借りて、後は死ぬまで生きていようと思った。人との繋がりは途切れるのが易い。会わなくなったらそれが最後。一瞬好きになった気になっても二三日会わなければ気のせいだったと気付く。そんな浅薄な関係しか築けなかった。男ともう二度と会わないこととは違う次元で、別れは幾たびもあった。他人に対する関心がもはやないのであろう。

「温めますか?」
「お願いします」
 弁当を温める間会計を済ます。金を出す、釣りをもらう、金を零す、という一連の流れの中で悪いのは俺以外にないのだけれど、店員は「失礼しました!」と慌てたように声を跳ねさせカウンターから飛び出してきて俺の落とした金を拾う。
「あ、すみません……いいんで」
「あった! 五百円!」
「あ、すみません」
「十円と、十円と一円」
「あ……」
「他大丈夫っすか?」
「はい大丈夫ですありがとうございました」
「ホントすみませんでした」
「いいんで」
 弁当が温まる。「すぐ用意しますんで」と店員はいそいそとカウンターへ戻って弁当を袋へ詰める。手際がいい。名札には“はしもと”隣に若い青年の顔写真がある。清潔そうな表情をしている。
「おまたせしました」
 目の前ににっこり笑う顔がある。写真と髪型が違う。
「ありがとう」
 久し振りに人の顔を見た気がする。

 翌日同じ時間にはしもとはいなかった。その翌日もだ。弁当を温めてもらっている間、壁に貼られているポスターを眺め、今日もいなかったと昨日も考えていたなと考えてはしもとを探している自分に気付く。今日もしいたとして、別に話すことなんかないというのに。レンジが鳴る。お待たせいたしましたと弁当を渡される。
「ありがとう」
 上の空に呟いて弁当を受け取り家へ帰る。
 晴れの日、紅梅と白梅のモザイクで青空は彩られる。ベビーカーを押す若い母親は時折我が子を覗き込む。微笑みあう。平和の体現のようだ。梅花咲き散る安寧の都に母子は平安をどうたらこうたら。知らん。他人の世界だ。端から俺のいる場所じゃない。
 弁当食って寝て起きたらまた寝て起きたら弁当食って寝て起きてまた寝て時々食うのも寝るのも億劫で横たわって天井を眺めている。生き死体養成講座でも始めてみようか。誰も来ねぇよ。
「疲れた」
 声に出しても実感は伴わなかった。

 数日後夜、室内に飲食物が絶えたので家を出る。春めいてきた昼間に比べて夜はまだ寒さが堪える。数年前に買った厚手のジャンバーを羽織る。フードの周りについたフェイクファーが頬にあたって痒い。息が白い。吐き出したら吐き出した分だけ白く現れるのが面白いような気になって何度も吐き出す。夜の中で白いもやは際立ってすぐに消えた。
 皓々と光を放つコンビニエンスストアの前で自転車をとめている若者に目が留まる。もしかして、と思ってその顔を覗きこむ。と、若者は怪訝そうな目を向けてなんですか? と問う。
「もしかして、はしもと君?」
「はぁ……、そうっすけど、なんすか」
 本人だった。しかし、なにと言われてもなんでもないと答えるしかあるまい。特に話すことなどない。
「いや、なんでもない」
「……あの、もしかしてこの前弁当買いに来てませんでした?」
「来た」
「ああ、ですよね。あの時は失礼しました」
「えっ、なにが?」
「えっ! 分かんないとりあえず謝っとこうと思って」
 笑うと、はしもと君も気まずそうに笑った。普通の子だな、と俺ははしもと君への好感を感じていた。
「ちょっと話してみたかっただけ」
「えっ、なんで?」
「えっ! 分かんないなんでだろう」
 今度ははしもと君から笑った。困惑の残る笑いだった。
「はしもと君さ、バイトしない?」
「バイト?」
「ここの時給いくら? 十倍出すよ」
「……それ、絶対やばいバイトじゃないっすか」
「そう? おじいちゃんの話し相手になってよ」
 戸惑うはしもとに上り時間を訊く。深夜零時だという。
「終わったらファミレスでも行こうよ」
「いや、俺、なんていうか」
「時間大丈夫? 嫌だったらその時言ってくれたらいいし」
「あっ!」
 バイトの時間が迫っていたのかはしもとは慌てたように会釈して店に入る。俺も続いて入り、飲み物だけ買って帰る。
 帰り道は妙に落ち着かなかった。自分がどんな顔をしているのかも分からなかった。頬が痒い。触れると、冷えた指先を溶かすほど熱ばんでいた。人と話すのが久し振りだったからか。それにしたって熱い。恥ずかしい。午前零時にもう二度と会わないことが決まるかもしれないのに。本日快晴夜空に星が一つ、二つ。少しくらい未来に期待したって罰はあたらないだろう。

 帰宅して早々シャワーを浴びて時間を気にして買った水を飲みながら時間を気にして時計を見ながら歯を磨く。俺はこんな人間だったろうか。恐らく自分より年下の青年に対して、気負いすぎている。自覚はある。なのに鏡を見ながら髪の毛どうしよう、などと考えている。そういうんじゃないのに。ただもう一度会うだけなのに。今まで経験した中で一番くらいに自分の身なりが気にかかる。何年ぶりかにまじまじ見た己の相貌は経った年月の分だけ衰えていた。通用しねぇな。浮かんだ言葉はすんなりと身に馴染んだ。
 二十三時四十五分家を出る。頭を冷やす必要があった。住宅街を右往左往、意味もなく角を曲がって行って戻ってぐるぐる回ってコンビニの前へ辿り着く。レジから見えない位置に寄りかかって息を吐く。吐息遊びもつまらない。夜空に星は一つ、二つ、目を凝らして三つ。十四歳の頃、プラネタリウムへ行った。背が伸びないようにお願いするといいよと男は言った。にせものの星に? 俺は苦笑いだけをした。大嫌いだったのだ。歳のわりに伸びない背丈も、男も、プラネタリウムも。自分にはそれしかないと分かっていたから。
 はしもとが店から出てくる。店内で楽しいことでもあったのか笑いの気配を残したままドアを押す。俺に気付いて驚いたような、気まずいような顔に変わる。
「ほんとに来たんすね」
 こういう時は、とりあえず笑っておけばどうにでもなろう、というあやふやな経験則のもと笑顔を作る。
「ごめんね。とりあえずどっか入ろうか」
「……正直、胡散臭いと思ってます」
「そうだね、信じなくていいよ」
「でも、本当にヤバイことじゃないんなら、割のいいバイトがあるんなら、興味はあります。今のとこだけじゃ正直キツイし、条件次第なんですけど」
「苦学生?」
「別にそんなんじゃないけど、……そんなもんです」
 自転車を押すはしもとの隣を歩く。はしもとは頑なにこちらを見ない。
「条件はそっちに合わせるよ。時給コンビニの十倍でも百倍でも好きなだけやるよ」
「……だから、それ絶対変ですよね」
「別にずっと続くわけじゃないし、短期バイトだと思えばいいじゃん」
「どんな仕事なんですか?」
「だから、話し相手」
「おじいちゃんの? どこの爺さんですか? 富豪?」
「いや、オレオレ」
「な」
 と言って俺を顧みたはしもとの顔は呆れてんだか困ってんだか知らんが顔を顰めていた。俺は「な」の続きを待つ。促してみる。
「な?」
「なんすか……それ」
「なんだろうね、……なんだろう?」
「からかわないでください」
「からかってないよ」
「意味が分からない」
「分かって欲しいなぁ」
 なんて、別に思ってもないけど。血の絆があったって、歳月の絆があったって、分かり合うことなど不可能だ。分からないから知りたくて、信じたくて、優しくしたいと思うのだ。はしもとの健全な笑い顔をもっと見ていたいというそれだけのことだ。通じねぇな。分かり合えないから安心する。なんて、言ったところでなんにもならぬ。
 窓からオレンジ色の光を放つファミレスが目前に迫ってきて、俺たちは意味もなく口ごもった。はしもとが自転車をとめるのを待って、ドアに手をかける。
 二名で、と言ったところではしもとを振り返る。どっちでもいいですと言ったので喫煙席を頼んだ。店内にはちらほら人があった。
「話ったって、なにを話すんですか」
「まぁ、なんでもいいんだけど。……とりあえずなんか頼んだら?」
「俺普通に腹減ってるんで食いますよ」
「なんでもお食べよ」
「っていうか、まだ名前訊いてなかったんですけど」
「ああ、俺? 俺ね、須藤?」
「俺に訊かんでくださいよ。須藤さん」
「うん、須藤です。あんま名乗らんから忘れてた」
「なんすか、それ」
「なんだろう」
「……、須藤さんは頼まないんですか」
「えーどうしよう、なんかジュースとか飲みたいなー」
「……ドリンクバーありますよ」
「ねー、なんでもいいんだけどさ。煙草吸っていい?」
「どうぞ」
 はしもとは店員を呼びハンバーグめいたものを頼んでいる。煙草に火を点ける。手が震えていた。気付かれないように頬杖をついて窓の外を眺める。ドリンクバーのグラスの案内に向き直るとはしもとは何を飲みたいか訊いてきた。
「メロンソーダかジンジャーエル」
「優先順位は?」
「メロンソーダ」
 席を立つはしもとの背を見送って、煙草の煙を深く吸い込む。吐き出す。居心地が悪い。けれど、はしもとはもっと感じていることだろう。じゃあ俺が頑張らないと。なにを? 知らねぇけど。目を伏せる。開く。目の端が引き攣るような感じがあった。グラスを二つ持ったはしもとが戻ってくる。ニッコリする。はしもとは戸惑うように苦笑した。だからもう通じねぇんだよこういうの。知ってる。けど、愛想笑いも媚も身に染み付いている。今更変わらない。仕方ないね。仕方ない、なんて便利な言葉は使うだけ性根が腐っていくようだ。
「お話してよ、はしもと君」
「話って言ったって、なに話しますかね」
「面白い話してよ」
「最悪なんですけど、そのフリ。……面白い話? 別にないんすけど」
「つまんない話でもいいよ」
「困ったな」
「学校の話してよ」
「学校? 別に普通なんすけど」
「いいよ」
 困ったな、とはしもとはもう一度呟いてぽつりぽつりと話し出す。大学で何を勉強しているか、変な喋り方の教授がいる、合コンでの身の処し方、高校時代に付き合っていた彼女と別れたこと、今まで経験したバイト、変な客が一杯いる、須藤さんもその一人ですよ、合間合間に笑ったり、眉を顰めたりする。配膳されたハンバーグ膳を食べながらはしもとは次になにを話すか考えているようだった。
「俺的に須藤さんの話の方が聞いてみたいんですけど」
「俺? ないよ面白い話とか」
「俺だってないっすよ」
「そう? 面白いよ」
「俺この間初めて昼間入ったんすよ、人が急に足りなくなったっていって」
「コンビニ?」
「そう。そんで、パートさんがミステリアスなイケメンが来るって言ってて」
「ほう」
「須藤さんのことですよ」
「あ、俺? そうなんだ」
「したらホントに来るし、この人かーって思ったらなんかこんなことになってるし、ミステリアスっていうか謎そのものっていうか不思議っていうか」
「不思議おじさん」
「なに言ってんすか、そんな歳でもないっしょ」
「俺いくつだっけ?」
「いや知らんし、訊かんでください」
「えっとね、……ああ、そんな歳でもねぇか」
「いくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「いや知らんし」
「一日が長いんだよな、なんもしてねぇから。三百年くらい生きた気がする」
「今無職っすか」
「今っていうかずっと無職だよ」
「益々分かんないんですけど」
「不思議おにいさん?」
「いや、もうなんでもいいけど」
「あんま話すの恥ずかしいからさ、そのうちね」
 永遠にないだろうそのうちを約束する。同じくらい軽薄に恥を晒してしまえばいいのに、俺ははしもとに軽蔑も同情もされたくなかった。空いた皿を下げにウエイターが寄ってくる。なんとなくの無言地帯に壁に目を逸らす。時計の針はもうすぐ一時を指そうとしていた。
「明日学校あるの?」
「はあ、二限からなんすけど」
「一限は出なくていいの?」
「講義ないんで」
「へー」
「別に興味ないって感じですか」
「いや、俺大学のシステムがよく分かってないから」
「学校によって違ったりするんじゃないっすか? ホームルームあるとこもあるとか」
「へー、益々分かんねぇな」
「須藤さんって変わってるって言われません?」
「言われません」
「そうっすか? なんかすっげぇ変な人だと思うけど」
「変なおじさん?」
「言うと思った」
 笑って、メロンソーダを飲んで、しょうもない話をして、笑って、こんなに笑ったのはいつぶりだったかと考えてみたら少しも思い出せなくて笑って、自嘲だと気付かずはしもとは釣られて笑って、なに笑ってんだよと思ったらなんだか自分の大袈裟な苦悩なんか全部バカらしいように思えて、楽しいとか幸せとかこんな感じなのかと頭の片隅で考えていたら突然居た堪れないくらい恥ずかしくなって、目を擦るふりをして、目が痒いようなふりをして、変な顔を悟られないよう俯いた。
「そろそろ出ようか」
 時刻は一時半になっていた。これから帰宅して風呂に入ったりするのかと思うと奪ってしまった一時間半の重さを感じた。上着を羽織り帰り支度を始めるはしもとの前に札入れから出した二万を差し出す。はしもとは困った顔をしている。
「マジだったんすか、あの話」
「うん」
「いいっすよ、俺も楽しかったんで」
「うん、でもバイトじゃなかったら来なかったでしょ」
「どうかな、結構好奇心旺盛な方なんでバイトじゃなくても来てたかも」
「本当に? うん、でも貰ってよ」
「いいっすよ、……てかなんで一時間半で二万なんすか計算が間違ってますよ」
「え? 四捨五入? 分かんないキリがよかったから」
「四捨五入? 一万でも多いくらいでしょ」
「算数分かんねぇんだよな、いいよ、いらなかったら置いてけば」
「なに言ってんすか」
 まどろっこしい話から逃げるべく伝票を持ってレジへ向かう。批難を伴ってはしもとがついてくる。口元に人差し指を置いて沈黙を促せば不承不承口を噤み、先に外へ出ていると一言置いてドアを押した。
 支払いを済ませて店を出るとはしもとは自転車を片手で押さえポケットから二万を取り出し差し出してくる。どうしたものかと先ほどレジで貰ったスタンプラリーカードを同じように差し出してみる。
「だっから、わけ分かんねぇって」
「スタンプ貯めるとコップもらえるんだって」
「いやどうでもいい」
「いらない? カード」
「はいはい貰います貰います」
 はしもとはスタンプラリーカードも金もポケットに突っ込んで今回だけですよと強く言った。今回だけ、ということは次回もあるのだろうか、それとも今回限りで最後ということだろうか。仕事と割り切って金を受け取ってもらえたらこちらも仕事として次も誘えるんだけどな、訊いてみようかどうしようか。
「今回……」
 だけってことはさ、それはつまりどういうことなのか、上手く言葉にする前にはしもとは答えてしまう。
「金払うってんならもう会いません」
「えーっと、じゃあ」
「普通に暇ならいつでも話し相手? なるんで、メールしてください」
「なんで?」
「なんでとか言う? 自分で考えろよ」
「あ、すみませんでした」
 はしもとに促されて携帯を取り出す。赤外線通信を、という話になるがやったことがないのでそのまま携帯を渡す。
「須藤さん箱入りかなんかですか」
「携帯あんまり使わないんだよ」
「っていうかメアドなくないっすか」
「メールしたことないんだけどさ」
「嘘だろ、今時じいさんでも達者に使ってるって」
 設定からしないとダメですよ、と携帯を差し出されるが自分に設定が出来るとも思えない。曖昧に笑っているとはしもとは笑う。
「ほんと、めんどくせぇな」
 笑い方違うんじゃないか? 思うけれど、怒ってないようなので俺も笑う。
「須藤さん好きな言葉なに? 好きなものでもいいけど」
「えっ、なんで」
「アドレス作るんでしょ」
「ああ、そっか、そうだな、なんだろ? か、らあげ弁当?」
「本気で?」
「うん……好きなんだけど、違うか」
「長くね?」
「えーとね、ああ! はしもと君のこと好きだよ」
「恥ずかしいこと言わない、他」
「いいじゃん、はしもとで」
「俺のアドレスみたいじゃないっすか」
「どうせはしもと君としかメールしないし」
「ダメ却下恥ずかしいことしません」
「じゃあはしもと君決めてよ、なんかカッコイイの」
「手がかかる大人だな」
 はしもとに携帯を任せて俺は自転車を押す。はしもとは携帯に向かい合ってすごい速さでボタンを押している。吐息が白くもや立った。夜空は暗い。本物の星は光が弱い。地上が明るすぎるせいだという。町の明かりに、人の光に負けてしまうのか、星の輝きは。
「はい、できた」
「ありがとう」
 携帯を受け取りニッコリ笑う。はしもとは困ったように「気に入らなかったら変えてよ」と言った。気に入らないわけがない。誰もいない世界で見つけたたった一人の君が俺のために考えてくれたんだから。なんつって。言わんけど。何万光年も遠い先で燃え尽きた星の光が今生きている人間の光に負けてしまうなんて、当たり前のことなのかもしれない。
 光を放つコンビニエンスストアの前で止まる。ここが別れ時なのだろう。
「はしもと君明日もコンビニ?」
「うす、今日と同じ時間」
 さようなら? 言いたくないななんとなく。
「じゃあ買い物しにこようかな」
「なんか恥ずかしいな」
 もっとなにか、もっと上手い言葉はないか。ないか。どうしようか。
「メールしていい?」
「どうぞ」
 笑うと、はしもとも笑った。なんだ。なんか、笑っちゃうくらい簡単なことなのかもしれない。
「じゃあね」
「はい、それじゃ」
 はしもとは自転車に乗って元来た道を戻っていった。わざわざここまでついてきてくれたのか。変だな動悸が治まらない。好奇心? なんだっていいよ傷ついたっていいよ。厭きたっていいし裏切られたっていい。ああ、でも、嫌われたくはないな。そんな風に思うのは何年ぶりだろう。初めてかもしれない。思い出せないな。民家の庭から垣を超えて赤と白の梅の花が零れている。背中が熱い。音もなく町中に春が来る。生まれてきてよかった。なんて、都合よすぎるか。 でもだけどだって明日が楽しみなんだから構いやしないか。一個くしゃみしてアパートへ帰る。



(10.1.20)
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