HOPE



「おまえが死んだら俺は泣くだろうか」
「さあ、どうだろうね。死んでみようか?」
「死なれたら困る」
「そうかい」
「どうだろう」
「酷いな」
「おまえが死んでも悲しくないんじゃないかとも思うのだよ」
「それは悲しいね」
「悲しいか」
「悲しいよ」
 言ったらポカンと口を開け、そのまま伏せるように視線を下方へ落としてしまう。十秒。二十秒。三十秒。経っても俯いたままである。テーブルに置いた煙草を掴み一本取り出す。口に咥え先を火で炙る。一つ吸いつけて、一つ吐き出す。煙の塊は天井へ向かって渦を巻く。
「疲れた」
「そうか」
 一つ溜息をつき、俺が先ほどしたのと同じ手順で煙草に火を点ける。ライターは三度空回った。
 狭い部屋は煙っていた。

 こんなはずじゃなかった、と男は言った。俺はとりあえず笑うことをした。感情の整理がつかず、口の端を上げたにすぎない。俺はどうしたらいいのか分からず、男の望むようにしようと顔色を窺ったが、その色には失望しか映っていなかった。仕方ないのだと思った。
 また別の男は言った。こんなはずじゃなかった。何が間違っていたのか、何が希望と違ったのか、俺はやはり笑いながら、迷いながら問うた。恐ろしかった。同じ言葉が、同じ顔で放たれるのだから原因は俺以外になく、自分自身でさえ己の正しさを疑っている俺が、きっと無意識的に何かしくじったのであろうと思われた。曰く、思っていたのと違った。何が? すべて。
 三度目は笑いもしなかった。こんなはずじゃなかった。ああそう。おしまい。

 蛍光灯の光を受けて紫煙は虹色に渦を巻く。
「おまえは俺が死んでも泣かんだろうね」
「どうだろう、泣いてほしいかね」
「泣いてほしいと言ったら泣いてくれるのか」
「それくらいはしてやれるよ」
「お芝居はいらんよ」
 灰皿の中では俺たちが捨てた希望と平和が絡まりあっている。フィルターを溶かす化学的なにおいが鼻をついた。
「こんなはずじゃなかった」
「そうかい」
 水割りに浮かんだ氷を一掴み取り出して灰皿へ放り込む。じっと小さな音を立てて不完全燃焼は消えた。
「俺はおまえのことなんか本当は嫌いだし、今だっていけ好かない野郎だと思っている」
「酷いな」
「なに笑ってやがる。そうやってヘラヘラ笑って俺はなんだって余裕傷つかないみたいな顔が嫌いなんだよ。心がない」
「俺のことが好きって話かね」
「嫌いだよ。おまえが俺を好きだというから好きになっても良いかと思ったのだ。俺は本当はおまえのことが嫌いだし、今でもいけ好かないと思っている。だが好きだというなら悪い気はしない。おまえは顔も良いし、それなりに優しくもある。だから好きになろうと思った」
 けど、と言葉を打ち切って水割りを一口呷る。一つ溜息をつく。壁を見ながら彼は言う。
「おまえ俺のこと好きじゃねぇだろ」
 そうかもしれないと俺は思った。他人事のように、頭の端から肯定が出た。彼に限らず、俺は誰も好きではなかったかもしれない。それについては薄々自覚があったのだ。ただ、認めたくはなかった。誰にも興味がない、といえるほど俺は俺自身にも興味がないし、好きでもない。心がないと認められるほど強くもない。求められるのは泰然自若と揺らがない、そこそこいい顔をし、そこそこ優しく、そこそこ面白い、傷つかず傷つけず心ない俺ではなかったのか。こんなはずじゃなかった。ならばどうしたら良かったのだろうか。目頭が痒い。擦ったら指先は涙に濡れていた。目の前で彼は困ったように瞳孔を揺らしている。冗談めかして笑おうか。無理そうだ。俺は混乱している。見失っている。正しさを。正しさは、一体なにに依ればいいのだ。
 彼は希望に火を灯す。言葉はなかった。
「恰好悪いな」
「悪かないよ」
 笑うと、彼もかすかに笑った。
「好きになってもいいだろうか」
 彼は笑ったまま掠れた声でいいよと答えた。HOPEの鏃は俺に向かっている。



(10.2.26)
置場