散るらん



 暫時待て、と明夫は言った。風の強い日で、桜吹雪という言葉を実感として知った日であった。俺はぬかるんだ脳の狭間に明夫の顔を見たはずだった。笑っていたのか怒っていたのか、はたまた悲しんでいたのか無表情であったのか、その瞬間から今までずっと思い出せずにいる。
 十年。気付けば過ぎていた時間を思う。十年。俺は午睡のように覚束ない頭で生きてきたのだ。嘘ばかりを言う明夫のただ一言を信じて。

 春の日。俺は明夫の内縁の妻だという女を知った。俺の元を去って数年後のことだった。女は懐に赤子を抱いて、あの人の居場所を知りませんかと問うた。公園のベンチに隣り合って座り、赤ん坊は時折意味のない声を上げ、女はよしよしと慈しみぶかい態度で我が子をあやしている。俺は隣に座って他人のようにぼんやりしていた。周りから家族だと思われているのだろうかと寝惚けたことを考えた。膨らみ始めた桜のつぼみに木々の枝先は白んでいた。日差しの中で、俺は肉体と離れていく精神を自覚していた。俺の隣にいるのは女でないはずで、女の隣にいるのも俺ではないはずなのだ。バラバラ。チグハグ。噛み合わない現実の違和感に俺はぼんやりしている。両腿に肘をおいて他人の素振りを試みる。飲み込めないのだ。明夫の世界に女も、赤子も、存在する現実を。
 信じて待ち続けた俺は一体、どれほど愚かだったのだろう。温い日差しを後頭部に浴びながら、そう思った。
 一体俺は……、一体俺は……、言葉が出ない。感情の整理がつかない。一体俺は、明夫に裏切られたとでも思っているのだろうか。俺になにも真実を与えはしなかった明夫に対し、どんな言葉を用いて裏切られたなどと言えるだろう。一体俺は、何故こんなにも傷付いているのだろう。傷付いている、という言葉すら飲み込めない。傷付いているのか俺は。明夫の心に俺がいないことか。いたとして些事に過ぎぬという現実にか。
 寝惚けたような風が頬を撫でていく。赤ん坊は泣きぐずっている。母親の腕の中で暴れ、一瞬目を向けた俺に取り縋った。小さな手で俺の服を掴んでいる。
「すみません」
 と女は言った。思ってもいないような口ぶりだった。俺が赤ん坊を振り落とすとも思わないような、人間の善性を信じきった口調だった。赤ん坊はきょとんとしている。明夫に似た面差しはあるか。脳内に像を結ばない。俺は明夫の顔を思い出せないでいる。女と目が合った。俺は微笑んでいた。
 湿度を持った眼差しのやりとりで俺と女は明夫を裏切った。
 半年ほど関係は続いた。女が明夫を忘れ、未来について語り始めたので俺はなにもかも煩わしく感じた。始まるのと同じだけ終わるのもあっけなかった。

 俺は明夫を待っている。

 十年待って、二十年待って、その挙句明夫が現れたとして、ほしかった言葉をくれたとして、俺は明夫を許せるだろうか。思い出せるだろうか。同じだけ愛せるだろうか。明夫が俺の元へ帰ってきたら、あの女はどうする。明夫があの女の元へ帰ったとして、俺はどうする。許せるだろうか。不義を告発するか。明夫を一人きりにするか。
 端からあいつの世界に他人はいない。俺もいない。女もいない。子供も、他の無数の知らない人間だっていない。だからだ。だから、俺は明夫を待っている。世界の終わりまであいつを信じ続けることができるのはきっと俺くらいのものだと思う。生活も、幸せも、苦痛も、快楽も、俺は求めていないのだ。明夫が待てと言った。ならば俺は犬のように待つだけだ。

 十数年転居しないままの安アパートからは桜が見える。俺はそれを見ないためにカーテンを買った。春先は閉めきり、半眼で町へ出る。感傷を散らす花は嫌いだ。俺の鬱陶しさを全部背負ってしまったみたいに散る。散る。散る。散華。夏になればどうにでもなる。秋になればどうにでもなる。冬になればどうにでもなる。春だけがいけない。春だけがどうにもならない。思い出してしまう。明夫のてのひら。無骨な手指。身体に触れてほしかった。俺は清潔な人間でいたい。なのに思い出してしまう。明夫は俺の獣性を呼ぶ。薄い唇を歪めて笑った。待てと言った。俺は待つ。欲望のために。待ち続けておまえが全部手に入るなら俺は何年だって待つ。なにもかも失った。幸福の権利を放棄した。ただ一人おまえが手に入るなら俺は他になにもいらない。

 俺の元に留まり続ける明夫は最早俺の心を乱す男ではないことも充分に気付いている。

 春の日差しの中で息を止める。風が吹いている苦しいほど。帯状の時間の上、俺はどこにいる。雪のように花弁が散っている。視界が悪い。まぶたを伏せる。開く。まぼろし。まぼろし。俺の時計を進めるのは止めてくれ。おまえは昼日中に現れる情緒のないおばけだろうか。名を呼ぶ。俺の名だ。乾いた薄い唇で。踵を返す。早足で、アパートへ逃げ込む。これは夢だすぐ覚める妄想はいけない俺の頭はまだまともだそうだろうか? そうだろうか? 疑わしい。明夫が帰ってきた。まぼろしではないのか。あいつは今も生きてあるのだろうか。それすら疑わしい。しかし妄想でなく、まぼろしでなく、真実明夫が帰ってきたのなら俺は受け入れなければならない。止まったままの十年間も、俺の記憶の外にいる明夫自身も。扉を開ける。明夫に俺はなんと言おう。おかえり? 言うようなことだろうか。明夫はただ待てと言っただけだ。そして俺はただ待っただけだ。俺の心のために。俺たちはそれぞれ自分勝手に、相手に期待をしただけだ。それぞれの心のために。
 九十度の角度で開けた扉の先に明夫はいない。桜の花弁がひとつふたつ空中で揺れ落ちた。眉間のあたりに力が籠る。口元は弛緩。笑っていた。なんで笑っているのだろう。思いながら、俺は笑っていた。身体から力が抜ける。春の風が頬を撫でる。扉を閉める。玄関先に吹き込んできた花弁が靴の狭間に着地した。それを確認して、座り込んで、頭を抱えて一笑。
 俺は明夫を待っている。生活も幸福も未来も捨てて、人生のレールを踏み外しても構わず信じている。生きているのかも分からない、顔も忘れた男のことを。きっと明夫は帰ってこない。知ったことか。俺の頭はどんどん狂う。知ったことか。俺は俺で放棄した。全部。俺の望みで捨てたのだ。正しさ。正常。そんなものは誰が決める。俺は俺の正しさを生きる。心の中に空いたピースはおまえと同じ形をしている。はめて完全を取り戻せる。欺瞞だろうさ。知っているけど。毎年毎年馬鹿みたいに春が来やる。欺瞞だろうが誤魔化しだろうが心におまえが入る余地が残っていることを知って俺は少しだけ安心をする。
 花の散るらん。毎年毎年馬鹿みたいに散らかして、知らぬ存ぜぬ散り散りに撒かる。俺は心の形を思い出し素知らぬ顔して継続する。暫時待てと明夫は言った。おまえに掛かれば永遠だって須臾なるかな。馬鹿馬鹿しい。うたた寝る。



(10.4.18)
置場