★★★★★★★



 真面目であるということはいけないことなのだろうか。あいつは融通が利かない、彼って面白くない、冗談が通じない……、ニヤニヤ遠巻きに眺めながらなにを言われたって構いはしない。俺自身、彼らをバカにする気持ちがあるのだから同じことだと思う。交わらないだけだ。
 警察官という仕事が自分に向いているのか、というとそれはないように思う。警官になってからというもの俺が殺意を抱かなかった日なんかないのだから。
 毎日毎日はしゃいだ子供やはしゃいだ大人をいなし、正しさを揶揄され、なにも思わないような顔をして実際なにも思っていない。職務中は制服にだけ意味があり、俺の人格は消されるように思う。警邏中は特にそうだ。俺は俺を忘れる。俺の正義を忘れる。ルール通り効率的に時間を消費していくだけだ。
「どうも調子がよくねぇな」
「腹ですか」
「おお。薬持ってるか?」
「ありませんよ」
 だよなぁと弱りきった声を上げて安東は腹をさすった。交番を出るときからずっと言っていたのだ。
「切り上げますか?」
「いや……、ちょっと便所行ってくるわ。なんかあったらすぐ呼べよ」
 そう言って安東は公園の便所へ走っていった。
 思えば何故そこでじっとしていなかったのか。警邏を一人で行わないのにはいくつか理由がある。その一つがトラブルを回避するためだ。よくよく分かっていたはずなのに、俺は自らトラブルを起こしていた。
 最初人だとは思わなかった。ゴミの塊だと思って遠目に眺め、人らしいと気付いた時には死んでたら嫌だなと思った。路傍に行き倒れていた男は酒気帯びて眠っていた。ふざけやがって。このままスリに遭うなり死ぬなりするがいいと思った。
 とはいえ警官が見殺しにしたなどと言われても厄介だ。起こす。
「おい、……おい起きろ、おい……」
 身じろいでまぶたを震わし男は薄く目を開ける。シラフの目付きだと思えた。
「こんな所で寝るな。最近物騒なんだから」
 男は上体だけ起き上がり、地べたに座ったまますみませんとバカのような声を上げた。
「お巡りさんさー、俺ねー、俺今酔ってるんだぁ」
「ああ? しっかりしろ、帰れるか」
「酔ってるからさー、全部忘れちゃうの」
「おい、いいかげんにしろ」
「なんか、悪いことしちゃうかも」
「ふざけるのもいいかげんにしろ」
「一緒にしませんか、悪いこと」
 とろけたまなこで言う。起こした時は酔っていないと確信したはずなのに疑わしくなってくる。馬鹿にされているのだろうか。自分だけが世界中で一番哀れだとでも思っているのだろうか。万能感に酔っているのだろうか。殺してやる。そう思った。男の胸倉を掴み引き上げる。男はぐぅと喉を鳴らした。
「なにがしたい?」

 路地裏で俺は男の喉にペニスを突き立てている。何故か。男の唇が濡れて性器に見えたから。という俺自身理解できない理由で喉の奥に擦り付けている。男は涙目で自慰をしている。息が上手くできないのか魚のように喘いでいる。時折吐き気が込み上げるのか何度も喉が痙攣した。いい気味だと思った。無様に洟を垂れて顔面はぐちゃぐちゃだ。
「おい、吸えよ」
 聞いているのかいないのか、一瞬吸い付いてすぐに止める。空気を吸うために開いた喉を抉る。卑猥に引き攣っている。ざまぁみろ。痙攣した喉に搾られて精を吐く。男は顔を赤くして噎せた。噛まれたくないと引き抜いたペニスに男は舌を出す。馬鹿じゃないのか色狂い。馬鹿にしてた公僕のちんぽ欲しがってんのかこいつは。随分立派な事だ。
 目の前でペニスを扱くと男はうっとりと目を細めた。こういう遊びなのか。これが遊びなのか。面白いのか。分からない。だが俺は楽しんでいるのだろう。腹の底から笑いが込み上げてくる。
「欲しいか?」
「はめてください」
 壁に手をつきケツを割り開きながら男は言った。大声で笑い出したい気分だった。立ったままの男を背後から犯す。入らないものを無理矢理入れると男は息を詰めて震えていた。痛いほど締め付けられたが構わず刺した。痛みよりもっと相手を傷付けている実感があったから。ほんの少し引き抜いたペニスは血液に汚れていた。
 腰を遣えば豚は鳴く。ぬめりを増したアナルに己がペニスを擦りつけると豚は荒い息を吐き涎を垂らしていた。これは最早人ではない。精を吐くと豚は貪婪な眼差しをこちらに向けてもっとくださいと言う。俺は豚を征服するために腰を遣う。もっと。もっと。うるせぇ。しつけぇ。ペニスを引き抜き路上へ引き倒すと豚はビルディングが崩壊するみたいにぐしゃりと路上へ倒れた。勃起したペニスから精を零しながら、豚はなすがままになった。果てしない空虚感が襲ってくる。俺はなにをしているのか。男の尻は精や血糊で汚れている。男は倒れたまま自らペニスを扱いていた。一体なんなんだこれは。なにが起こっているのだ。俺はなにをしているのか。男はか細く甘えた息を漏らし吐精した。
 虚無だとか虚空だとかがらんどうの男の眼差しが俺は恐ろしかった。一体なにに巻き込まれているのか。こいつを征服しつくすことは間違いではないはずだ。狂っている。男か、俺か。知ったことか。男の腰を高く引き上げケツを打つ。男は喜悦に濡れた息を吐く。なんなんだ。なんなんだこれは。てのひらが痛むほど、俺は何度も打ちつけた。殺してやる、死ねばいい。ずっと思っているはずなのに、俺は男のむなしさに取り込まれていくようで恐ろしい。もっと。もっと。ぶち壊せるか。もっと。もっと。速い速度で逃げなければ。追いつかれる。気違い豚に取り込まれる。もっと強く速く。
「ははっ……」
 振り上げた腕を振り落とすことができなかった。一瞬理解ができなかった。笑い声。それも豚じみた男の口腔から発せられた笑いであると理解した瞬間に身体中の血液が冷えていくのを感じた。時が止まるのを感じた。笑うのか。まだ。思考より先に手が出た。胸倉を掴み強く頬を張ると男の身体は殴った方向へ揺れた。
「いいかげんにしろ」
 こんなことに付き合わされて、こんな狂気に付き合わされて俺は疲れを覚えていた。呼吸を整えるのにしばらく時間がかかった。それは俺を取り戻すのと同じことだった。男は中空を眺めながらボンヤリとしている。表情も変えず、目から涙を零す。すると溢れ出た涙に驚くようにまぶたを数度瞬かせた。
 人間なのかもしれない。そう思った。正気なのかもしれない。ずっと。
「帰れるか?」
 問うと、男は困ったように曖昧に笑った。初めて男の人間らしい表情を見た気がした。目を伏せるように下方を見詰めたまま黙っている。人間の自嘲だと思えた。
 薄汚れた路地裏に温く風が渡る。明日は雨だろうか。

 男を連れ交番へ戻ると、安東他数名から叱責を受けた。それはそうだろう。
「なにしてたんだ今まで」
「ちょっと腹の具合が……」
「なんだお前もか。それにしたって連絡ぐらいしろ。無線どうした?」
「すみません」
 謝り続けていると今回だけだからな、と言って矛先は収められた。日頃の行いのおかげだろうか。それにしたって今回で無に帰したわけだけれど。
「そっちは? 喧嘩?」
 安東は俺の後ろでじっとしたままの男に目を向ける。
「知り合いなんですけど、帰れないそうなんで……。上がる時に連れて帰るんでそれまで置いといてもらえませんか」
「まぁいいけど。連絡しろよ喧嘩なら」
「いや……、終わった後だったんで」
 男はおとなしくしている。俺の嘘をどんな思いで聞いているのか、それすらも窺えないほどじっとしている。虚脱したように、けれどぎこちなく歩く姿は罪悪感を煽った。
 男は正気で俺を挑発していたのだろうと、最早確信していた。破れかぶれの挑発は俺を馬鹿にしたからではなく、ただ己が傷付くためのそれだった。酷い話だと思う。男が哀れだとも。
 自宅へ連れ帰る途中も男は静かだった。お互いを結ぶのは後悔の糸だけであるように思えた。身体の調子を問うても男は小さな声で大丈夫と答えるだけだった。なにも考えていない、口先だけの言葉だと分かっていたが俺は頷くだけをした。
 シャワーから上がった男は身奇麗になったせいか、それとも背広を脱いだせいか幼く見えた。濡らしたタオルを渡すと両手に持ったまま戸惑うように瞳が揺れた。頬、と促すと男は素直に腫れた頬にタオルをあてた。
 タオルに顔を半分埋めたまま、男はほうと息を吐いた。次第に表情が和らいでいくのを見ていた。こんな顔もできるのか、とポカンと馬鹿のように眺めていた。この顔は他にどんな表情を作るのだろうか。男の瞳がちらりとこちらへ向けられる。息が詰まるほど、身が急くのを感じた。
「これからどうする」
 問うと、男は不安げに瞳を揺らす。また表情を壊さず男は涙を流した。流れてしまうのだろう。意識のない涙だった。背を撫ぜると男の身体はわずかに強張った。それはそうだろう。俺は随分酷いことをした。男の顔に表情が溢れてくる。悲しみか、恐れか、涙を流す人間にふさわしい表情だった。
「頑張る」
 震える声で男は言った。それは希望のようだった。祈りのようだった。男は頑張れないかもしれない。負けてしまうかもしれない。けれど今、頑張りたいという男の気持ちに嘘はないのだろう。小さな声で繰り返す。頑張るという言葉は俺にも刺さってくるようだった。俺たち大概まともじゃないけど、頑張りたい気持ちは本当なんだから、大丈夫に決まっている。なんて。言える俺でもないけれど、男の背を撫でる。
 八つ当たりみたいに身体を投げ出すことはない。闇雲に人を憎むこともない。俺の知らない誰かには誰かの事情があって、誰かは誰かなりに苦しんでいるのかもしれない。今目の前にいる男のことしか俺は知らないけれど。
 繰り返される言葉に頷いて、背を撫でて、俺は人生で初めて人間らしいことをしていると思った。男が泣くのもそうなのかもしれない。生まれたばかりかもしれない俺達の感情は夜更けに育まれていくのだろう。眠たくなるまでずっとそうしている。



(10.5.3)
置場