翩々シーソー/3



 物音に目を開く。あ、俺寝てたんだ。と驚くくらいには眠っていたのだろう。今何時か分からない。寝室の扉がゆっくり開かれる。隙間から窺うようにこちらを覗く高坂と目が合った。
「起こした?」
「いや」
「これ、貴重品と着替え……他にも用意させたから」
「おー、置いといて」
 言うと高坂はようやく室内に入ってくる。警戒されてんのか、俺が。逆だろ。通帳と印鑑をサイドボードの上に置く。着替えは受け取って枕元においておく。今すぐ着替えたいところではあるが高坂の目の前で着替えるのもデリカシーがなさすぎる気がする。
「他に必要なものあったらなんでも小林に言って」
 ベッドの横で棒立ちになっている高坂に座るよう布団を叩く。と、困った顔をする。気にしすぎだ。俺は枕に肘を突きてのひらに頭を乗せる。もう普通を装う。バスローブ姿だけど。
「あれ、携帯の充電器必要だったわ」
「うん、分かった。あとは?」
「なんか暇つぶしできるやつ」
「ゲームとか?」
「ゲームやんねぇんだよな、俺」
「普段なにしてんの?」
「パチとかスロとか……、でも外出れねぇんだろ」
「うん……、考えとく」
「あと料理の本」
「料理するの!」
「小林がな。したいんだと」
「ああ、なんだ。そうなんだ」
「俺もやった方がいい?」
「いや! そういうわけじゃない、から、あの、うん、好きなように……」
 するけど別に。こんな至れり尽くせりの王様ライフで好きなようにしないって選択肢がねぇよ。かといってやりたいこともないけども。
  黙ってしまうとお互いに気まずいような空気になって目を泳がせながら沈黙を深めてしまう。あーだとか、うーだとか意味のない息だけ吐き出して会話をしないきっかけを探している。ふと見た高坂の黒目がかすかに揺れた。男っぽい顔をしている。
「やだー、えっちな目ぇしてるー」
 胸元を押さえ言ってみる。冗談だ。クソどうでもいい。はいはい冗談で終わる話だ。けれど高坂は赤らめた顔を背けごめんと言う。
「冗談だよ」
「うん、……でも、ごめん」
 なるほど。本当にエロい目で見られていたのか。別にいいけど。高坂がなんかしてくるとも思えない。むしろなにかされた方がいいのだろうか。高坂のしどろもどろ感や過剰な好意は俺に対する夢や憧れ、性欲が十年近くの歳月を経て醗酵しているんだろう。案外セックスしてみたら目が覚めるかもしれない。俺になにもないって気付くかもしれない。枕に頭を乗せる。身体中を布団に預ける。天井を眺める。視界の隅に高坂の背中。高校時代のような線の細さは残っていない。
「やってみる?」
 驚いたように俺を見る。高坂はどこか悲しそうな顔をした。言わなきゃよかった。まぶたの上に手の甲を置いて、なんて、と誤魔化してみる。高坂の傷付いたような顔はなんか俺の心臓を痛くする。しばらく黙ったままだった。
「……じゃあ、また。なにかあったら小林に」
 そう言って高坂は腰を上げる。生返事を返しながら、俺は高坂がこの後愛人の誰かの家に行くのだろうと思った。セックスするんだろう。沈みすぎて重たい身体を起こす。俺はパンツを履く。
 線引きはされているのだ、明確に。胸のつかえの正体が分からない。俺も高坂に夢を見ているんだろうか。わだかまりを残したまま目を瞑る。簡易タイムマシンに乗ってこの気持ちを忘れられるくらいまで未来へ向かえ。せめて忘れたふりができるくらいまで。

 昼間に目が覚めた。寝室の外で人の気配が絶え間ないからだ。腹も減っていたので起きる。挨拶とかどうしよう。怖い人一杯いたら嫌だな。小林がいるだろうから平気か。
 リビングはパチンコ屋へと変貌を遂げる途中だった……。
「あ、おはようございます」
 小林が言う。それよりも先に言うことがあるんじゃないだろうか。リビングにパチンコとスロットの実機が二台ずつ、室内の高級感とかハイソ感をぶち壊して置かれている。
「おは……、あのさ、これは」
「あ、社長から。好きな機体訊いてなかったから適当に用意したけど希望があったらなんでも言ってってことでした」
「ああ……、そうなんだ」
 斜め上だ。パチ屋に行けないなら機体を。金持ちの発想なのだろうか。
「メシ用意しますね」
「ああ……」
 機体を搬入していた身体の大きな人達は作業を済ますと早々に部屋を出て行った。今は配線をしている一人だけだ。手招きをされたので素直に従う。と、機体の扱い方などのレクチャーを簡単にされた。上の空で聞く。彼はパチ屋の店長なのだそうだ。
「なんか、すごいっすね」
 半笑いで言う。俺もまったく同感だった。高坂よ、おまえは不器用な親父かなんかか。パチもスロも、別に嬉しいもんじゃない。高坂の斜め上な気遣いだけが胸に痛かった。
 飯を食い、致し方なしスロットのレバーを叩く。良かったら、と小林を誘うも何故か遠巻きにされる。勉強中でぇすとか言って料理本をアピールしてくる。俺も料理の勉強とかしようかな。辛い。
 それから三日、高坂が訪ねてくることはなかった。
 その間に小林はハンバーグとコロッケ、肉じゃがに挑戦しそこそこの戦果を残していた。俺は、といえばスロのレバーを叩き、パチのハンドルを捻り続ける三日であった。胡坐で、正座で、三角座りで、俺はリーチ演出を眺め続けた。楽しくはない。玉もコインも出てこない設定にされているのだから。たとえ出たとしてどうにもならんのだから面白さなど一ミリもない。出てくる玉なりコインなりがお金を出してまで欲しがる人がいる棒と交換できるからこそ休日あえてやるものだ。
 エラー音が鳴る。小林がやってきて機械の中身を見ている。たった数日のうちに俺は小林がパチ屋のにーちゃんに見えるようになってきた。もうダメだ。
「あ……、飽きた……」
「社長の気持ち汲んでくださいよ……、もうちょっとだけ遊んでやってください」
 新しい拷問だな、これは。脳が腐るのを感じる。とはいえこの単調な作業がなくなったらそれはそれで暇で死ぬるのは目に見えているのだ。ならばやるしかない。レバーを叩く。キュイイン! と音を発してスロットルしておる。目押しの精度を上げる訓練と思おうか。なんか目がチカチカしてるけど。
 この三日、高坂が来ないのは俺のせいなんだろう。小林とは密に連絡を取り合っているようだった。分かりやすいほど避けられている。避けられてどうだ、ということもない。そうか、というだけだ。避けるなと言うことでもない。けれど、日に日に高坂のことを考える時間が増えていっているのは確かだった。
 傷つけたのだろうか。そんなつもりはなかった。誤解があるなら言い訳したい。ふざけたわけじゃなかったと。俺の目に映る高坂はいつも心をさらけ出しているように見える。取り繕いもしないでむき出しで、俺はどう触ったらいいか分からない。虚勢も張らない、かっこもつけない、そんな生き方俺には出来ない。怖くて仕方ない。傷付いたときに傷付いた顔をする。ただそれだけだって、どうしたらいいのか分からない。つけ込まれるだけじゃねぇか。
 その日小林は唐揚げを揚げた。べたっとしてはいたが濃い味付けで飯が進んだ。料理本を与えられてからというもの小林の進化は目覚しい。
「おまえすげぇな」
 言うと、小林は照れくさそうに笑って、俺も暇なんすよと言った。まだ一週間も経っていないのだ。
 遅々とした日々の中、時間の中、昼寝習慣も初日だけだったにもかかわらず、眠れなくなった。夜は高坂のことばかり考えた。ほんの少し眠り、目覚め、携帯電話を開くのが癖になった。連絡してくるはずがないと分かっていて、俺は携帯を枕元から退けることができなかった。俺からかけていいものか。なんて、悩みは逃避の言い訳にすぎない。分かっている。けれど、俺はこれ以上高坂を傷付けたくないのだ。それも言い訳か。俺が傷付きたくないだけだ。高坂には俺の代わりがいるのだろう。俺には高坂の代わりがいない。高坂以上に俺を好きになってくれるやつなんていない。手放したくないだけか。最低だな。分かってる。
 畳んだ携帯の隙間に指を差し入れる。暗闇にディスプレイは光を放った。目が痛い。まぶしい。深夜三時。言い訳を考える。冗談を考える。こんな時間じゃなにを言ったって説得力がない。じゃあどうする。登録されたばかりの高坂の電話番号を眺める。ディスプレイが光を落とす。ボタンを押す。再度照る。そんなことを繰り返して延々、時間は過ぎていく。友達みたいに話しかけようか。こんな時間に友達と話すことなんかないけど。話したいことなんかないけど。通話ボタンを押す。
 他人事のようにコール音を聞いている。出ませんようにと願ってる。プツ、と回線の繋がる音がした。
「……あ、もしもしどうかした?」
 もしもし、か。ほんの少し笑ってしまう。なんだか懐かしい響きだ。
「もしもし別になにもないけど」
「あ、そうなんだ。……よかった」
「今なにしてんの?」
「え、なにもしてないよ」
「ふーん」
 電話の向こうで移動する気配が伝わってくる。まあ、愛人宅にいるんだろう。愛人に悪かったかしら? なんて、知ったことじゃない。
「忙しいの?」
「ああ……、うん。まあまあ」
「ふーん」
 冷静になれているのだろうか。俺はなんだか現実と自分とが切り離されているように感じる。真夜中に息をひそめてする会話は途切れ途切れで中身なんかない。会話をしている状態が必要なだけだ。馴れ合っている形式だけが必要なのだ。本当のことを少し言うきっかけのために。
「あのさ」
「うん」
「俺ふざけて言ったわけじゃないよ」
「……」
「冗談でもないし」
 理由はどうあれ本気だった。だからこそ、俺はこんなに気がかりなのだ。高坂が傷付いたというなら俺も同じだけ傷付いているのだろう。自覚はないが胸のつかえはきっと痛みなのだ。
 高坂は黙っている。怒るのだろうか。それならそれで構わない。高坂が俺のために感情を揺らすならそれがどんな感情であっても構わない。
「工藤君の……、考えてること、俺分からないから」
「俺も高坂の気持ち分かんない」
「だって、気持ち悪いだろ。俺ずっと……」
「……なに?」
「……」
「言ってよ」
「……」
「……俺が追い駆けた方がいい?」
「えっ、なに、なんで」
「俺たちさ、今のままじゃどうにも動けねぇよな。怖いばっかでさ」
 後悔なんて後にすればいいじゃん。なんて、簡単に言えるもんじゃないけど。高坂は十年待った。その歳月を打ち壊すのは容易でないだろう。だけど、嫌われたくないなんて、俺も同じなんだからきっとなにがどうしようと嫌いあうことなんかできないんだ。幻想かもしれないけれど。
「おいでよ。……待ってる」
 電話の向こうで高坂はうんとかウソとかでも、としどろもどろを繰り返している。かわいいと思う。隠し切れない気持ちは全部本当で、嘘がないからへたくそだ。けれど一生懸命だから、俺は好きだと思う。高坂の戸惑いに頷きながら段々俺も恥ずかしくなってくる。照れくさいこと得意じゃないけど、高坂の方が余裕なさそうだし俺は平気を装う。おやすみを言うまでの間、電話の中にだけ同じ空気がある。それだけでも、なんかいいなぁって思う。不器用なこと今までしてこなかったから、俺もあんまり上手くない。けど、ままごとだっていいや。俺は高坂が笑ってたらいい。それだけで俺も楽しいんだから。



(10.5.29)
置場