傘を叩く雨の音にかき消されて声は途切れ途切れだった。元々口数が少なく相槌すら返すか定かでない相手との会話は一方的なものになってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「紫陽花って花に見えるところは花じゃないんだぜ」
どうでもいい。小学校で教わったことだ。江崎が知らないはずはない。
「花に見えるなら花でいいのにな」
返ってきた言葉がそれだった。冷めて見える江崎だ、話題自体笑うかと思ったが、思いがけず乗ってきた。しかし、これを受けての俺の言葉がない。
「だよねー」
終了。いつもなら間に立っている伊藤がいないだけで俺たちはまったくたどたどしくなってしまう。伊藤は今頃できたばかりの彼女と楽しく話しをしているのだろう。俺と江崎もある意味付き合い始めのようなぎこちなさではあるけれども。
伊藤が彼女と帰る、じゃあ俺は一人で帰る、というのもおかしい気がしたのだ。今までずっと三人で帰ってて、伊藤が抜けたからといって江崎と距離を置くというのも変な話だ。江崎も同じ気持ちだったのかもしれない。
会話もないまま歩いていく。伊藤はいつもどんな話をしてたっけ。なんかしょうもない話をしていた気がする。例えば? 思い出せないほどしょうもないことだ。伊藤がバカを言って、俺が笑って、江崎が呆れる。なるほど、俺と江崎に接点がない。伊藤も今頃彼女と気まずくなっているのだろうか。いや、あいつは誰とでも上手くやれる男だ。
隣の江崎を見る。華奢で小柄で身の丈だけなら彼女サイズではある。半袖から伸びる腕も柔らかそうでなんとなく女の子っぽい。女子の制服着てたら案外女子っぽいんじゃないか。とか、俺はなにを考えているのか。あまりにも気まずすぎるのだ。いっそのこと彼女に対してっぽく話してみようか。何故そんなことを? ものはためしだ。
「あのー……」
「なに?」
「いやっ! なんていうか、彼女サイズだなぁ……って思って」
「なにが?」
「えっ! ……なんでもない」
なんでもない以外に言いようがない。伊藤と違って俺には身長いじりはできそうにない。江崎は怪訝そうな眼差しを向けただけでまた黙ってしまう。電車で二駅まで同じなのに、駅に着くまでに気まずさで死にそうだ。
結局まともに喋れないまま駅まで着いて、授業の話やら伊藤の話で間をもたせて俺は先に電車を降りた。なんでこんなに俺ばかり疲れているのだ。江崎はいつもと変わらず泰然としていた。ちょっとずるいと思う。江崎は黙っててもキャラがぶれないけど、俺はぶれる。なんか嫌な感じすぎる。喋らなければ江崎のことが嫌いみたいになる。嫌いなわけじゃない。気まずいだけだ。
翌日、登校したばかりの伊藤に正直に相談してみることにした。江崎が来るまでの間になにか対策が練れたらと思ったのだ。江崎がいつ登校してきてもいいように扉の方を窺いながら、俺は伊藤に江崎と気まずいと切り出してみた。
「おまえら二人とも引っ込み思案だしな」
伊藤がまず言ったのはそれだった。引っ込み思案だから、とかそんな雰囲気でもなかった気がするがそれも理由としては大いにあるだろう。
「二人揃ってかたつむりみたいに殻に引っ込んでんでしょ」
そんな風に言われると少し傷付く。確かに自分の殻に籠りがちなところはあるが、そんなに籠ってばかりでもない。むしろ昨日の俺は殻から顔を出しっぱなしにして疲弊したようなものだ。
「殻突っついたら顔出すんじゃね?」
それが簡単にできたら苦労しない。考えすぎなのか。伊藤のように軽い気持ちで突っついた方がいいのか。確かに俺はそうされる方が気楽かもしれない。
「まぁ、でもさ。黙ってても怒らねぇよ、江崎」
第一あいつが喋んないっしょ、と伊藤は言った。確かにそうだ。伊藤も俺と同じように江崎と知り合ったのは高校に入ってからだというのにこの認識の違いはなんだ。
「俺、江崎と二人の時って喋らんことあるよ」
喋らない伊藤、というのを俺は知らない。なんだよ。なんで二人ともそんな仲良いんだよ。俺ばっか知らないことだらけじゃん。違うか。踏み込まなかったのは俺か。なんだよ。なんか、ガキみたいじゃん俺。
登校してきた江崎と伊藤は昨日のメールの遣り取りを少し話していた。メールの遣り取りもしてるんだ。と、俺は一体どちらに対して嫉妬しているのかも分からないまま頬杖ついて携帯を弄ってみたりする。俺は江崎とメールしたことなんかなかった。
いっそそれぞれに帰る方がお互いのためなのかもしれない。伊藤を介さなければ会話すらチグハグで、取り繕ったように友達面してる今の状況はお互いにとってストレスでしかないんじゃないか。
俺は江崎の前で伊藤を気取り、伊藤を演じ、疲れて、ほとんどなにも喋らないまま電車内で別れたりする。伊藤が言うように、会話をしなくても江崎は変わらなかった。江崎は、殻の中にいても平気で、殻の中にいても外との関係は変わらなくて、許されて、顔色も変えないで誰かを演ずる必要もないのだ。俺一人馬鹿みたいに百面相のピエロを演じている。それも全部自分のためで、誰かに、江崎に八つ当たりすることもできない。
「江崎ってかたつむりみたい」
何気なく言った言葉に、江崎は表情を硬くした。他人の言葉に江崎が動揺することは珍しい。禁句だったかと俺の心臓は脈打っている。
「って、伊藤が言ってた」
「そうなんだ」
「俺もかたつむりみたいって」
ふーん、と聞いているのかいないのか分からない吐息を返して江崎は遠くを見ている。隣り合って歩いているのに俺らはあさっての方を向いて、同じ方向を歩いている。嘘でも理由をつけて俺は江崎と距離を置いた方がいいのかもしれない。一緒にいればいるほど自己嫌悪が酷くなる。
「気持ち悪いよな」
ぽつりと江崎が呟いた。顔色は見えない。俺は思いがけない言葉に思わず大きな声が出てしまう。
「なにが?」
「かたつむりって」
ああ、と頷きながら上の空で、そうかかたつむりって気持ち悪いのかとボンヤリ思って、たった一言で俺は江崎に全部を否定されたように感じていた。かたつむりは俺だけで、江崎は違うのだろう。
駅前で、コンビニに寄るからと江崎と別れた。江崎はなにも言わず一人で駅舎へ向かった。シャープペンの芯を買う。俺はなにを期待していたのだろう。江崎に対して、俺はなにを望んでいたのだろう。伊藤みたいになりたかった。伊藤のようになんでも上手くこなしたかった。あるいは伊藤に対する張り合いだけで江崎に臨んでいたのか。だとしたら最低なのは俺で、……ああ、ほら。また俺は簡単な帰結をする。自分を嫌っておけば善人面が保たれるのだ。保身だけの自己嫌悪は心にもなく自己愛の側面にすぎない。だから、嫌いなんだ。
翌日から理由をつけて江崎に先に帰ってもらった。初めからこうしていれば良かったのだ。毎日しどろもどろに吐く嘘は、江崎も分かっているのだろう。けれど俺は嘘だと気付かれていると気付かないふりをして、鈍感を装って図書室へ逃げ込む。一時間ほど時間を潰す。図鑑を手に取ったのは自虐でしかなく、かたつむりの項目を眺めながら、確かに気持ちのいいものではないなと思った。グロテスクな軟体を殻に押し込めて生きる、湿った存在だ。
江崎は殻に籠っているようで少しも籠っていない。顔を出したそのままが殻に籠っているように見えるだけだ。本当の自分なんてバカみたいなこと言う気もないけど、俺は誰に対しても素直になれなかった。曝け出さないのに踏み込んでほしいなんて、曝け出してほしいなんて、虫が良すぎるはなしだ。
校内放送が鳴っている。時計を見ると一時間ほど経っていた。課題が出ているのに教科書を置きっ放しだった。スピーカーから聞こえる田所先生の声で思い出した。仕方なし教室へ戻ると江崎が頬杖ついて本を読んでいた。気まずいような、嬉しいような、複雑な気持ちが胸の中で渦を巻いている。
「帰らなかったの?」
上の空で問うと江崎は視線を揺らして別にと答えた。
「なんとなく……」
「そうなんだ」
呟きが届く範囲のギリギリが俺と江崎の距離だった。口ごもったまま視線を壁に向けて、窓に向けて、時間をかけて自分の机の中をあさる。置きっぱなしの教科書を鞄に詰めて、どんな言葉が正解か探している。
「あのさ」
手元の本を閉じて江崎は言った。眼差しは閉じた本へ向かっている。
「俺なんかしたかな」
いつもと同じ密やかな声はいつもと違った響きが感じられた。俺の気分だけの行動で江崎を惑わせてしまったのか。それは申し訳ないことをした。俺たちは緩やかに他人に戻るべきなのだ。友達面が不自然なのだから。
「なんもしてないよ。俺の気持ちがおかしいだけ」
「どうしたら気持ちよくなる?」
「なに言ってんの?」
笑ってしまう。真面目な顔で言うことかよ。
「俺さ、女に見える?」
「なに言ってんだよ」
なんでこんな冗談を言うのだろう。思うけれど、江崎はにこりともせず真剣な顔をしている。
「誰から訊いたのか知らないけど、俺のどっちも使えないから」
「ちょっと待って、なんの話?」
「かたつむり」
「は? なんでかたつむり?」
「俺がかたつむりと同じだって話」
「伊藤の?」
「伊藤は知らないよ。……ちょっと待てよ」
「噛み合ってない」
「知らなかった?」
「なにが?」
「俺が気持ち悪いから避けてたんじゃないの?」
「いや、気持ち悪いの俺だと思う」
「なにが?」
「えっ」
顔を見合わせて、しどろもどろを互いに確認して頷いて、頷いた理由が分からなくて首を傾げて、なにか行き違いがあることを感じてやっぱり頷いて、最初に笑ったのは江崎だった。
「俺さ、変なんだよ身体。背も伸びねぇし、腕とか女の子みたいでしょ」
半袖から剥き出しの腕を伸ばして江崎は言う。頷くに頷けず俺は曖昧に唸るだけをした。別にいいよと江崎は素気なく言った。
「かたつむりと同じなんだよ。どっちも生殖には使い物にならないからかたつむり以下か。気持ち悪いだろ」
「わ……分かんない……」
正直に言うと江崎はいつもの鼻先で笑う仕方ではなく頬を持ち上げて笑った。こんな風に笑う江崎は初めて見る。俺は江崎の言うことがよく分からないにもかかわらず釣られて笑ってしまう。
「見せてやろうか」
「えっ」
自分がどんな顔をしていたのかは知らない。ただ江崎がマジかよと呟いたので、きっと見たいという顔をしていたのだろう。見たい。見てみたい。伊藤も知らない江崎の秘密。江崎が見せてくれる全部を見てみたい。
「江崎じゃなかったら見たいと思わないよ」
「……後悔すんなよ」
江崎が向かう先についていく最中、俺はどういうことなのか理解し始めていた。思考がやっと追いついてきたのか。俺はとんでもないところへ踏み込もうとしている。江崎は見せたくないものを俺に見せてくれるのか。
便所の個室で俺らは近付きすぎて、江崎がズボンを脱ぐといけないことをしている気分が益々起こってくる。パンツを脱いで江崎は気持ち悪いよと囁いた。促されてしゃがんだ俺の顔の横を江崎の足が通る。扉に片足を突いて、江崎はすべてを見せてくれる。そこは確かに見たこともない構造をしていた。俺に付いてるのと同じものはどこか物憂げに見えるほど慎ましく綺麗な色をしていた。
「どっちも中途半端なんだよ。ホルモン打ってるけどそれでどうにかなるのか分かんねぇし。どっちも付いてるだけ」
「……舐めていい?」
触ってみたいけど、触ったら傷つけそうだ。舌なら指より柔らかいだろう。と、いう考えのおかしさに気付いたのは江崎の「ば」という契機からだった。
「っかじゃねぇの」
そう言って個室の鍵を開けると俺の肩を押して、俺は思わずタイルに手を付きそうになって、なんか男子便所汚い気がするから足首で堪えて立ち上がった。江崎はパンツに足を通している。なんだかとてつもなくいやらしいことをしていた気分になってくる。ベルトを締める江崎を横目に、見たこともない形状の“江崎の秘密”を思い出して心臓が脈打った。一体どんな風に使われるのだろう。と、いう己の下衆な妄想に申し訳なさが起こってくる。
「ごめん」
「なにが?」
と、言われたら変な想像してごめんと言う以外にないのだけれど、それを言ったらどんな想像をしたか言わないといけないようで、流石に本人に言えるとも思えない。だから俺は取り繕ったように「見せたくなかったでしょ」と答える。
「別に……、ある意味すっきりしたし」
「見せて?」
「バカ。変な誤解が解消できて」
便所を出て、教室に鞄を取りに戻る。窓の外へ目をすがめ、江崎は降りそうだなと呟いた。黒い雲が空の奥の方で溜まっている。江崎は思い出したようにああ、と声を発した。
「俺、緒方を気持ち悪いって思ったことないよ」
ほんの少し、困ったような顔で微笑んで江崎は教室へ入ってしまう。俺はなんだかポカンとして、ポカンとした狭間に遠くで落ちた雷の音が這い入って、こんな始まり方ってあるかよと思いながら俺はこれから江崎の前でどんな顔をしたら良いのか分からなくなってしまった。降り出した雨のおかげで今日は傘で顔を隠せそうだ。