潸然一途、べそべそと泣いていた間は俺にも根性があった。他人を憎み、恨むことは裏返して愛情を期待してのことだった。裏切られた気になるから枕に顔伏しさめざめ泣いて、負けん気ひとつで泣いてないというツラをし、群集を無知蒙昧の阿呆に過ぎぬと怨恨感情を育んでいたにすぎない。今に見てろ、いつか後悔させてやる、と意気込んで今。
俺は気付いてしまった。
教室の喧騒のなか頬杖をついて眠る。風景に紛れる。笑い声の中目を瞑ったままでいる。チャイムが鳴るまで。授業が始まったら真面目に受ける。目立たなければ良いわけだ。順繰りに教科書の朗読が回ってきても、俺の読む調子を誰かが笑っても、受け流せば良いのだ。顔色を変えたり傷付いたりするから他人の笑いが嘲笑に聞こえるのだ。なにも感じなければ嘲りも愚弄もただの現象にすぎない。俺は一風景として現象を受け入れる。
始まりは些細なことだった。曰く俺の顔が変だ、髪型がおかしいということから数人の女子が密やかに笑いさざめいた。それに数人の男子が乗っかって、いつの間にか俺は哂ってもいい人になっていた。
廊下を歩いていれば「変な歩き方」、髪型を変えれば「おしゃれしてる」、教科書を読めばコソコソ、クスクス。なにをどうやったってどうにもならないのなら、諦めるしかない。俺は“許されそうな自分”を振舞うことを止めた。負けることを恐れるのを止めた。愛されようと望むのを止めた。憎むのを止めた。いてもいなくてもいい俺になるためには、感情も実体も俺が俺を認識するのを止めなければならない。怨恨に縛られても地に根を張るだけだ。どこにでも行けて、どこにもいないおばけみたいに透き通らないといけない。
「行きたくないけど逃げたら負けみたいで嫌だから」
相談室で女の子は強い眼差しで言った。相談員の佐藤さんはうんうん頷いて、いつでも遊びにきてねと女の子に言った。相談室の外まで見送って、しばらくしたら戻ってくる。
「強いね」
とあっちゃんは言った。一学年上で相談室の主みたいな彼のフルネームを毎回忘れてしまう。みんなあっちゃんと呼ぶからだ。
「女の子は強いのよぉ」
佐藤さんはのんびり言ってなにか書類を書き始める。
「俺なんか三年間負けっぱなし」
小さく呟いたあっちゃんの言葉を耳聡く聞きつけた佐藤さんは「ここにちゃんと通ってるんだからいいのよ」と歌うように言った。あっちゃんは入学してから一度も教室に行っていないのだという。俺は一年の頃から行ったり行かなかったりで、二年の林間学校へ行かなかったのを契機に教室と相談室の比重が変わってしまった。陰口や嘲笑がなくなることはなかったが、それは問題ではなかった。俺自身の実感として、教室内は俺がいないほうが正常なのだと思ってしまったからだった。
「来年どうする?」
あっちゃんは時折思い出したように言う。あっちゃん自身は通信制の高校を受験する。俺は三年になる。
「どうしようかな」
「おまえは俺と違うし、大丈夫だよ」
暗に教室を思い出させる。大丈夫かな。思わず呟いていた。「大丈夫、大丈夫」あっちゃんは繰り返す。あっちゃんの長袖のシャツにはかすかに血が滲んでいた。真夏でも腕まくりすることのないあっちゃんの腕には自分で傷つけた無数の切り傷がある。それについてあっちゃんは何も言わない。俺も言わない。自分を傷つけるのに俺や他の誰に対してもあっちゃんは優しい。切らないでほしいな、と俺は思うけれど、自傷も優しさもあっちゃんが生きていくための手段なのだとなんとなく分かるから俺はなにも言えない。
「誰がなに言ってもいいじゃん。俺はおまえのこと好きだよ」
「俺もあっちゃんのこと好きだよ」
言葉にすると互いに恥ずかしくなって笑ってしまう。狭い世界で許しあうことに対して自嘲もあるのだ。けれど俺もあっちゃんも、自分を肯定することができないから、そのことをお互いに知っているから、あっちゃんが許せないあっちゃんを、俺は肯定したい。好きだと言いたい。
友達よりも、兄弟よりも近く、けれど恋人になれないのは分かりきっていた。あっちゃんは男しか好きになれないと言った。たった一度、囁くように打ち明けられた秘密は存在しないようにお互い振舞う。どんなに近付こうが恋愛になりようがないのは、双子みたいに魂が近すぎるせいだと俺は思う。俺は女の子を好きになったことがなかった。だからといって同性愛者だとは思わない。あっちゃんのことは誰よりも好きだけど、それが恋とは思えない。
肌寒さの残る三月に、あっちゃんは校長室で卒業証書を受け取った。相談室で佐藤さんやあっちゃんの担任と一緒になっておめでとうと言う俺に、あっちゃんは強く肩を抱き「頑張れよ」と言った。今まで一度だって頑張れと言わなかったあっちゃんが、その時初めて頑張れと言った。後一年、俺はやっていくんだとその時実感した。もう学校にあっちゃんはいない。
四月から俺は教室に戻った。いてもいなくてもいい人、いてもいないのと同じ人、人前に現れる俺と内部の俺とは切り離されてあらゆる言葉は頭上を通り過ぎていった。あっちゃんは俺に普通の生き方をしてほしがっていた。俺は自分をまともだとはどうしても思えないけれど、あっちゃんが思う普通を振舞いたいと思っていた。おばけの気持ちで人間を擬態していた。
「大丈夫か?」
と先生は顔を合わす度に言った。大丈夫ですと俺は答える。
「大丈夫です頑張ります」
頑張れなかったら死ぬしかない。そう思っていた。中三になるまで頑張りますだなんて言ったことがなかった。頑張れないのも頑張らないのも分かっていたからだ。けれどあっちゃんを思い出すと頑張りますと言ってしまうのだ。頑張らなければ普通になれない。自分でも分かっていた。大丈夫で頑張れる俺でなければダメだから、俺は何度だって言う。大丈夫です。頑張ります。他人の言葉のように。
無遅刻無欠席で一学期を終え、担任は顔を綻ばせて褒めてくれた。俺はなんだかボンヤリした。進路の話も始まっていた。傷だらけの内申書であっても普通科の高校へ行けるだろうと先生は言った。この一年間出欠に傷をつけなければ不登校児が頑張った美談にでもなるのだろう。俺は上の空のままそうですかと答えるだけだった。
始まったばかりの夏休みの教室は人がいないと狭く、小さく見えた。開けっ放しの窓辺でカーテンが揺れている。校庭から部活に励む声が聞こえてくる。暗さを感じる教室内に、俺は何故いるのか。なんとなくだった。職員室へ寄ったついでに、誰もいない廊下を走るついでに、息苦しい小部屋が夏休みにどんな風にあるのか見てみたかっただけだ。
掲示板や黒板に学生生活の足跡が残っている。部活に来ている生徒たちがいるためか机の列は乱れていた。窓から風とともに蝉の鳴き声が吹き込んでくる。あっちゃんが俺に普通の生活を望んだ理由が分かった気がした。当たり前の、後ろめたさのない生活はなんでもない風景ですら輝いているのだ。俺の居場所ではないと思う。一学期中ずっと、俺は馴染めないままだった。
「あっ」
小さな声に振り返ると入口に話したことのないクラスメイトが立っていた。少し怯んだあと、何食わぬ顔を装って自分の席に向かって用事を済ます。共通の言葉がないから俺は黙っていた。
「……北嶋、頑張ってるよな」
唐突に彼が言ったので俺は咄嗟になんと答えたらいいか分からなくなった。口を開いたものの言葉が出てこない。代わりに目の奥が熱くなった。泣くな、と思っているのに涙は目の端に滲んでしまう。泣いたら変な風に思われる。我慢しないと、と思うのに涙が溢れてしまう。
「ごめん」
「……俺は北嶋すごいと思うし、頑張ってるの知ってるから」
頑張れよ、と言って名前も知らないクラスメイトは走って教室を出て行った。俺はしばらく泣いた。泣くのはいつぶりだろう。あっちゃんが卒業した時だって泣かなかった。捨てたつもりの感情を捨てきれてなかったことを知った。けれど捨てなくていいのだ。残酷なのも人間で、優しいのも人間だ。美しさと醜さのどちらも本当でおばけのようにどちらにも触れずにいようというのが無理なのだ。名も知らぬ彼が俺に言葉をくれたのに理由なんてないのだろう。美しさがあっただけだ。生きてる限り俺は人間でしかなく、幽霊みたいに身軽にもなれないなら俺は美しい人間でありたい。
七月の空は澄んで果てしなかった。浮雲のようにカーテンは揺れる。俺は俺にできることをやろう。なにかを望むにはまだ早い。人間の自覚をもって這い始めたばかりなのだから、まずは一人で立てるようになろう。暗闇の中手探りで一歩一歩踏み出していく。涙を拭って教室を出る。廊下に風が通り抜けていった。