轟音〈サイレン塔と内耳のマイマイ〉



 風が吹いている。
 地を踏みしめる俺の足は二つきり。充分だ。高層ビル群あるいは荒野において俺は俺の二本の足で実存を知る。顔のない男たち、女たち、様々の人間に紛れ俺もまたのっぺらぼうの日々を過ごすのだ。特例はない。与えられていない。群衆の一個に過ぎぬ。それに不満を募らせるほど子供でもない。歯車の自覚もある。ただ時折見失うのだ。己の足すらも。
 自覚のない不眠を自覚した日にメシもろくに食えなくなっていることに気がついた。食べることは食物と共に嘔吐感をも胃に押し込める作業となった。義務的にエネルギーと栄養を摂取し、少し吐き出し、一晩中覚醒を意識しないよう目を閉ざし続けた。三大欲求のうち二つが立ち行かない中で、ならば性欲は? 確かめる手立てはいくらかあったがそのどれも億劫で、ああ死んでるのかと悟った瞬間に他人のような口振りで独り言をひとつ。
「壊れてる」
 朝はいつも身体が重く、けれど浮遊感が拭えなかった。吸った酸素にまで胃が引き攣り空えづきが出る。どうしようもねぇな。思いながら、奥歯を噛み締め出社する。仕事をしていれば肉体の不調は忘れられた。仕事のことを考えていれば己を置き去りにできた。結局“自分”がうるさいだけなのだ。自意識で死ねるほど若くもない。
 肉体それ自体がタイムマシンであるのだと知った。
 脳髄と切り離された体躯は知らぬうち時間を進める。目の端に映した時計には終業時刻を数十分過ぎた時が表示されている。帰ろうか。仕事もないのに残っている理由がない。理由のないことをする理由がない。歯車の自覚をもって帰宅する。
 上の空でも大したミスがないということは頭はまだ大丈夫なのだろうか。ボンヤリと閉ざされたエレベーターの扉の前に立つ。身体中からなにかが抜け出ていくような、そんな感じがする。一体なにが? たましい。馬鹿馬鹿しい。霊性を失したところで頭があるなら俺はどうあったって俺でしかないのだ。肉体は霊魂の器か脳髄の器か、そんなことは俺の知るところではない。今、まばたきをする理由がどちらに拠るのかも知らぬ。どちらにせよ俺は生きている俺を動かしていかなければならないのだ。由来なき変調の因果を知ろうが知るまいが同じことだ。わけもなくおかしくなっている。ならば? 人並みと同じまでに整えるだけだ。装うだけだ。誰かが代わってくれるわけでもない。
 静かに開くエレベーターのドアは数瞬厳かに天国の雰囲気を醸し出し、まばたきの瞬間に鉄の扉と化す。隙間から刺した種類の違う蛍光灯の灯りは扉を開ききったその時から日常となる。
「あ」
「あ」
 認識にコンマのずれはあったものの、エレベーターの個室内にいた人間と俺とは同じ声を漏らした。次に呼吸をする時には互いに気まずくてならないのだ。彼はボタンパネルだけを眺め「開」ボタンに指を置く。俺も何気ない顔をしてエレベーター内に足を踏み入れる。日常の動作を違えることなく行うのはプライドゆえだ。互いの自尊心が作られた自然を装う。彼とは先週別れたのだ。思えばなにもかもが間違いだった。
 遊びのような眼差しと手付きで続いた期間は精々二ヶ月ほどのことだ。それより以前に数ヶ月ほど冗談めかした駆け引きを続けていたが、それは冗談以外のなにものでもなかった。愛というほどの激情は互いに持ち合わせていなかった。プライドゆえだ。俺も彼も、相手より優位にありたかった。本気になるのが怖かった。俺と違って彼は正しい形にはまることができる。ありきたりな家庭を築ける。俺は? 恐らく無理だろうと分かっていた。
 寂しかったから遊んだのだ。遊んで寂しくなったのだ。根本的なことがなにもかも違った。だから限界だった。
 エレベーターの狭い室内に二人きり、俺は壁に背を預けボタンパネルの前に立つ彼の背中を見ていた。限界だった。疲れていた。沈んでいく重力に潰されそうだ。奥歯を噛み締めると鼻筋に熱が走った。涙は出なかった。
「辛いですか」
 身動ぎもしない背中が言った。無感情を装う感情的な声だった。
「……どうかな」
 着地するエレベーターは上下に揺れた。彼は「開」ボタンを押したまま動かない。
「俺は……、辛い」
 行ってくださいと小さな声で続ける。俺は黙ってエレベーターから抜け出した。彼が俺に執着しているわけではない。駅までの道、他人を装うにはまだ別れてから日にちが浅すぎるだけだ。駆け引きすら捨てて、彼は告白したにすぎない。吐いた息は溜息に聞こえた。
 風が吹いている。吹き飛ばされそうだ。疲労に身体は発熱していた。疲れている。現状のすべてに。
 もう止めようと言ったとき、彼は分かったと答えた。それ以外の答えはないと知っていたが、彼の口から迷いもなく了承を告げられると胸がざわつくほど落ち着かなくなった。戸惑いも葛藤も駆け引きもなにもかも煩わしい感情の糸を首肯で断ち切って、彼はあるがままを継続する。装っている。感情よりも体裁を取り繕うことを優先させる男だ。初めから分かっていた。
 風がごうと鳴っている。初めから分かっていた。面白くない遊びは遊びではない。物分りのいい返事の中に面倒事を切り捨てる響きがあった。ごう、ごう、ごう、耳の奥、脳の内側から、水の中から聞こえてくる。血潮に響く。帰り道は寂しい。風の音ばかり聞いている。ごう、ごう、ごう、ごう……、肉体の外郭を思い出せなくなる。あたりまえであらなければ。歪んだ歯車は機能しなくなる。歯が欠けた歯車は機能しなくなる。頭ばかりの俺の頭がおかしくなったら俺自体をもおかしくなってしまう。恐ろしいのだ。寂しいのだ。高速で流れ行く雲間に月輪はほの白く夜空を照らす。足から力が抜けていく。よろけた身体を街路の植え込みに寄せる。
 彼が女性と微笑みあう姿は正しく、美しかった。正しさによる美に俺は俺の矮小に気付いてしまった。限界を知ってしまった。同性同士、行ける地点は限られている。俺が行きつけない場所に行ける彼を俺の地点に縛り付けておくのは美しくないと俺は思った。ただそれだけだった。それだけだったから、もう止めようと思った。彼は分かってくれた。分かったと言った。額に置いたてのひらは冷えていた。風が鳴っている。ごうごうごうごうごうごうごうごう血が流れている。なにもかも煩わしい。バラバラ。歯車。月の光。「俺は辛い」嘘だろう。本当だろうか。許される? 許されるはずがない。情は信頼による。俺を信じるやつがあるものか。飽きられるのが怖い。捨てられるのが怖い。だからいつだって俺から別れを告げてきた。追い駆けてくるものは誰もなかった。俺も追いはしなかった。
 ビル街には風の音ばかりあった。
 果て無き虚空は裾野を広げ、漠として拡散する。渺漠たる孤独の荒野に月ばかりが明るいのだ。誰もいない。俺もいない。誰もいない。俺はいない。俺はもういい。壊れてる。壊れてる。分かってる。今更だ。うるさい“自分”を殺してしまえ。ワタクシ殺し、そんなことは思春期から続けてきたことだろう。今更だ。でしゃばっているんだ。俺ばっかりがうるさいんだ。喧騒に一音を見出すのは困難だ。サイレン塔を破壊すればよい。
 足のない身体のない俺が行く月の砂漠遙々と。路傍に座り込んだままじっとしている。視界の中に俺に向かう爪先がある。革靴の先は細く尖っていた。じっとしていた。俺は己の靴の先と、尖った爪先とを同じく見ていた。いつからいたのだろう。じっとしていた。顔を上げなければ彼もいずれ過ぎていく。じっとしていた。じっとしている。ずっとそうしている。わけにもいかないから、顔を上げる。見下ろす彼の顔に表情はなかった。のっぺらぼう。空に月が明るい。目を伏せる。しばらく言葉はなかった。
 風の音に紛れてちらちらと車の過ぎ行く音がする。
「……なにしてんですか」
 頭上から降る声は押し殺したように静かに聞こえた。怒りのような、赦しのような、失望のような、俺に察知しきれない感情があった。
「辛いんだ」
 俺もまた、俺の知らぬ感情をもって言った。恐らく辛いという言葉のサイズで収まるのだ。本当はよく分からない。彼が息を吐く。急に肌寒さを感じた。ほんの少し間があった。
「バカじゃねぇの」
 他人のような声だった。その通りだと思い、自然と頬が緩むのを感じた。
「いつまでそこにいるんですか」
「どうしようか」
 言うと、彼は俺の腕を掴んで引き上げる。力の抜けた足は一瞬よろけ、彼の腕に縋りながら俺は立ち上がった。彼はなにも言わず駅へ向かって歩き始める。俺もよろよろとついていく。彼は振り向かない。
「腹減ったな」
「なんか食べに行きます?」
 前を見たまま彼は言う。ラーメンだろうと俺は思う。風はいつしか止んでいた。



(10.11.27)
置場