オブジェクトたる肢体



 男の手に恭しく取られる己の手はまるで血の通わない静物のようであった。
「いかがなさいますか」
 と、問うことに意味はあるのだろうか。男の褥にはもう裸の女が寝そべっているというのに。
「申し訳ないのですが……」
「無理強いはしません。それではしばらくお待ちいただけますか」
「はい」
 頷くと男は掴んでいた手をそっと下ろした。慈愛深く微笑むと踵を返し寝台へ向かう。薄いベールの中で女の影が男を迎え入れる。
 もとより間違いだらけの婚姻だった。王位継承権七位とはいえ私は男で、得体の知れぬ新興国の王に請われたとて本来通る話ではないはずなのだ。それが何故。父上は馴染みの薄い我が子よりも小国より出土する銀に目が眩んだのだ。男を娶ることを是とするわけの分からぬ国と同盟を結んでも良いと思うほど、彼の国の資源は豊かであった。
 二対の影は獣のように絡み合い、湿度を含んだ嬌声が寝屋の中に暗く沈んでいた。女の控えめな声と男の荒んだ息遣いが頭の中に忍んでくる。私はソファに身を預け、ぼんやりと時間の過ぎるのを待っている。

 私の生涯は神に捧げるものだと思っていた。私の神はこの国にはいない。

 寝台の軋みが止んで、女は恭しい仕草で部屋を辞した。男は薄絹を纏っただけの姿でベールから私を招く。寝台へ寄ると情事の熱を含んだ指が静かに私の腕に触れた。
「お待たせしました」
「いえ……」
 まだ湿りの残る布団へ身体を横たえる。最初のうちは逐一寝床を作り直していたが、その間に男と二人待たされることを倦んでそのまま眠ることにした。酷く汚れている時はその限りではないが、元々私は神殿の簡素な寝台に寝起きしていたのだ。多少の不快は問題ではない。問題があるとすれば情交のにおいの中で男の腕に抱かれながら眠る不愉快だけである。男はしどけない疲労にすぐにまどろみ、身体に巻きつく腕の重さと背中に感じる体温だけを私に主張する。
 伏し目で眺めるベールはかすかに揺れる。夢とうつつのあわいのオーロラ。対岸で燃えた欲望の火が緩やかに鎮まっていく。灰まみれの欺瞞だろう。分かってはいる。まぶたを閉じても揺らめく紗の光沢が像を残す。私は清潔な夜がほしい。

 ぬかるんだままの朝、着替えを給仕に任せながらそれぞれに用意された今日の予定を聞く。形式上の婚姻関係にある私と男はそれぞれで、特別に言葉を交わすことはない。
 男の政務補佐を行う男が感情の籠もらない声音で読み上げていく執務予定のうち私が関わるものは少ない。男の身でありながら正妃の仕事を行うのは対外的に難しく、本来私が行うべき仕事のほとんどは第二妃や第三妃などの女性が行っていた。当たり前だ。本来世継ぎを産む彼女らが対外的にも対内的にも妃としてふさわしいのだ。
「そういうわけですので、お二人ともよろしくお願いいたします」
 上の空でいた私に政務補佐官は言葉を向けた。反射的に上げた顔を王と補佐官二人に見つめられ思わず目を伏せる。
「申し訳ありません、聞いていませんでした」
 正直に答えると政務補佐官は静かに息を吐き、男はうっすらと微笑みを浮かべた。
「本日宵の刻より晩餐会がございますのでご出席のご準備をお願いいたします」
「それは私が出てもよろしいのでしょうか」
「問題ありません」
 王は言った。しかし政務補佐官は視線を曖昧に余所へ向けている。男を正妃に据える国、というのは私が知る限りこの国しかない。公的な場で私は好奇の目に晒されるばかりだ。
「失礼しました、言葉が違いましたね。それは私は出なければならないのでしょうか」
「お心のままに。あなたは私の正式な妃だ。出席されるのを誰にはばかることはないし、嫌だと仰るなら無理強いはしない」
 王はぐっと身を乗り出し顔を寄せ囁くように言った。それはベールの中で毎夜男が繰り返すのと同じ言葉だった。
「王はそう仰いますが今宵はできる限り出席していただきたい。体調が思わしくないというならその限りではございませんが」
 きっぱりとした言葉の中に意を含む。なるほど。情緒的な表情を表に出さない政務補佐官は見かけよりは優しい男なのかもしれない。
「では、体調が優れないので……」
「了解致しました」
「よろしいのですか? 今宵は料理長も腕によりをかけるという話ですよ」
 笑みを含んだ言葉にほのかに責めるような響きを感じるのは私の後ろめたさのためだろうか。しかし場違いに参じて恥をかくのはなにも私に限った話ではない。
「パンが一切れあれば充分です」
「王族の方とは思えない方だ」
 行きましょうと促されて朝食へ向かう。王族とはいえ私は物心付いた頃から神殿へつとめていた。血も縁も心情の上では王家と断ち切れている。だからこそ、得体の知れぬ新興国からの常識外の要望も通ってしまったのだ。いないも同じ子供が銀と変わるのだから父王もお喜びだろう。
 朝食の後はそれぞれに王は執務へ、私は学問をする。
 この国にはまだこの国独自の文化学問が少ない。信仰も近隣諸国と同じ、食文化や生活文化もそうだ。影で密かに囁かれる通り、この国は山賊のような者たちが略奪や侵攻の末に築き上げたのだ。現王で三代目になる血の薄い王族は、それでも豊富な鉱石資源を後ろ盾に政治を整え、国際的な振る舞いを整えてきた。社交界など上辺を取り繕うだけでどうとでもなる。血の濃さだけが取り柄の我が生家と結びついたことで成り上がり国家を覆うベールは益々強固なものとなる。
 予定していた学問を終えると日が陰り始める刻限だった。大きく取られた廊下の窓は茜から薄紫に、濃紺へ色を変える。いつまでこんな生活を続けるのだろう。婚姻という形式で家同士を繋げるだけなら私はこの城へいなくてもいいのではないか。しばらくは無理かもしらぬが時期がきたらどこか遠く、一人で暮らしていいか伺いを立てよう。
 食堂で夕餉を終え部屋へ戻る。王は晩餐会の準備に掛かりきりで顔を見ていない。大広間からは準備のため人々が働いている音が聞こえる。さざめきを背に別棟へ向かう。
 食事をしている間に窓は夜を映していた。城へ続く道をランプを灯した馬車が点々と連なっている。夜会が始まる前に部屋に戻ろう。私には関係のないことだ。
 ぼんやりと窓辺に立って夜を眺めていると広間へ向かうため廊下を歩いてくる王と政務補佐官が現れた。王は後ろを歩く政務補佐官へ目配せし先に行かせると私の元へやってくる。夜会用の盛装は常に増して華やかで、恵まれた容姿体躯を持つ男によく似合っていた。
「もう夕食はお済みですか」
「ええ」
「パーティーは、本当によろしいのですか」
「人の多い場は苦手なので」
「それは残念です。社交の場でもあなたの噂で持ちきりですから、いつか……、お気持ちが向いた時はお顔を出していただけたらと思います」
「私の噂で持ちきりなのではなくあなたの非常識が揶揄されているのではありませんか」
 考えもなく口をついて出た言葉に自らの失策を感じ男の顔を見る。男はいつも浮かべている笑みを殺し、まったくの無表情になっていた。
「そうでしょうか」
 短く、静かに答えた声は激情を押し殺した暗い響きがあった。背筋に恐怖が走っていく。
「政略結婚にしても他に適当な相手があったでしょうに、なぜ男の私をお選びになったのか理解できかねます」
 男の手が伸び、強い力で私は窓に張り付けにされた。指先で顎を上げられ私の目の奥を覗く男の瞳は獰猛な獣のように鋭く光を秘めていた。
「私があなたを手に入れるためにどれほど奔走したかご存じですか」
「知る由もありません」
「あなたを奪うことなんて簡単だ。なぜそれをしないのか考えたことがありますか」
 男の後ろへ流した髪の一房が落ちる。鼻先が触れ合うほど近く、男の苛立ちがあった。男の怒りの矛先が私が妻としての振る舞いをしないことにあるのならばそんなことは知ったことではない。お門違いというものだ。
 肩を押すようにして男は身を離した。熱が急速に冷めていくような素振りをする。仕草にすぎないのだ。私たちは互いに怒りを処しきれていない。表面上、矛を収めたふりをしているだけだ。
「今晩話をしましょう。夜会がひけたらすぐに参りますので部屋でお待ちください」
 低くそう言って男は広間へ向かった。

 広間に喧噪を集めて城内はひっそりと静まり返っていた。私は身に馴染んだソファに背を凭れ本を眺めていた。文字の上に目を走らせても脳内に言葉は構築されない。単語だけが滑り込み拡散する。頭の中で今夜、男が向き合おうとしている問題にどういう答えを出すか、私の語るべき言葉を探していた。
 この婚姻を解消したい、とは父の手前言えない。売り払われた身といえ父に逆らうことはできない。父に望まれること、それに応えることは希薄な血の絆を感じさせる。私が父の子である証のように思えるからだ。
 生まれる前から後継者としてはほとんど蚊帳の外にいて、謀殺されないために神殿へ下った。王の子として生まれ僧侶の暮らしをする私を母は哀れに思ってくださったが、神に帰依することは父に努めることと同じように思っていたから、私は少しも辛くなかった。どれほど恋い慕おうが私に眼差しを向けはしない。それは神も同じだった。
 胸に浮かんだ信仰の言葉をすぐに取り消す。この国に来てから祈ることを止めた。祈らないことが信仰の証立てと思えたからだ。

 ほんの少しまどろんでいた。時刻は知れない。扉の開く音に私は目を開き、居住まいを正す。王は物言わず私の座るソファに寄り、上着を脱ぐとその隣に腰を沈めた。深く身体を預ける。ほのかにアルコールのにおいがした。しばらく互いに黙ったままでいた。先程の瞬間的な怒りはもう収まっていた。けれど深く根ざした怒りがあるのだ。私も、男も。
「話を……」
 会話の糸口を探すような無意味な沈黙を破ったのは私だった。感情のない話し合いが必要だった。婚姻の契約を破るのは容易ではない。ならば互いに折衷案を出していくしかないのだ。私の望みは形式以上の妻の振る舞いを望まれないこと、それだけだ。
「そうでしたね」
 男は深く息を吐き出した。酔いのためか沈み行くような静かな応答だった。
「……あなたはこの婚姻を不服に思っておられるようだが、私はあなたと身も心も結ばれたいと思っています」
「私はそうは思わない。父に請われ仕方なくあなたに嫁いだのだ。形式以上のことを望まれても応えることはできない」
「そうでしょうね」
 男は囁きのように小さな声で答えた。その声の中に怒りや不満は感じられなかった。
「できることならどこか遠く、一人で暮らしたい。今は叶わなくとも、いずれは」
「神に祈りながら過ごしますか」
 頷くと、申し訳ないのですが、と男は静かに望みを退けた。
「そうでしょうね」
 分かっていたことだ。男は私に選択肢を預ける素振りをするが、実際私に決定権はない。男が私の身体を自由にしないのは単に気まぐれだけのことで、意を変えればいつだって女のように抱かれてしまうのだ。
 再び沈黙が落ちる。私の意志は伝えた。通らないことは初めから分かっていた。落胆は予定のうちだ。声を荒げ怒りを伝えることすら倦んで私は黙ったままでいた。次は男が語るべき言葉を語るのだろう。ソファの上で私たちはそれぞれだった。
「あなたを初めて垣間見たのはあの国を初めて訪れた時でした」
 ぽつりと思い出を語り始める。
「いらしていましたね」
「ええ。案内された神殿であなたは神に祈りを捧げていた」
 物音に振り返った時、男はこちらを凝視していたのだ。きつく射抜くようなその眼差しを嫌だと思った。
「あの時、あなたのすべてを私のものにしたいと思いました」
「そうですか」
 男の手が私の手に触れる。私は物のように動かずにいた。
「憎まれても、嫌われても、あなたが私のもとにあるならいいと思っていました」
 男は深く息を吐く。ゆっくりと呼吸をして、今は……と言葉を夜に漂わせる。
「信頼がほしい」
 消え入りそうな微かな声で放たれた言葉は空気を振るわせ頭の中を走っていった。男のこれまでの振る舞いの中に、私はどれほどの信頼を見出すだろう。
「おかしいですか?」
「おかしいでしょう」
「そうでしょうね」
 諦めのように力ない言葉に胸がすくことはなかった。後ろめたさや申し訳なさがわずかに兆す。男が心から私を望んでいることは分かっているのだ。
 男はソファを立つと、おやすみなさいと囁いて部屋を出ていった。その夜から王は部屋へ戻らなくなった。他の妃の部屋へいるのだろう。私と婚姻を公表する際に第二妃、第三妃に据えられた側室だ。思えばそれも男を正妃に置くことへの内的配慮であったのであろう。世継ぎがなければ王家は絶える。血統の良さだけで妃の序列を決めたのだと誰しも言っている。男の私が女である彼女らより優れているのはそれだけなのだから。
 ただ物のように存在するだけの空疎な毎日を送る。本を読み、学問をし、あとはただ食べて寝るだけの生活だ。私にできる仕事はないのだから仕方がない。望みさえすれば公務をすることも可能だろうが、それは見せ物になるのと同じことだった。
 食事の時などは時折男と顔を合わせた。その際は簡単な会話をし、目が合えばほほえみかけてくる。あの夜以前となにも変わらない態度だった。けれどその姿に疲れを感じた。密やかに囁かれる噂は恐らく本当なのだろう。私は侍従に言付けを頼んだ。侍従は誰かにその言葉を頼むだろう。いずれ男の元へ届く。話がしたい。それだけの言葉だ。

 いつ訪れるとも知れぬ男を待っているような、いないような、曖昧な夜を数日過ごした。その間生家へ送る書状を認めようと幾度もペンを握ったが、そのたび書き出しにつまづいて結局書くのを止めてしまった。
 夜に部屋の扉が開いた。目が合うと男はまず詫びの言葉を述べた。
「なかなか時間が取れず遅くなって申し訳ありませんでした」
「いえ」
 男は侍女に飲み物を頼み、それが給仕される間上着を脱ぎソファに身を預ける。私は黙ってグラスに果実酒が注がれるのを見ていた。
 給仕を終えた侍女が退室すると沈黙が生まれる。私は果実酒を一口飲んだ。乾杯はしなかった。
「……話というのは」
 切り出したのは男からだった。この間とは逆だなとふと思う。
「父上のことです」
 ああ、と男は小さく呟くとソファの背に深く凭れかかった。その仕草に疲労を見出し、私は自分の考えていることが間違いではないのだと確信する。
「やはりそうなのですね」
「まだはっきりとお話を伺ったわけではありません」
「けれどあなたは鉄鉱を請われている」
「確かにそれは事実です」
「父上は戦争をなさるおつもりなのか」
 男はなにも言わなかった。恐らく、男は重火器の種を請われながらも戦を回避しようとしている。商取引だけの関係しかない国ならばまだしも、父上が戦に敗れたら男もまた敗戦の責を負うからだろう。男が背負っているこの国は小さいながらも平安で、もう十年以上争いごととは無関係に暮らしている。それを他国の戦争に巻き込むわけにはいかない。
「過分な採掘を行う手もないし、資源をただ諾々と消費していくことはこの国を枯らすのと同じことだ」
「枯れた国に人は住まない。人のない国は国ではない」
 男は驚いたようにこちらに目を向けた。たとえ望まずに嫁いだといえこの国が抱えている問題点は分かっているつもりだ。王族は国民の税によって生かされる。それを忘れ民衆を蔑ろにする者は王族たりえない。
「いずれは鉱石資源に頼らぬ交易をしたいと思っています」
「それがいいでしょう。学者や技術者を集め、育て、山が枯れた後も揺らがない国を作らなければならない。この国はまだまだ育つ。父上の要請はお断りください」
「しかし」
「構わない。余力がないと答えればいい。どうせ意味のない戦をなさるおつもりなのだ。私からも手紙を送りましょう」
 しかし、と男はなおも言葉を濁す。私はグラスに手を伸ばし果実酒で舌を濡らす。甘さの中に爽やかな酸味が抜けていく。喉を滑る液体は熱を伴って腹へ落ちていく。
「婚姻を取り消しましょうか」
 男は俯けていた顔を上げるときつく強い眼差しを向けてきた。それがおかしくて笑ってしまう。
「後ろめたさから戦をなさいますか」
 頬に触れると戸惑うように瞳が揺れた。顔を寄せ、ふと男の常からの仕草を思い出す。
「よろしいですか」
 男は何故、と言葉を漏らし答えなかった。私は顔を寄せ唇に触れる。微かに震えた唇を離そうとすると男の手が頭を支えた。唇を舌がくすぐって、私はベールの中で女達がしたように薄く唇を開いた。
「んんっ……」
 男の舌が口内を擽るように入り込んでくる。緩やかだったその動きは次第に熱を帯びていく。男にきつく抱きしめられ、舌を絡められる。私は知らなかった。口の中で絡み合うだけで身体の内側に熱を灯されることを。
 頭を支える男の手が離される。引いていこうとする素振りを男の後頭部に手を添えることで制した。一瞬惑うように男は舌を引いた。けれどすぐに深い交わりを再開させる。どれだけの時間口付けを続けていたのかは分からない。唇を離した後も熱が引くまでしばらく黙ったままでいた。
「何故……」
 男はまた同じ言葉を発した。何故。何故と言われたら答えは一つしかない。けれど男は複雑に問題に取り組んでいる。私は男の手を引きソファを立った。まだベールが上がったままの寝台へ向かう。
「身体を差し上げたら父上の意向に逆らえなくなりますか」
 冗談めかして言うと男は慌てたようにまさかと言った。これまでどこか余裕を演じてきた男の戸惑う姿は面白い。
「私は政治はできません」
 裏も表もなく感情のままに振る舞ってきた。今だって、男の疲労に欲情したというだけのことだ。
 ベッドに身体を投げ出して天蓋を眺める。男は私の傍らに座り私の顔をのぞき込む。その瞳はどこか潤みを帯びていた。
「この国は……、先々代が殺し、奪いしてできた国です」
「どの国もそうです」
「ええ、けれど、この国はまだ血を濯ぎきれていない。争いよりもするべきことがある」
「守るため以外に争う必要はない」
「私はあなたも手放したくないのだ」
 男の真摯な眼差しに父上がなにを言っているのか知れる。私の存在が戦争準備の足がかりになるのならこんな馬鹿馬鹿しいことはない。
「今度皆の前で口付けでもしましょうか」
 笑うと男の顔が降りてくる。私は手を伸べて男を迎えた。
 口付けながら男の手が身体の上を這うのを感じる。手管に夜着が肌蹴られていく。私も同じようにしようと男の服に手を伸ばすが指先は思うような動きをしない。息苦しいほどの深い舌先の交情と男の指先が素肌を撫でるのに私の身体は意図しない震えを走らせた。
「失礼しました」
 微かに笑い男は身を離し服を脱ぐ。私は整わない息をしてそれを見ていた。
「申し訳ない。閨房術は習わずにきてしまったのでなにかと煩わせると思いますが……」
 子を為す必要はないと寝屋での作法は習わずにいたが、男の手慣れた所作からいくらか気後れを覚えていた。今までベール越しに眺めてきた男と女達の交わりはとても円滑に、遊びの余裕の中で行われていたのを思うと私は不自由な相手だろうと思えた。
「構いません」
 思いがけぬ即答だった。笑われるかと思いきや真顔である。上半身を裸になった男はいくらか痩せたのか数日前に見たよりも鎖骨が浮き上がって見えた。
「そうですか……、ならばお任せしてもよろしいでしょうか」
「お任せください……、と言っても」
 私も余裕がありません。耳元で小さく囁く。吐息に擽られてか耳朶から熱が広がっていく。頭が熱い。今更恥ずかしくなってくる。男の唇が耳元から首筋を辿る。手指が胸の上を這う。擽ったさが身中に積み重なっていく。激しく脈する心臓が身体を振るわせている。なにかが違う気がする。なにがなんて分かりはしないけれど。
 男の唇が乳首に触れる。片方を指先にこねられている。女達はそうされたとき、高い声を上げていた。けれど私には上げるような声はない。男の舌と歯が様々な刺激を間断なく与えてくる。熱心な様子に次第に芯が生まれるようだ。身体は自然に強張り呼吸は乱れ始める。意識に反して逃げようとする身体を男は強い力で押さえ込んだ。私はわずかに男に恐れを抱いていた。荒い呼吸ときつく、どこか野蛮な気配さえ漂わせる男の眼差しが恐ろしかった。
「あっ……!」
 音を立てて吸われた瞬間、それまでと違った震えが身体を走った。不意に私を見上げる男と目が合った。
「ちが…っ、違う」
「違う?」
 胸元にあった男の顔が再び眼前に寄せられる。問われても答えようがない。なにかが違う。おかしい気がする。けれどそれを伝える言葉がない。男の視線から逃れるために顔を背ける。男の手が頭を撫でる。頬や目尻にキスをする。大丈夫と囁く。間にも私は下履きを脱がされている。嫌だった。見なくても分かる。つかえている。露わにされた私のものは先走りに濡れ脈動に震えていた。
「嫌だ」
「嫌ですか?」
「嫌です」
「そうですか」
 そう言いながら私のものへ指を這わせる。直接の刺激に男の身体を押し退けようと足が上がる。無意識だった。それを制するように指が食い込むほど強く内股を押さえられる。結果的に男の眼前に脚を開くことになってしまい私は堪らない気持ちになった。それにも関わらず私のものは脈拍に合わせるように雫を溢れさせているのだ。浅ましいのだろうか。泣きたくなってくる。
 男はなだめるように私の脚を撫で、唇に軽いキスを落とした。
「私も同じですよ」
 そう言って下履きをずらす。男の下肢からは脈を浮き立たせ先走りに濡れたものが現れた。途端にまた羞恥に染まる。男は私の手を取ると恭しい仕草で指先に口付けを落とし自らの下肢へ導いていく。男に握らされたそれは熱く、触れた瞬間脈打った。男に促されるまま手を動かすと、男は再び獣じみた呼吸を始めた。男はまた私のものへと指を伸ばす。抗議の言葉を上げるより早く唇を塞がれた。
「んっ、……あっ、う」
 舌先を絡め合い互いのものを慰め合ううち、次第に頭は酩酊したように浮き上がっていく。男の指は先を抉り先走りを拾うとそれを塗り広げるように動いた。高められていく射精欲求はしかし寸前でかわされ続けている。私の無意識はより強い刺激を求めて男の手に押しつけるように腰を差し出していた。
 男の唇が離れる。私は知らず舌を出し快楽を追っていた。上体を離して男はしばらく呼吸をしていた。言葉がありそうな気配に目配せで促す。しかし男は黙ったまま、わずかに脚の位置を入れ替える。男のものを握ったままほとんど気が回らずにいた私の右手を取ると、男は私自身のものと自らのものを接触させるように二つ握らせた。手とそこから直接感じる熱源に劣情を覚え身体の内から震えが走る。
 音を立てて頬にキスすると男はゆっくりと腰を揺らし始める。男と私の手の中で擦れ合う二本は震え、零し、脈打っている。次第に早くなる動きに私は声を上げた。
「あっ……! あ、あ……」
 下肢が震えた。熱が大きく解放される。逐情の体感は長く、溢れ出す勢いにも快感を覚えていた。震える私のものと共に男もまた放っていた。
 手の中は二人分の汚濁で汚れていた。虚脱した身体を布団に預ける。心地いい疲れがあった。男は私の手や汚れた下肢を拭う。私はされるままでいた。急激に瞼を下ろす重たい眠気に身を任せ私は眠ってしまった。
 真夜中に目覚めると部屋は暗く、私は男の腕の中にいた。男のゆっくりと一定な寝息を聞きながら私は再び目を閉じる。
 信仰が見返りを求めない愛ならば、与え奪う愛は人間の俗悪ゆえのものなのか。神は助けはしない。父上は戦争をなさろうとしている。男は眼差しを与えてくれた。
 男の瞳の中は窮屈かもしれない。けれど振り返ることのない瞳を求め漠と広がる私には必要な窮屈なのかもしれぬ。男の手の中で私は人間の形を与えられる。
 翌朝男は正式に父上の要請を断る旨を私に伝えた。この国の現状を鑑みてそれ以外に答えはないだろう。私は頷く。
「あんなことがあったから決めたわけではなく……」
 男は小さく弁明する。私はそれがおかしい。
「あなたは以前信頼がほしいと仰ってましたが、今私も同じ気持ちです」
 駆け引きでなにもかも差し出せるほど私はなにも分かっていない。男は照れたような、困ったような微笑を浮かべ私の頬にキスをする。
「信じております」
 耳元に囁くと男は素早く身体を離し、為政者の顔で部屋を出て行く。間際に見た顔が赤く染まっていた。随分可愛らしい男だな、と思いつつ私もまた頬が赤らむのを感じていた。



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