春日狂想



 呼吸をしていた。
 肺臓が膨らみ萎み胸郭を上下させるのを他人事のように感じていた。鹿島修悟が微笑むわけを俺は知らない。皮膚と皮膚との接触面に汗が流れていくことだけを考えていた。鹿島の黒目に映る己に気付いて目を逸らす。天井には電灯があった。鹿島は指を伸ばし俺の額から前髪を梳く。嫌いだと思った。笑う顔も指先も、なにもかも嫌いだと思った。
 鹿島に抱かれて俺は感じたのだ。突き上げられて精を放ったのだ。体内に留まる熱さが不快で俺は鹿島の胸を押す。抜け出ていく感覚に奥歯を噛んだ。
「ねえ」
 言葉に倦んで煙草に火をつける。一口吸いつけて早々にベッドを降りた。バスルームまでの短い距離を煙草を吸って歩いていく。洗面台の鏡には煙草を咥えた自分がいる。見たくもなくて、洗面台に煙草を放り投げすぐに浴室へ入った。
 冷たいシャワーに熱をはらんだ身体は冷やされていく。熱さはそのまま俺自身の汚れのように感じられた。脚を開きアナルへ指を突き入れ汚濁を掻きだしていく。火種を残した身体は浅ましくも喜悦に震える。奥歯を噛み締めながら、死にたいような気がした。
 汚れを落とし水滴を拭い、脱ぎ捨てた衣服を拾い身支度を整えていく。
「帰るの?」
 気だるさを残しだらしなくシャツを羽織った鹿島は泊まっていけばいいのにと言葉を続けた。
「帰るよ」
「良くなかった?」
「別に」
 そんなことは問題じゃない。
 腕時計をはめる。元の持ち主の腕の上ではその身の一部のように馴染んでいたそれは、手首の上で枷のように馴染まずにいる。
「じゃあな」
 鹿島の生活が染みた部屋を出る。不意に呼吸のリズムが乱れ酸素を大きく吸いすぎてしまう。吐き出す。電車はとうに終わっているが駅へ行けばタクシーがあるだろう。薄明るい夜空に群雲。発熱している。身体には開かれた違和感が残っている。女を抱こうと思った。それが正しいと思った。

 叔父の形見分けに貰った時計は父が贈ったものだという。懐かしいなと細めた目のうちに俺の知らない時間があった。分かりきったことだ。叔父がどれほどこの時計を大事にしていたか。どんな思いで腕時計をしていたか。
 腕にはめた時計を翳す。
「似合うかな」
「ああ」
 頷いた父の目尻の皺を叔父がどれほど大事にしていたか。知るわけがない。馬鹿な男だ。俺が言えた義理もないけれど。

 二ヶ月ほど鹿島と会うことなく俺は行きずりの女とばかり交渉した。眼球を覗くほどの近さはなく、鼻から下ばかりを眺めていた。夜毎手順は同じだった。首筋に顔を埋めてのひらで乳房をなぶる。女の得体の知れない甘く柔らかな香りの中で肌を探り、媚びを含んだ嬌声を聞きながら泥濘に身を沈める。両腕に小さく震える身体を抱きしめるとこれが正しいことだと思えてくる。甘く鳴く。柔らかく泣く。ぬかるんでいる。熱が高まっていくと身体は他人のもののように思えた。拡散している。肉体の形が曖昧に霧消していく。女の細い腕が背に回されても、強く取り縋られても、融解していく肉体の曖昧模糊は解消しなかった。

 思い出されるのはたった一人の横顔ばかりだ。血液に縛られている。決してほどけない糸に安心している。あなたが諦めの上に張り付けた微笑は美しいまま永遠になったのだ。あなたが愛した遺伝子で作られた肉体を時々煩わしく思う。文字盤の上で秒針は一定のテンポで進んでいく。肉体の檻を出れば脈拍も同じように刻むのだろうか。なんて、感傷に振り回されて俺の頭はどうしようもないほどダメになる。

 電話一本で鹿島に縋る。二ヶ月間への言及はなく、都合良く俺を甘やかす。
「俺はおまえのそういうところが堪らなくなる」
「なんで?」
「おまえに心があることを忘れそうになるんだよ」
「酷いな」
 言いながら鹿島は笑う。付け込んでるのは俺の方かもしれないよ、と口付けの距離に顔を寄せて囁く。それでもいいと思ったから、唇を差し出す。獰猛に食らいつくかのようなキスをしながら鹿島の手は俺の身体を暴いていく。男の骨ばった手が辿る軌道の上に俺は俺自身の肉体を思い出す。
 腿に食い込む鹿島の指は熱い。鎖骨の上に立てられた歯の厚みに覚えた熱が下腹へ降りていく。決して振り向くことのなかった眼差しは最早この世にすらありはしない。俺の姿を映すのは欲に潤んだ鹿島の黒目だけだ。シーツに這いつくばって鹿島を受ける。右腕には腕時計をしたままだった。不意に覚えた息苦しさは鹿島の突き上げに散らされる。呼吸の仕方を思い出す。こんな風に鹿島を利用する俺も、そんな俺を甘やかす鹿島も、俺は嫌いだった。鹿島の真剣な瞳に映る俺は不誠実で、頭の中に張り付いた肖像と同じに見えた。
 俺は鹿島に応えようと思った。俺は鹿島を愛そうと思った。俺は俺の全部を鹿島にやろうと思った。それは正しいことに思えた。それしかないように思えた。自己嫌悪を飲み込むには献身以外にないように思えた。
 情交の熱を残したまま鹿島は微笑む。それに応え俺も笑む。微かに滲ませた困惑を封じるように時計を外した腕を伸べる。これが正しいことだから。いつか正しくなるはずだから。鹿島の腕の中に俺は構築される。



(11.5.16)
置場