子猫の気持ち



 最初は冗談なのかと思った。
 入学式を終え体育館前では上級生たちが部活の勧誘に励んでいた。立ち止まる新入生や上級生の人の群れに体育館前は血栓ができている。俺はもうバスケ部へ入ろうと決めていたけれど、同じクラスの知り合ったばかりの友人が部活勧誘を受けるのを隣でぼんやりと聞いていた。日差しが暖かくてほんの少し眠い。あくびをする。分泌された涙にかすむ視界を晴らそうと瞬きを繰り返す。
 視界の隅で人の壁が割れるのを見た。その人は布を裁つ鋏みたいにまっすぐ歩いてくる。身体の大きな人だ。と、思っているとその人は俺の前で立ち止まった。道をあけるべきだったかな、と考えているとその人はじっと俺を凝視して、先へ進む気はないようだった。見下ろしてくる眼差しはまじまじと、という感じだろうか。真剣な顔は男らしい。一つ二つしか歳が違わないはずなのに顔も体格も随分大人っぽいなと思った。その男らしく大人っぽい先輩が真剣な顔のまま口を開く。
「君は子猫だろうか」
 一瞬、なにを言われているのか分からなかった。先輩は真面目な顔をしていたし、少しもふざけているような口ぶりではなかったから。しかしそれでは真面目にどういうつもりなのか。子猫? こねこ。コネ粉? 米粉。米粉?
「子猫の化身だろうか」
「ちょっとなんの話か分からないんですけど」
 けしん? 米粉のケシン。メーカーだろうか。しかし俺はケシンだなんてメーカーは知らない。先輩は顔を赤くしてほんの少し震えている。怒らせたのだろうか。この後の展開がまったく読めない。先輩は黙ったままこちらを見つめてくる。俺もなんとなく目を逸らせなくてそのままでいた。
「少し撫でてもいいですか」
 突然散歩中の犬の飼い主にでも言うような口ぶりで言う。ここに犬はいないし、俺も撫でさせるようなものは持っていない。
「なにを?」
「君を」
「は?」
 俺を? 何故? わけが分からないうちに先輩の友達のような人が来て、ああなんだからかわれていただけかと納得した。それにしても意味が分からなかったけど。渡されたチラシには荒々しい筆文字で柔道部と書かれていた。部活勧誘だったのか。
「すみません、俺もう部活決めてるんで」
 会釈をしてその場を離れようとすると、最初に話しかけてきた先輩に呼び止められた。名前とクラスと何故か弁当派か学食派かを訊かれた。そして何故だか一緒に帰らないか誘われる。そこまでして柔道部に入ってほしいのだろうか。しかし俺はバスケ部と決めているし、柔道はどちらかといえば苦手だ。質問には答えお誘いは断り、その場から逃げだした。少し走ると今日知り合ったばかりの友達が遠巻きにこちらを見ていたのでそこまで行くと、大丈夫だったかと心配される。
「大丈夫。ちょっと意味が分からなかったけど」
「男子校だから」
「なにが?」
「なんでもない」
 気まずそうに言いよどむ。それを深く掘り下げられるほど俺たちはまだ友達ではなかった。どの部活にするのかと質問したりして一瞬の気まずさを誤魔化す。そうこうしているうちにさっきの変わった先輩のことは忘れてしまった。
 最初は冗談だと思っていた。翌日放課後、俺の教室へ訪ねてくる先輩の姿を見て、これは冗談でもなんでもないのではないかと疑いを持った。そして、できたての友人が言った言葉の意味もおぼろげながら理解し始めていた。男子校だから。なるほど。

 先輩の名前は岩沢というらしい。聞けば柔道部の二年生で、男らしく整った容姿と穏やかな性格から後輩に慕われ先輩に信頼されるなかなか素敵な人らしい。同じクラスの柔道部の男は素晴らしい人なんだが、と言葉を濁す。
 先輩と初めて会った翌日、ホームルームを終えしばらくして岩沢先輩が訪ねてきたのだ。走ってきたのか入口で息を切らしながら「トリちゃんいますか」と言う姿はとても噂に上る人の姿には見えなかった。
「トリちゃん?」
 入口の傍に座る男が戸惑っていると、先輩は真剣な顔をして言う。
「鳥取トリちゃんです」
 クラス中の目が俺に向く。俺はトリちゃんではない。が、仕方がないので入口へ向かう。クラスメイトの目が痛かった。みんな興味津々なのだろう。俺も他人のことだったら興味津々だ。入学早々先輩に名指しで呼び出されるなんて相当だ。
「あの、なんでしょうか」
「一緒に帰りませんか」
「すみません、部活があるので」
「俺も! 俺も部活あるし体育館まで一緒に行きませんか」
「すみません、友達と行くので」
「あ、そしたら部活終わったら一緒に帰りませんか」
「すみません、友達と帰るので」
「そっか」
「すみません」
 分かったと言って先輩は帰っていった。残念そうに肩を落とす後ろ姿に悪いことをしたような気になってくる。本当は、友達と行く予定も友達と帰る予定もなかった。かと言ってよく知らない先輩と一緒に帰るのも嫌だった。
 その翌日から、帰りのお誘いはなくなったものの先輩はなにかにつけて俺に絡んでくる。通常授業が始まった昼休み早々今度は昼食を一緒に食べないかとやってきた。友達と食べると断るとそうだよね、と物分かりのいい返事をしたくせに廊下でパンを食べ始めたのだ。曰く俺の姿を見ていられたらそれで充分だから、とのこと。
「でも申し訳ないし、落ち着かないでしょうし、自分のクラスで食べたらどうですか」
「いいんだ、俺のことは気にしなくて。好きでやってることだから」
 そうでしょうけども。クラスメイトは完全に俺も先輩も遠巻きに眺めている。居た堪れない。だが先輩はニコニコとしている。なんなんだこの人は。気にしたら負けなのか。気にしないのがいいのか。
「じゃあ、あの、俺は戻りますね」
 そこで引いたのが間違いだった。間違いだったが俺に他に選べる選択肢はなかった。それから毎日先輩は廊下から俺を眺めながらメシを食うようになってしまったのだ。そりゃあもう周りからは色々言われ放題だ。同学年は岩沢先輩のヴィジュアルにビビって直接的になにかを言うということはないが、上級生はあけすけに聞いてくる。バスケ部の先輩以外はなぜか俺をトリちゃんと呼ぶし、なんでそれが定着してるのか、と考えるまでもなく俺の知らない場で俺がトリちゃんと呼ばれているからに他ならないのだが近頃では教師までも俺をトリちゃんと言うのだから質が悪い。
 それでもそれなり、俺は慣れていったし、先輩のことも分かってきて、周りが言うようなことをするような人じゃないって分かってもいた。一緒に昼食を食べたときに岩沢先輩は俺の背が伸びてもいいと言ったのだ。俺の背が低くて男っぽくないから俺のことが好き、というわけでもないなら、俺が俺だから好きだというなら、別にそれは否定するような感情でもない。
「岩沢のこと、柔道部のやつには言っておいたけど」
 バスケ部の部長は言う。なにかあったらごにょごにょと。俺はなにもないと思う。岩沢先輩は俺を可愛がってはいるがセックスしたいとは思ってないのだと思う。目が合うだけで微笑んで、大型犬がしっぽ振って駆け寄ってくるみたいに俺に向かってくる。それで他愛ない話をして、じゃあねって別れたあとは俺もなんだかむず痒い気持ちになって笑っているのだ。ただそれだけのことだ。ただそれだけのことで、俺は先輩の姿を目で探している。
 一体いつからだっただろう。先輩が俺を見つけ出すより先に俺は先輩を見つけて、俺を見つけた先輩の男前な無表情がみるみる腑抜けていく様を見るのが好きだった。トリちゃんトリちゃんと走ってくる姿が好きだった。本当は一緒に弁当を食べても良かったし、一緒に帰っても良かった。けれど先輩は友達は大事にしなくちゃいけないよねと言うし、そんな風に納得されては一緒にとは言い出しにくい。
 本当はもっと話してみたい。もっと一緒にいてみたい。もっと先輩のことを知りたいと思っている。どうしてだろう。あんなわけの分からない人なのに。あんなわけの分からない人だけど。俺は先輩の全部を信じてしまっているようだ。どうしてどうしてとずっと考えるのに俺は答えを出すのを怖がっている。だって男同士だし。先輩が俺に対して抱く感情はきっと俺の内側でくすぶっているものとは違う。

 部活を終えた夜、体育館を出てすぐに先輩に気付いた。どこかに寄り掛かるなりすればいいのに仁王立ちで、ポケットに手を入れて佇んでいた。月明かりの下でほんの少し伏し目でいる姿は大人びて恰好よかった。心臓がきゅうと縮まった気がする。先輩が俺を好きでいることが嬉しくなる。それと同時に、先輩が俺が望むように俺を好きでいてくれないことが苦しくなる。俺の背が伸びた後も先輩は俺を可愛いと言ってくれるのだろうか。俺に向かって走ってきてくれるのだろうか。微笑んでくれるのだろうか。きっと大丈夫。この人は俺がどんな風になろうと今のまま俺を好きでいてくれる。それが辛い。
 顔を上げた先輩はいつもみたいにすぐには笑ってくれなかった。苦しそうに、悩み深げに眉を寄せて叫ぶ。
「俺は君をレイプしたりなんかしない!」
 バスケ部の連中が息を飲む。冗談みたいだろ。この人本気なんだ。俺は分かってる。先輩は俺をレイプしたりなんかしない。
「分かってます」
 言っても先輩は俺に気持ちを伝えようと言葉を重ねる。分かってる。充分分かってる。それ以上言わなくても、先輩の気持ちは承知の上だ。俺のやましい気持ちなんか知るわけない。どうしたって伝わらない。
 先輩を引っ張って人気の少ない道へ出る。二人きりになると途端に空気が重くなる。先輩はきっと俺と二人きりになりたくないはずだ。腕を離すまでずっと身の潔白を証明しようと酸素だとか太陽だとか訳の分からないことを言っていたのだから。
「トリちゃん、俺が怖くない?」
「どうしたんですか、突然」
「君に誤解されるようなことを俺はしていたんじゃないかと思って」
 はたと思い出す。部長が言っていた、柔道部のやつには言っておいた云々。それでか。それで突然レイプだなんて言い出したのか。この人の頭の中にはまったくないだろう発想だ。先輩が俺を性的に好きになることなんて有り得るのだろうか。ないだろうな。この人が言う好きはぬいぐるみやペットに言うのと同じ好きだ。
「別にしてもいいですよ、レイプ」
 先輩はどんな顔をするんだろう。見上げた顔は月明かりの逆光で陰になる。陰の中で、先輩は真面目な顔をしていた。真面目に困っていた。そうだろうな。分かっていた。
「でも、しないでしょう」
「しない」
 ほらね、やっぱり。即答なんだ。
「してもいいのに」
「えっ」
 言葉を失っちゃう先輩が好きだ。すごくすごく好きだ。どうしてこんなに好きなんだろう。分かってる。先輩は俺を好きだから。どんな俺でもきっと好きでいてくれるから。欲しいって言ったらどれだけくれるか分からないけど、きっと全部くれるから。だから、俺は先輩に全部あげたい。先輩の欲しいもの全部。
 好きって気持ちは同じだけど、俺と先輩ではゴールが違う。平行線だ。交わりたいのに。だから猶予が欲しい。俺が傷つかないために。あなたが傷つかないために。
「俺の背が伸びて、全然可愛くなくなったらえっちしましょう」
「し! しない!」
「その時になったら決めましょう」
「しないよ! 俺は!」
「俺はちょっとしたいかも……分からないけど」
 戸惑う先輩の腕を引く。怯えたように身体が強張っている。先輩の耳元に口を寄せる。震えるくらいすごい速さで血が流れているのを感じる。すぐそばにある先輩の身体に浅ましいほど興奮している。
「秘密ですよ」
 照れくさい。笑ってしまう。先輩は顔を真っ赤にさせている。可愛い。恥ずかしい。なにを話したらいいかも分からず足は自然と速くなる。先輩が後ろをついてくる。なにも言わない。それに安心している反面、不安もあった。分かれ道でそれじゃあと普通を装って手を上げる。先輩は考え事から帰ってこないようだった。ぼんやりしてるのをそのままに道を分かれる。どうしよう俺は。どうしようか。明日、先輩はいつも通りにいてくれるだろうか。変わってしまうだろうか。だとしたらそれは俺のせいだ。俺を見てくれなくなったらどうしよう。俺のこと嫌いになったらどうしよう。話しかけてくれなくなったら、俺はどうすればいいんだろう。大丈夫。先輩は俺のことずっと好きでいてくれる。疑わなくていい。大丈夫だ。けれど、ほんの少し、先輩の沈黙が怖い。俺は間違っただろうか。
「トリちゃん!」
 先輩の声がする。感情が眼球上に集中する。怖い。嬉しい。怖い。深呼吸をして涙の気配を紛らわす。振り返ると、先輩は分かれたところで立ち止まったままだった。大きな身体が夜の中で浮き上がって見える。
「おやすみ」
 たったそれだけで、俺は安心してしまう。張りつめていた糸が緩んで、俺たちは呼吸のできる距離へ戻れた。先輩はやっぱり年上で、俺よりも大人で、俺を許してくれる。
「おやすみ」
 ごく当たり前のことが恥ずかしい。先輩が微笑む。俺も笑う。手を振って、日常へ帰る。明日からも俺たちは今までと同じ距離を保ち続けるのだろう。俺の背が伸びるまで、素知らぬふりで秘密を育てる。どんな未来になるかは分からない。でもきっと、そんなに悪くはならないんだろう。なんて、一人で歩く帰り道。




(11.10.15)
置場