「芸をしないサルはどうなるか知っているか?」
「エサをもらえない」
「そう。餓えて慌てて芸をしたってもう代わりのサルはいるんだ」
死ぬしかないよ。そう言って彼はテレビを消した。
「覚えておきな、おまえの親父は悪いやつだよ」
笑って言った彼は父の友人だった。芸人だった。テレビの中で明るい彼はうちへ来るときはシニカルな笑いしか見せない。
父はタレント事務所に勤めていた。彼が父をどんな目で見ているか、俺は気付いていた。恐らく同質の眼差しを持つもの同士、彼も俺の性質には気付いていたのだろう。思いよりも諦めが先立つ性癖だ。
テレビの中で笑う彼を見ながら父は「よくやるよ」と呟いた。その言葉に侮蔑の色はなく、憐みだけがあった。彼のピルケースの中身を父は知っていたのだろう。知っていて目を逸らす自分自身をも。
彼を見出したのは父だという。まだ事務所に所属していなかった彼をスカウトしたのだそうだ。彼は相方を三人替えて、今は一人で活動している。相方だった三人は三人とも今は一般人になっているそうだ。
「俺もサラリーマンになれたらね」
心にもなくそう言う。彼には恋人が幾人もあったが拠り所は父だけだった。母が家を出ていった後、彼は頻繁に我が家を訪ねた。それに父を気遣う気持ちと同じだけ暗い男のやましさを感じて俺は部屋へ籠りがちになっていた。彼はテレビの中でするように声を張り上げることはなかったから、扉を閉めてしまえば二人の会話を聞くことはなかった。思春期に俺は彼と父との親密さに苛立っていたのだ。
父は彼の前で俺の知らない顔をした。彼もそうだ。二人だけが知る二人だけに許された世界が眼差しの距離の中にあった。俺はいつだって水際を眺める傍観者だった。白波が砂を削るように、世界は変化を続けている。それを知るのは波ではない。砂でもない。観測者だけだ。
真夜中にベルが鳴る。父と二人訝りながらドアを開けるとへべれけに酔っぱらった彼が立っていた。意味をなさないことを大声でわめき散らすので、父は慌てたように彼を部屋へ引き入れた。足を縺れさせた彼は父の胸に倒れこみ、父もそれに押されて尻をついた。
玄関先で彼は父に縋りついて泣いていた。足には真っ赤なハイヒール。素足にいくつも靴擦れがあった。右足のかかとは折れている。薄汚れたジーンズの隙間から見える素足の青白さに赤いエナメルは彼の寂しさのように浮き上がっていた。
「なんなんだよ」
呟いて、父は彼の頬を撫でる。乱れた髪を撫でつけるように後頭部へ流れていく骨ばった手指の動きに後ろ暗いものを見ているような気持ちになって目を逸らす。彼が嗚咽を漏らす間、父は腕の中で彼の頭を撫で、背中を慰めるのだろう。
俺は少しも動けなかった。水際の寄せては返す波のように、彼は父を連れて行こうとしている。何処へ? 隙もなく満たされた完璧な世界。深く暗い水底のユートピア。あるいは父が彼を奪っているのだろうか。浸し侵し削り取っているのだろうか。あの慈しみ深い手でもって、彼の心のやわらかいところを全部。
嗚咽が寝息に変わるころ、父を手伝い彼を寝室へと運んだ。父はしばらく寝室へとどまった。眠る彼の傍らで、疲弊した肉体を眺めているのだ。己の眼差しがどれほど残酷なものかも知らず、黒目の中に彼を閉じ込める。
「誰でもいいなら俺の相手もしてよ」
「そこまで落ちぶれてねーよ」
魂の潔癖を汚すように浅ましい遊びで身体を遣い、心身ともに疲れ果てているくせに俺のもとには堕ちてこない。疲労した身体を父に寄せ、他愛ない慰めに少女のように頬をほころばせるのだ。俺ならもっと、と思ったって無駄で、ままごとのような繋がりが彼にとってはセックスよりも重要で尊いのだった。
「くだらねぇ」
言うと彼は静かに口角を持ち上げただけでなにも言わなかった。自覚はあるのだ。含羞に口を閉ざす程度には。偶像がごとく信仰し続ける男がただの人間であることも知っていて彼はキリエを唱えることを止めはしない。祈りは自分自身のためにされるからだ。
テレビの中で彼は薬で心を奮わせて金のためと芸をする。生活のための道化にすぎぬその仕草はしかし彼が彼であるために必要な呼吸であるのだ。夢や大志はなく、そうであるから維持される現状にすぎない。
家を出てから一度も帰らずにいるが、きっと今も靴箱の片隅にかかとの折れたハイヒールが置かれているのだろう。麗しきはつ恋の汚辱として。清らなる愚者のイコンとして。