わたしのLSD



 身体の内側に滞る熱の正体を俺は知っていた。奥歯が浮つくような漫ろな気分は肉体がどこまでも拡散していくような感覚を呼び起こす。誰かにきつく抱きとめられていないと得体の知れない果てまで行ってしまいそうな感覚だ。こんな気分を紛らわすにはセックスしかないと分かっていたが、誰とも話しをしたくなかった。女に微笑み身体を舐めて心にもない愛をささやくのも到底億劫だった。持て余した性欲によって四肢がバラバラになった人間はいない。分かってはいるが死んでしまいたい気分が沸々と沸き起こってくる。誰でもいいから肌を合わせなければ俺は自殺するかもしれない。ぼんやりと、他人のことのように思う。
 久しぶりのオフだというのに朝から遣り切れなくなって酒ばかり飲んでいる。気晴らしに喉へ流し込む酒に味はなかった。口に含んだ時の口腔の痛みと痙攣する胃の痛みだけを感じていた。死にたいのかもしれない。まさか。なんて、少しも思えないのだから仕方ない。
 テレビの中で俺が笑っている。誰だこいつ。白々しい笑いが口から漏れた。胃が引き攣ってアルコールを押し上げてくる。咄嗟に口を押さえ便所へ駆け込んだ。跪き便座に手をつきゲロを吐く。吐けども吐けども胃は脈打って、苦しみに涙が浮かんだ。ようやく吐き気が治まると疲れ切って、便器に縋りついたまま乱れた呼吸が鎮まるのを待った。惨めだった。現実だった。名前を売っても変わらなかった。寂しいままだった。あるいはもっと寂しくなっただけかもしれない。こんなはずじゃなかった。ならば、どういうつもりだったのだ。
 死にたい。死にたくない。生きていたい。生きたくない。思い浮かべるのは親でもなく、友でもなく、ファンでもなかった。俺が裏切れないのはただ一人だ。俺は俺自身だって裏切ることができる。欺くことができる。けれど彼にだけは失望されたくなかった。真実を一つも伝えていないけれど、心の裏を一つとして見せていないけれど、彼にとって都合のいい俺でいたいと思うのだ。俺にできることはそれしきのことだから。
 飽和しそうなデストルドーの霧散を図るべく春を買いに家を出る。夕暮れ。恐ろしいのは家庭のにおいだ。どこかの家からカレーの香りが漂ってくる。覚えた嘔吐感を晴らすべく喉奥まで指を突っ込んで毒素を吐き出す。俺には無理だ。家族も、愛も、恋も。今更悪魔に売り渡したものを返してくださいだなんて虫のいい話だ。人並の幸福など端から無理だったのだ。俺はいらない。必要ない。吐くほど渇望しているくせに。
 泥酔を理由にソープを断られ、家へ帰る気にもなれず公園でカップ酒を飲んだ。仮にもテレビに出ている人間がこれだ。きっと何年先も変わらない。あるいは未来はもっと酷くなるだけだ。逢魔時に呆けている。手の中でぬるびていく酒は得体の知れない生き物のようだ。喉に落とすと怪物じみた挙動で胃へ落ちていく。内臓は持てる力の限り魔物と対峙するが心はちっとも味方しないのだから肉体の攻防は盾も矛も取り上げられて敗色濃厚であった。
 こんなことがしたかったのか。こんなことのために生きているのか。ライバルの頭を押さえつけ、媚を売り、自尊心を靴底で踏みつけて、一体なにを手に入れたというのだろう。
 十代の最後の年、彼に出会った。小さな劇場で、かっちりとスーツを着て丁寧に髪を撫でつけた彼の姿はとても目立っていた。相方はバカみたいに浮足立って、スカウトだよ、と耳打ちした。だからどうした、俺たちに関係あるのかと俺は答えた。同じ舞台に名が売れ始めたやつらがいたのだ。それでも相方は舞い上がって面白くもないくせに台本にないツッコミをしたがった。だから俺も台本にないボケをした。ろくなツッコミもできないだろうと思ってフリ続けたのだ。舞台は台無しだった。失笑と白眼視だけがあった。俺はそれがおかしかった。すべるのはなんて簡単なんだろう。
 舞台を降りるとすぐさま相方に殴られた。泣いていた。俺は倍ほど殴り返した。俺は泣いてはいなかった。手数より一つ多く殴り返し合っていたらいつしか取っ組み合いのような様相を呈し始めた。おまえなんか大嫌いだと彼は言った。それは彼の口癖だった。バカな男だったが俺は嫌いではなかった。劇場のスタッフに止められ、泣いていた相方はスタッフに連れて行かれた。俺は狭苦しい喫煙スペースで煙草を一服吸って、劇場スタッフへの謝罪の言葉を考えた。素人の俺たちが新しい劇場を探すのは大変だ。
 煙草の先で炎の種がフィルターの近くまで迫っていた。そろそろ潮かと煙草を揉み消す。そこへ先程の喧嘩の種となったスーツの男がやってきた。俺は小さく会釈だけしてそこを立ち去ろうとした。
「解散するの?」
 男は俺に缶コーヒーを差し出し煙草を取り出した。
「した方がいいですか?」
 受け取った缶コーヒーを開け壁に背を預ける。男は煙草を銜え火をつけた。
「したいならすればいいけど」
「そうっすね」
「投げやりになるなよ」
 男の苦笑は大人の男のものだった。仕事や生活に自信があるのだろう。疎ましいと思う心の隣に羨望があった。きっと俺のバカみたいな人生ではこの男と同じ年月を生きたところで同じようにはならないだろう。泣きじゃくっていた相方の顔を思い出す。なんて寂しい人生だろうか。一生懸命なのに、価値がない。観客が笑ってくれるならまだしも、あんな白けさせたのだ。つまらない意地で板の上で幼稚な茶番を演じたのだ。この男が戦っているだろう世界とは比べ物にならないほどちっぽけで狭い世界なのに、そこですらまともに戦えていないのだ。本当に、辞めるべきなのかもしれない。
「おまえら面白いよ」
「慰めてくれるんすか」
「慰められたいの?」
「まさか」
 コーヒーを飲み干し丸く口を開けたゴミ箱へ空き缶を挿し込む。男も煙草を揉み消した。
「機会は大事にしろよ。自分で名前を落とすことはない」
 そう言うと男は名刺を差し出した。
「ご縁があったら」
 にっこりと仕事用を思わせる笑みを浮かべ、交換する名刺もなくただ反射で受け取ってしまった俺の肩を叩いて去っていった。その手の硬さと力強さはいつまでも肩の上に残った。名刺の上に書かれた社名も役職も、汀康平という名を縁取る額縁にすぎなかった。名刺の価値よりも、汀に認められたことが誇らしかった。
 翌日顔を腫らした相方に名刺を見せるととても喜んでいた。それでも二年持たずに彼は就職した。晴れの日ばかりではなかった。汀の事務所は決して大手ではなく、華やかな仕事ばかりではなかった。
 汀の紹介で知り合った何人かとコンビを組んだがどれも長くは続かなかった。汀に価値を見限られるのが怖くて必死だった。汚い言葉を使い、汚い芸をやり、人に嫌われ、それと同じ速度で好かれ、厭きられ、また新たなファンを騙す。
 嫌われるのと好かれるのが同じ速度をしているなら嫌悪も憎悪も取るに足らないのだ。無視してしまえばいい。好かれる速度が遅れだしたら媚びればいい。手を変え品を変え向こう側へ自分を売り続ければいいだけだ。しかし、どちらの速さも鈍り出したらもうダメだ。忘れ去られるだけだ。とにかく速度が必要だった。減速していくばかりなのだから速度の持続のためには常時加速していかなければならない。そのために頭が壊れようと身体がダメになろうと構わなかった。汀が俺を見限るまでは、俺は汀が望む俺でいたかった。
 欲望の正体に気付いていたのだ。
 汀の糊のきいたワイシャツや折り目正しいハンカチに、いつだって疾しい気持ちが掻き立てられた。汀の息子を抱き上げ、腕にその重みを感じながら、俺が考えていたのは汀のセックスだった。涼しげな顔をどんな風に歪めるのだろうか。そんなことばかり考えていた。
 夕景が夜に染まりネオンの明かりに不確かさが際立っていく。朝になればまともな俺に戻れるはずだ。本当にそうか。覚束ない足で夜を掻き分けていく。確証がない。ダメだもっと、地面に実感を持たなければ。遣り切れない。やるしかない。誰も助けてはくれない。俺の人生だ。投げ捨てたい。しがみつきたい。誰か俺を許してくれ。
 彷徨い歩いてさびれた商店街へ出る。薄暗い街路にその店は後光のように見えた。店員が店先でシャッターを下ろすのを横目に、誘引される蛾のようにふらふらと歩み寄っていく。
「いらっしゃいませ」
 店じまいの最中だろうに店員は愛想よく声をかけ店へ入っていく。ショーウィンドウ越しに真っ赤なハイヒールは照明を反射して輝いていた。細いヒールに繋がる踵は女の尻を思わせる丸みを帯びて挑発的にあった。嫌だと思った。得体は知れなかった。
「表の靴、サイズある?」
 店内に入ると店員は掃除をする手を止めてどちらでしょうか、と問うた。
「あの赤いハイヒール」
「プレゼントですか?」
「いいえ。私が履きます」
 店員は一瞬キョトンとした顔をして、すぐにああと納得したような溜息をついた。
「テレビで使われるんですね」
 口籠ったのは俺だった。店員は愛想のいい笑顔のまま靴箱を探る。
「テレビに出てる方ですよね? サインいただけますか」
 きっと俺の呼気に混ざるアルコールのにおいには気付いているだろうに彼の態度は変わらなかった。視聴者と演者の距離を作られてしまえば、俺は舞台に上がるしかない。
「構いませんよ。ちゃんと書けるかな」
「楽しいお酒でした?」
「ええ、はい。おかげさまで」
 店員が靴箱を開け商品を示す。箱の中で緩衝材に包まれたエナメルは処女のようになめらかな初々しさを放っている。
「履いていいですか?」
「ええ、どうぞ」
 跪き恭しく差し出された靴のソールに無理矢理足を捻じ込んだ。
「サイズは大丈夫ですか?」
「ええ、問題ないようです」
 ろくに検討しないうちから答えると歩いてみてくださいと店員は言う。女物の靴はコントで何度か履いたことがあったから要領は掴めていた。たどたどしいながらも歩いてみせたので店員もホッとしたようだった。
「それではこちらお包みいたしますね」
「いえ、履いていくので」
 それなら、と貰った袋にくたびれたスニーカーを突っ込んで店を出る。
 人気のない商店街に踵が鳴る。自動販売機でカップ酒を買った。飲んでる端からこぼして嫌になって憂さ晴らしにまた飲んで。心臓が脈打っている。胃腸が波打っている。踵が痛い。彼は笑ってくれるだろうか。呆れるだろうか。手首を傷つけたい衝動が起こる。俺はセックスがしたいだけなんだ。馬鹿馬鹿しい。どうでもいいや。心の底から思っている。
 ゴミ捨て場にスニーカーを捨てる。足は痛くてたまらない。裸足で歩けるわけもない。よちよちと夜歩く。遠くに排気音がこだましている。俺は泣いていた。足が痛かった。足首から先が取れてしまうのではないかと思った。こんなくだらないことをして気が紛れるはずはなかった。
 行先もないのに帰り道も分からなくなって、右往左往、千鳥足で歩き初めの覚束なさそのままに歩く。おかしくなって駆け出して、ジャンプする。月へ届かない。天国へ行けない。もっと高く跳ばなければどこへも行けない。着地の拍子によろけて、転ばないようバランスを取ったが足を捻ったらしかった。右足の踵が折れたのか左右の高さが違ってまっすぐ立つことすらできなくなった。もう嫌だ。もう嫌だ。明日になったら俺は俺を取り戻さなければいけない。取り戻すべき俺なんているのだろうか。帰らなければならない。捨てたらゴミになるだけの人生だ。
 縋りつくようにタクシーを拾う。運転手は嫌な顔をしていた。
「吐くときは先に言ってくださいよ」
「ええ、大丈夫、はい」
 車は夜へ滑り出す。薄暗い車内は潜水艦のようだった。シートに身体を預け、車窓に流れていく景色を横目に眺める。暗い街路を照らす灯りは点々と連なり、きらびやかなネオン街へ繋がっていく。うらさびれた商店街も、華やいだ歓楽街も、人間のものだ。どうしてこんなにも遠く感じるのだろうか。
 タクシーは街を潜行していく。龍宮城でも地獄でも、どこへでも行けばいい。どこであろうと俺の末路は変わらない。どうせといじけばかり積み上げていくのだ。
 目を閉じても眠気は訪れなかった。ただ明確に自分の身体が世界から浮き上がっただけだった。移動式水族館で海底を進む。
 汀の左手から指輪がなくなったとき、俺はこの男がなにをしくじったのだろうと不思議だった。彼も俺と同じ人間なのだと思った。離婚手続きのために疲労した汀はそれでも気丈に振る舞っていた。俺はあんたの疲労に欲情している、などと言えるはずもなく、俺は気休めにおどけてみせるだけだった。俺の躁じみた挙手を演技だと分かっていながら汀は笑ってくれた。一体自分がどれほど汀に甘やかされているのか、己の無力を知らしめられる。
「お客さん、ここからどこ行ったらいいの」
 知るわけない。言えるわけもない。シートから背中を浮かせ、もうここで、と言うと運転手は不満げな嘆息を漏らした。そんな些細な仕草にさえ動揺を覚える。自分に対する気休めに大目に会計を払い車を降りる。地に着けた足は震えたが構わず歩き出した。どこへ行く。辿り着きたいのは一所だけ。怒るかな。怒られたい。このままじゃ夜が明けない。ふざけるなよ。大嫌いだ。あいつ今頃どうしてるかな。一番初めの相方は元々友達というわけでもなかった。顔見知り程度なのに誘われて、やることもなかったから乗っかった。彼は感情的で、何度も嫌いだと言われた。解散だと叫ばれた。俺は彼の素直な性格が好きだった。声の限り泣き叫ぶことは俺にはできなかった。
 解散したい、と打ち明けられたとき、俺は仕方ないことだと思った。
「彼女が妊娠したんだ。俺には才能がない」
「才能ってなんだよ、そんなもん俺にもないよ」
「おまえなら大丈夫だよ」
「なにが」
「大丈夫」
「なんも俺」
 大丈夫じゃない。俺だって辞めたい。けれど今更、辞めたところでなにも残らないのを知っている。実らない樹だと知っていて、実るかもしれないという可能性に縋って伐採できないでいるだけだ。俺を許してくれる場所はここしかないのだから。
「おまえは俺とは違うし、大丈夫」
 声を震わせると彼は静かに泣いた。俺はダメなんだ、無理なんだ、と気位の高い男が諦めるための言葉を繰り返す。それは俺に向けての言葉ではなかった。
 どうしてもっと頑張ってこなかったんだろう。どうしてこんなモラトリアムがいつまでも続くと思ったんだろう。
 彼は正しかった。正しい選択をした。安定は正しい。先の見えない道を目を閉じて歩くようなことは正しくない。彼に認められて、俺は逃げられなくなった。俺に期待をかけることで自分は諦めようとしているのだとすぐに気付かされた。期待を裏切りたくなかった。後悔させたくなかった。続けることだけが俺が彼に対して示せる誠意だった。他に俺にできることはひとつもないのだ。
「悪かったな、俺が誘ったのに」
「いいよ、俺には性にあってたんだ」
 これでよかったのだ。きっと間違いではないのだ。笑顔を作ると彼も笑って、冗談を言い合って話し合いは終わった。誰よりも俺の顔色を読むことに長けた男が頑張れよ、と俺の背を叩いたのだ。彼にだって余裕はなかった。
 静まり返った住宅街に俺のいびつな靴音が響く。後悔している? そんなわけない。誰かのせいにするつもりはない。全部俺の選択してきたことだ。ただ時折誰かに寄り掛かりたくなるのだ。誰か、なんて誤魔化せば俺の薄汚い欲望は許されるのか。べくもなし。高く月が照る。
 黒い屋根の二階建て。彼の家の前で両手の指先をピンと伸ばし頬を持ち上げる。ピエロでなけりゃあならないんだ。震える指を誤魔化すように素早くチャイムを押す。一回、二回、三回。俺はちゃんと酔えているか。誤魔化せるか。今日をしのぐために、明日を迎えるために、脆弱な蜘蛛の糸に縋りつく。木偶の神様が俺に伸ばした細い細い糸。俺が商品になるうちはきっと伸ばした手を掴んでくれる。
 玄関の磨りガラスに灯りがともる。ドアスコープの奥の目を想定して顔を滑稽に歪めてみせる。すぐに開いたドアから汀が驚いた顔を見せた。
「おはようございますぅ、トイレ貸してくださあい」
 あのですね、なんだっけ、分かんねぇや、えっとね、あのね、しどろもどろで言葉を繋げても汀は笑いはしない。訳も分からず声高に、早口に、言葉数で間を埋める。
「何時だと思ってるんだ」
 汀は強い力で俺の腕を取ると玄関内へ引いた。慣れないヒールに足を取られて躓き汀の胸につんのめる。このままでは汀を巻き込んでしまう。身体を捩って身をかわそうとすると、汀はきつく俺を抱き込んで離さなかった。視界が床に近付いても俺に痛みはなかった。
 頬に感じる汀の胸は体温が暖かく、心臓が少し早く脈打っていた。俺は一体なにをしているんだろう。何故だか涙が滲んできた。どうしようもなく素面だったが、身にまとわりついた酒のにおいを言い訳にして汀に縋りついたまま泣いた。
「なんなんだよ」
 呆れたような、疲れたような声が頭上からした。俺だって分かんねぇよ。甘ったれんな。分かっているよ。今だけ。ほんの少しだけ。目覚めたらなんでもない顔だってできるよ。今だけ。ほんの少しだけ、許されたいんだ。神様。あるいは誰かに、見逃されたい。
 汀が子供にするように頬や背を撫でてくれるのが心地よかった。これ以上望めないならそれで充分だった。このまま眠ってしまいたい。目覚めもなく心地よさに浸っていたい。
 汀が息子を呼んでなにか指示を出している。汀の肩に頬を載せたまま俺は眠ったふりをする。
「おいまだ寝るな。おまえなにしてきたんだよ」
 苦笑交じりに俺の足を取ると傷だらけのハイヒールを脱がせてくれる。靴擦れに障らないようそっとされると後ろめたい気持ちが募ってくる。思いがけない疾しさに心臓はおかしな脈動をした。浮ついた奥歯を噛みしめて、俺は小さく謝罪する。吐息の中で言ったすみませんはなんでもないように聞き流された。寝るなと言いつつ子供を寝かしつけるように背中を撫でてくれるから、酒を呑んだ疲労はほぐされていつしか眠ってしまった。薬に頼らず眠りに落ちたのはいつぶりだろうか、と思うほど俺の神経は俺自身に制御できずなにかに頼りきりだった。
 目覚めたのは真夜中で、すぐ枕元に汀がいた。手帳を片手に眺めながらなにか書きものをしている。しばらくその横顔を眺めていた。このまま目を閉じて眠ったままでいたかったがいつまでもいるわけにはいかないだろう。ここは俺の家ではないのだから。
「ずっといてくれたの?」
 茶化そうと思ったのに声が枯れて笑いは生まれなかった。
「もういい歳なんだからバカみたいな呑み方するなよ」
「すみません」
「足出せ」
「え?」
 意味が分からずにいると汀は消毒液を出してみせる。納得して、掛け布団を捲る。足を動かした瞬間忘れていた靴擦れの痛みが刺して眉根が寄った。消毒液を受け取るより先に汀に足を取られて消毒液に湿る脱脂綿を患部に当てられた。
「いっ……」
「沁みる?」
 頷くと汀はかすかに笑って、皮膚の上で乾いた血液を拭うように靴擦れの周りや患部に脱脂綿を滑らせていく。
「あっ……あ、んっ」
「変な声出すなよ」
「だって、……っ、くっ」
 わざとみたいに沁みるところに脱脂綿を置くのはあんただろ、とは言えないまま痛みを噛み殺すための嗚咽が漏れる。
「掴まってていいよ」
 促されて握りしめた布団の代わりに汀の肩を掴む。手に力が籠るたび汀は手を休めて俺が痛みをやり過ごすのを待ってくれる。じわじわと与えられる痛みに何故だか俺は勃起していて、それがばれないように気が気ではなかった。
 痛みにきざしたわけではない。俺にはそういう性質はないはずだった。汀の指が時折足の裏の柔らかいところを掠るたびどうしようもなく不健全な刺激に変換されるのは、俺の心が不健全だからに他ならない。
「仕事、きついか?」
 ナイトランプの灯りを頼りに傷口に絆創膏を貼る汀は傷口だけを見ている。
「別に、……普通」
「そうか」
「うん」
 布団に足を滑り込ませると俺たちの間に言葉はなくなって、汀も俺もどことなく視線はお互いを外し、意味のない空白を意味があるように共有している。ゼロはゼロにしかならず、空白は空白でしかないのに、この無意味が許されていることに安堵があった。
「そろそろ帰ろうかな」
「バカか。泊まってけ」
「……うん」
「早く寝ろよ」
 そう言って汀は腰を上げ出て行こうとする。そうすると、途端に寂しくなって引き止めたくなった。
「俺、酔ってるかな」
 酔っ払いの戯言と聞き流してもらえるのかな。あんたに都合の悪い俺が言葉を発しても、なかったことにしてくれるかな。
「さあな」
「そっか」
 抱きしめてほしいだなんて言えるわけがない。知られたくない。壊したくない。今のままでいいんだ。充分なんだ。明日になったら全部忘れる。
「おやすみ」
 ナイトランプを消した後も汀はその場に留まった。俺が寝つくまでいてくれるのかもしれない。騒がしい胸を隠すように布団に潜りこんだ。動揺している。安心している。永久に続く反復のように感情は行き来する。深度を増していく夜に初恋は永続し、俺は明日を迎える。





(12.12.25)
置場