【注意】
妹の彼氏×兄
妹がセクシャルな場面に絡んできます。NL表現あり。
暴力的な表現、卑語、強姦、人死に色々あります。
バッドエンドです。よろしくお願いします。




盛夏晩年



 とても暑い夏だったから、というのは理由にならない。玄関の上がり框で跪き、犬のように頭を伏せる。無造作に投げ出された妹のローファーに熱は残っていない。けれど、その少しくたびれた革の質感は確かに妹の生活を感じさせ、生活の中にある肉体を思い描くのに容易だった。
 小ぢんまりとした小さな靴は麻巳子の白く肉付いた脚を思い出させる。ふくらはぎの丘陵を辿ってなめらかな膝頭とその裏側のくぼみ、曝け出された太ももと、短いスカートに隠される脚の付け根。溜息のように吐いた息が熱かった。
 麻巳子とはもう五年会話をしていない。それ以前から途切れがちだった会話は俺が一七歳で高校を辞め、ひきこもり出すと完全に途絶えてしまった。麻巳子が中三の頃は受験を控え俺に対して嫌悪しか抱いていないようだったし、受験を終えたら蔑視があるだけだった。時折合う視線は冷たく返された。父も母も俺の失敗を恥じているから、麻巳子が明らかに示す俺への軽蔑を窘めることはなかった。
 家の中で俺は生きたままの幽霊と同じで、存在を認められながら誰からも干渉されなかった。その中で時折麻巳子だけが俺に対し眉を顰めるのだ。ふとした瞬間、思い出したかのように害虫を見たかのような目で俺を見るのだ。それは憎悪と言ってもいいほど冷酷で美しい視線だった。
 麻巳子だけが正しい俺を見ていたのだ。
 玄関に投げ出されたローファーからだらしなく広げられた脚を描く。無邪気で居丈高な足を拝受するように片足を拾い上げる。じわりとパンツが湿るのを感じた。ハーフパンツごと下着をずらし血流に震えるものを取り出す。一瞬感じた涼しさはすぐに熱さに掻き消えて、玄関先で膝をついたまま欲望を扱きだす。赤く色づいた矮小なものを握る横にローファーを添えると締まりの悪い蛇口のように先走りが垂れ流しになった。いけない、と思いながら左手に握る皮革に先っぽを擦り付ける。手入れのされない革靴に引っかかって繊細な粘膜は痛みを訴えた。けれど痛いと感じたのは一瞬で、カウパーに濡れる麻巳子の靴を見たらもう止まらなかった。
 息を荒げ竿を擦り、靴に先端を擦り付けて濡らしていく。汚れていく麻巳子の靴に欲情は更に高まっていく。擦過の速度は上がり息を詰め吐き出した汚液が絡まって、こげ茶の靴はまだらに濡れた。
 虚脱して息を整える間にも、汚れた靴に下腹が熱くなっていく。もう止めないと。汚した痕跡を消さないと。熱に浮かされた頭が冷却を命ずるのにペニスは熱を孕み続ける。治まらない欲情にもう一度だけ、と指先を熱源に絡める。
「なにしてんすか」
 背後からの声に呼吸と同時に心臓も止まったかと思った。振り返らなくても分かる。知らない男の声は、きっと麻巳子の彼氏のものだ。麻巳子が帰宅していること、彼氏も一緒にいること、知らないわけではなかった。けれどいつも二人きり、部屋に閉じこもって出てこないから、きっと今日もそうなのだろうと思った。油断していたわけではない。危うい橋を渡っている、という緊張が俺を余計に下衆の行為に惹きつけた。
 麻巳子の靴を握ったまま、下腹を露出したまま、振り返らずに縮こまっていればなかったことになるだろうか。古い床板を軋らせて男が寄ってくるのが分かる。
「な……、なんでもないから」
「え?」
「なんでもない……」
 普段ほとんど使わない声は男の耳に正確に届かなかった。足音は近付いてくる。心臓は壊れたように行き過ぎた拍動を続け、身体は他人のもののように震えている。肌の上を伝う冷や汗の軌道にすら実感が持てない。
「ねぇ、それ麻巳子のですよね」
 俺を見降ろす男は優しげに微笑んでいた。通った鼻筋に清潔な肌を持ち、切れ長の目と薄い唇を歪めて男は言う。
「お兄さん、それ病気ですよ」
「すみません、もうしませんので麻巳子には」
「俺に謝ったって仕方ないでしょう」
 男は土下座した俺の腕をとり這いつくばった身体を引き起こす。
「病気は治さなくちゃ。ね、お兄さん」
 男に引きずられながら階段を上がり麻巳子の部屋へ連れられる。麻巳子の部屋に最後に入ったのは五年以上前だ。俺がひきこもり出してすぐに麻巳子は母に部屋の鍵をねだった。外と内の両方からかけられるものだ。家を出る時も家に俺と二人きりの時も鍵をかけられるようにしてあるのだ。
「なに、どうしたのケイくん」
 麻巳子は俺を連れてきた男に怪訝に問うた。
「マミ、紐出して」
「紐?」
「マミのお兄さん悪いことしてたから」
 ね、と話を振られ居た堪れなさに顔を伏せる。
「別にいいよ、その人のことはほっといて」
「そういうわけにはいかないだろ、病気は治さないと。俺マミが心配だよ」
 男は優しく麻巳子に言い、もう一度紐を求めた。麻巳子はもう逆らわなかった。雑誌をくくるビニール紐を麻巳子から受け取って、男は俺を椅子にきつく縛り付けた。麻巳子の勉強机の椅子で、それは麻巳子が小学校へ入学する際に購入されたものだった。
「麻巳子スカートめくって」
「えっ、やだよ」
「なんで?」
「だって」
 しばらくの沈黙の後、麻巳子は震える手で制服のスカートを掴みめくり上げた。唇を噛んで晒された白い太ももと素朴な綿のパンツも白かった。男は言いつけを守った麻巳子を慰めるように頭を撫でて髪にキスをした。
「お兄さんね、麻巳子のここ、俺のなんですよ」
 白い下腹を撫でて男の節くれだった指がパンツに忍び込む。身じろいだ麻巳子を宥めるように男は麻巳子に深いキスをする。
 肩を抱いていた手は次第に胸へ移動し、口づけに跳ねる唾液の音と男の手の形に変形した白いパンツは絶えず蠢き続ける。浅ましい俺の欲望は麻巳子が汚されているのに昂ぶって、知らぬうち縛られて不自由な手の代わり膝を合わせて気が狂いそうな性衝動を紛らわそうとしていた。気付くと自己嫌悪に後悔するのに目を逸らすこともできず、己の下半身を忘れることもできず、膝を合わせては止め、止めては始めを繰り返した。
「これ、なんで濡れてるか分かります?」
 男は先程まで麻巳子の中にいた指先を差し出す。近付いた指からは女のにおいがした。無意識に鳴らした鼻に男は口辺を歪め、汚れた指を俺の唇に置く。どんな意識もなかった。俺は口を開き中指も人差し指も一緒に舌を絡めた。口の端から唾液が垂れるのも構わず、舌は麻巳子を悦ばせた指を味わう。舌先に中指のペンだこの感触がある。この指は一体麻巳子の中でどんな風に動くのだろう。想像にもどかしいほどペニスが充血するのが分かる。
「ちんぽ扱きたいですか」
 頷くと、ダメですよ、と男は笑った。
 男は麻巳子を促しベッドへ座らせた。麻巳子は頬を上気させたままもういいよ、と呟いた。もういいの、と男は麻巳子の髪を梳き優しく囁いた。唇を麻巳子の首筋へ落とし、二人はベッドへ沈んでいく。
「だって」
 麻巳子はちらりとこちらを見た。いつもとは違う戸惑いに満ちた視線だった。男は麻巳子の制服を肌蹴させ、口づけをする。
「麻巳子が誰のものか見せてやらないと」
 そうして眼前に繰り広げられるセックスは今まで観たどんなAVとも違った。単調で退屈な手順で進んでいるはずなのに、どんなAVよりも刺激的だった。
 赤黒く怒張したペニスが麻巳子の裂溝に沈んでいくのを俺は勃起しながら眺めていた。
「麻巳子、今麻巳子の中にだれのちんぽが入ってるの?」
「あっ、あっ、ケイシの、ケイシのちんぽ入ってる」
 男は麻巳子の太ももを割り開き、俺に繋がっている箇所を晒した。黒と白のコントラストの中で赤い粘膜の色は動物じみている。
「ね、お兄さん。麻巳子のまんこ俺のなんですよ」
 腰を遣いながら指先でそこを広げ麻巳子が貪欲にペニスを食らう様を見せつける。
「ぬるぬるに濡れるのも俺のちんぽ食うためなんですよ」
 分かりますか? と笑い、ケイシは麻巳子の中に深く突き入れた。速い突き上げに麻巳子の手足は昆虫のようにケイシに絡まり、痙攣じみた震えを走らせる。オーガズムに達したのだろうと思った。ケイシも麻巳子の腹の上に精を放つ。
 二人はしばらく事後のぬるびた戯れに興じていた。俺がいることを忘れてしまったように麻巳子の目の中にはケイシしかいなかった。あるいはケイシの優しくいたわるような手付きに陶酔して俺の存在は問題にならなくなったのかもしれない。
「見て、マミ。お兄さん泣いてる」
 ケイシの言葉に俺は自分が泣いていることに気付かされた。なにも悲しいことはなかった。麻巳子の裸も、それを汚されることも、俺は悲しいとは思わなかった。ケイシに汚されるよりも俺の頭の中で汚す方が余程麻巳子に対して不健全であると分かっているからだ。
 麻巳子が歳相応に彼氏とセックスをしている。その事実に憤りはなかった。ケイシという人間を好きになることはできないだろうが、麻巳子が彼を好きならばそれは仕方のないことだと思った。
 俺は俺自身が泣いている理由が分からずにいる。好悪の気持ちは感じなかった。感情の機微がマヒしてしまったのかもしれない。本当は、なにかがとても傷ついているのかもしれない。
 麻巳子はちらりと俺を見て、気持ち悪いと呟いた。
「マミ、俺お兄さんと話つけるからシャワー行ってて」
「ケイくん、その人……、ほんとにもういいから」
「マミ」
「……うん」
 麻巳子は着替えをもって部屋を出る。出際にケイシは終わったら呼ぶから、と麻巳子に携帯を渡した。それでケイシによる罰がまだ続くのだと分かった。ケイシは麻巳子の顎を上げキスをする。恋人同士のキスがこれほど心無いものなのか、俺には分からなかった。閉じた扉にはすぐ鍵がかけられた。
「……麻巳子に酷いことしないでくれ」
「え?」
「麻巳子に……」
「いつしました?」
 ケイシは人好きのする好青年の笑顔で言った。あまりにも当たり前に言われ、俺が知らないだけでこれが普通の男女の関係なのだろうかと思うほど、ケイシに後ろめたさはないようだった。俺の知る麻巳子は気が強くて、あんなに小さな声では話さなかったし、言いたいことははっきりと言う子だった。男女の交接によって生来の無邪気さが失われただけなのだろうか。それとも、俺の知らぬところでケイシによるしつけがなされた結果だろうか。
「お兄さんの方が余程酷いんじゃないですか?」
 ケイシの足の裏が椅子に縛り付けられたままの俺の股座に落ちた。反射的に膝を閉じてしまいケイシの足を挟み込んでしまう。すぐに膝を開いたがケイシは酷薄に喉奥で笑った。
「何回いきました?」
「んっ」
「足でもぐちゃぐちゃなの分かるな」
 押し付けられた足裏は触れず熱を放ち続けたものに新たな快楽刺激を与える。もどかしい足裏の不自由な動きだけで俺のペニスはすぐに芯を持った。
「感じてんの?」
 パンツの中で垂れ流された欲望が音を立てる。何度も何度も、足裏に揉みしだかれて、踏みつけられて、椅子が軋むほど身体を捩らせても逃げ場はなくて、顔を伏せるのも許されなくて、髪を掴まれ目の奥を覗かれながら俺はまたパンツの中に放っていた。それは足裏越しにケイシも気付いたのだろう。目を細めると小さな声で変態と呟いた。それは罵倒というより心からの声に思われた。
 ケイシは椅子に縛り付けたままの俺を床に転がした。古い家だ、階下にいる麻巳子にも大きな音は聞こえただろう。けれど麻巳子が音に気付いたからといってこの部屋に戻ってこないことは分かりきっていた。
 椅子ごと横倒しに倒され、ビニール紐にきつく縛り付けられた身体は痛みを訴えた。普段は感じない重力が身体中に圧し掛かってくるのだ。ケイシは床に倒れた俺の頭の上に膝立ちで跨った。眼前に、さっきまで嫌というほど見せられたものが突きつけられる。
「しゃぶっていいですよ。麻巳子の処女突き破ったちんぽ」
 優しげにされる許可は命令も同じだった。他人の性臭に嫌悪感が募る。それでも俺は舌を出した。頭もなく、生理すら無視をしたそれは反射のようなものだった。
 熱い、と舌先が認識した瞬間にそれは喉奥まで入り込んできた。嘔吐感に慄く喉も構わず口蓋を擦り上げてくる。それは先程まで麻巳子の中にあったのと同じように本能的な動きでされた。罵倒も辱めもなかった。ケイシは時折息を詰めるくらいで言葉もなく俺の口を使った。
 呼吸困難による酸欠に朦朧としながら、時折口内に快楽的な場所があることを知る。苦しさを紛らわそうとそちらに気をやろうと思った瞬間、胃の痙攣を感じ胃液が込みあがってきた。喉の異常な引き攣りに気付いたのかケイシは唾液や先走りに汚れたペニスを抜いた。横向けられた顔を戻し動物的な本能で胃の内容物を吐き出す。縛られたままの上体の内側で胃が跳ねるのを感じた。
 吐いて荒んだ呼吸が整う前にケイシはまたペニスを喉に突き立てた。喉は何度も引き攣ったがもう吐くものはなかった。自分の吐いた胃液とケイシが分泌する先走りが混ざるのを感じる。ケイシは床に手をつき腰の動きを速めていく。喉に垂れ落ちてくるカウパーにむせないために飲み込むと、その喉の動きがいいようだった。
 ケイシの息が乱れるのと口腔でペニスが脈打つのは同時だった。深く咽喉を突かれた瞬間、喉奥に粘液が絡みついた。反射的に身体は跳ねたが頭はケイシの股座に押さえつけられたまま逃げ場はなかった。引き抜かれる動線に精を残して、ケイシは拭うように舌先に亀頭を擦り付ける。逃げる舌をからかうように動くせいで避けているはずの舌は自然とペニスに絡むような動きをした。
 ゆっくりとペニスを引き抜かれると肺は酸素に戦慄いてむせこんだように咳をした。呼吸の仕方が分からなくなり、喘息のように咳を続けた。身体を離したケイシがカッターナイフで縛り付けていたビニール紐を切ったから、身体は幾分か楽になった。
 床にのたうったまましばらく咳を続けていたが、しばらくすると疲れて喘鳴だけになった。身体を投げ出したまま喉笛が鳴るのを聞いている。ようやく終わったのだ。黒目をケイシに向けると、ケイシは今まで見たこともない顔でこちらを見下ろしていた。侮蔑でもなく、笑うでもなく、まして憐れむわけでもなければ赦しもなかった。終わった、という感じはなかった。鋭利なまでの精悍さに無表情を貼り付けてケイシは俺を見ていた。
 弛緩した脚を引かれその身が近付く。教え込まれた恐怖に身体が竦む。ケイシの手がハーフパンツにかかり下着ごと下ろされると直感的にすべてを理解した。
「いやだ」
「え?」
「いやです。やめてください。お願いします」
 違和感の残る喉のために掠れた声は聞き入れてはもらえなかった。恐れから閉じた膝を開かれる。自分が放ったもので汚れたペニスは冷えて更に縮まった気がする。
「あんた女の子になっちゃいなよ」
 割り開かれた尻肉に指が触れる。他人に触れられたことのない部分が怖気に収縮したのを感じ羞恥にケイシの身体を押しのけようと重たい腕で胸を押した。それはなんの意味もなさなかった。
「俺、女の子には優しいから」
 笑いながらケイシは俺の腰を持ち上げると背中に膝を置いた。自分の膝頭が目の前にある。すぐに身体を捩ろうとしたが脚を押さえられてしまう。二つ折りにされた息苦しさはすぐにアナルに感じる違和感に散らされた。
「ぐっ、う、うっ……」
 コンドームに包まれた指が二本、ローションのぬめりを借りて襞を押し広げてくる。第一関節までの指先を戯れのように出し入れされると排泄欲求が刺激され俺の身体は意思に反して開いていく。力が抜けるタイミングを計ってケイシは指を進めてくる。押し出されるように呻きは腹の奥から出た。空中を泳ぐ二本の脚はケイシを止めはしなかった。
「パクパク指食ってる。分かる?」
 指摘されるまでもなかった。ケイシの指が中を探るように回されたときも、深く奥を突かれたときも、そこは痛みも構わず締め付けた。ゆっくりと押し開かれていく中は次第に痛みよりも出入りする違和感が強くなっていった。持ち上げられたままの脚がしびれて感覚がなくなってきているのを感じる。ピリピリと鈍い刺激を伴って物体のように自分の膝が揺れている。
「脚、痛い」
 苦鳴の合間に訴えると意外なほど簡単に脚は下ろされた。爪先まで血が一気に下りたのか脚にむず痒いような感覚があった。ほっと、ほんの少し気が緩むと、邪険にされたり鬱陶しがられるわけでもなくケイシがこちらの要求を容れてくれたことに対する驚きが沸き起こってきた。しかし、すぐにうつぶせにされたせいでケイシが今どんな顔をしているのか分からなかった。
「はっ、う」
 驚きは両の親指に押し開かれるアナルの痛みに消えた。無理矢理開かれたそこへ熱源の行き交いがあった。先端が埋まっては擦りながら出て行く。その度に濡らされたそこは下品な水音を立てた。
「怖い?」
「怖い」
 ケイシはかすかに笑う。吐息が震える程度の笑いだったが、そこにわずかな親しみを見た気がして心臓が強張った。これは俺を痛めつけるための行為なのに、ケイシが時折見せる気遣いや優しさは一体なんなのだろう。ケイシは残虐な行為すら遊びの一環として行えるのだろうか。優しく微笑みながら人を陥れることができるのだろうか。
「痛いよ」
「ひっ……」
 戯れじみた仕方で何度も出入りした亀頭がその先へ押し入ってくる。咄嗟に両手を口に当てて叫びを噛み殺した。ゆっくりされているのかもしれないが痛みはそれを感じさせなかった。これまでか、と思われた更に先へ、先へ熱さは奥まで進んでくる。逃げる身体を引き寄せるように腰を掴まれ更に奥へ。脂汗が滲む。皮膚感覚が狂っている。身体を串刺しにされる苦痛と違和感に身体機能がおかしくなっている。泣いても震えても止めてもらえるとは思えなかった。
 涙と鼻水でフローリングの床が汚れていく。尻に陰毛の感触がくすぐったく、これ以上刺されることがないのだと思った。
「もっとゆるめて」
「……むり」
「無理?」
 笑い交じりに言ってケイシは俺のペニスに手を伸ばす。思いがけない刺激に身じろぐとアナルに痛みを感じ身体が強張った。ケイシはそれも構わず俺の萎えたものを扱きたてる。人差し指と中指が時折からかうような挙動をしながら萎縮した俺を揉み解していく。
「いっ、……ん、うぐっ」
 きざし始めた快感が針のように下半身を貫いていく。内臓が蠕動するせいで痛みは和らぐことなく継続される。
「できるじゃん」
 できているのか。分かりもしないが直腸は脈打ちながら刺さった杭を受け入れている。引き抜かれる感触に思わず締め付けるが陰茎からの刺激にそこは呼吸するように緊張と緩和を繰り返した。緩んだ隙にケイシのものは動く。
 タイミングを合わせた抜き差しがどれだけ続いたのかは知らない。次第にその律動が麻巳子の中を抉ったのと同じになっていく。声を押さえるてのひらは熱く湿り、指の骨は突き上げられるたびにフローリングをかすかに叩いた。その一定のリズムを俺はどこか上の空で聞いていた。ケイシの呼吸はまるで別の世界のもので俺にはまったく遠い。快感と痛みに震える己の身体すらも。
 ケイシが出すよ、だかなんだか言って体内に精を放った。擦りたてられて俺も精を放った。ペニスを抜かれると身体中から力が抜けていった。くずおれた俺にケイシはなにかを言った。なにも聞いていなかった。しばらくすると身支度を整えたケイシが携帯を片手に部屋を出て行った。
「今どこにいるの?」
 聞くでもなく耳に飛び込んできたのは麻巳子への電話だろうか。まったく俺の知らない日常的な声だった。あの電話は俺の知らない世界に繋がっているのだろう。俺は湿度と臭気にまみれている。
 一人置き去りにされたまましばらく横たわったままでいた。裸のままの下半身が冷えて気持ち悪い。ここは俺の部屋ではない、と当たり前のことに気付き床に手をつき重たい身体を持ち上げた。アナルも腹の中も痛くてたまらなかった。
 部屋の窓を薄く開けフローリング上に乾き始めた汚物をティッシュで拭う。投げ出されたコンビニ袋には食べ終えた菓子の袋が入っていたからそちらにゴミをまとめる。麻巳子の知らない時間がなかったように部屋の状態を元に戻し、まとめたゴミを持って部屋を出た。
 シャワーを浴びた後、俺は二日間部屋から出なかった。二日の間、麻巳子は麻巳子の日常を送っていた。俺が部屋から出ないのも普段通りといえば普段通りだ。二日間、俺はベッドに寝そべったままかすかに聞こえる生活の音を聞いていたのだ。ケイシによって切り取られた世界と俺とを繋ぐため、俺は世界に聞き耳を立てていた。
 三日目によろよろと部屋を出た。腹が減っていたのだ。違和感の残る身体を壁に寄せながら階下へ降りると麻巳子がいた。一瞬俺を見たかと思ったがすぐに麻巳子は麻巳子の用事に戻った。まさか、と思って己の顔に手を触れると手応えがある。麻巳子、と名を呼ぶときつく睨みつけられた。ああよかった、俺はまだ存在している。俺と世界は繋がったのだ。笑っていると、麻巳子は眉を顰めてその場を出て行った。
 それから数日平穏に過ごしていた。身体が治っていくのと日常を取り戻すのは同じ進捗をした。ケイシが再び家に訪ねてきたときも、俺は息を殺し俺の日常を継続させた。
 二人の話声が消えてしばらくすると部屋の扉がノックされた。応じる間もなくすぐに開かれた扉からドアノブにかかった腕だけが見える。
「来て」
 部屋を覗きもしないで麻巳子は言った。麻巳子は俺を待つことなく部屋を出て行ったから、理由を問うこともできずに麻巳子の後を
追った。しかし理由を尋ねたところで麻巳子は答えないだろう。麻巳子が俺に用があるわけがないのだ。きっとまたケイシの言うなりになっているのだろう。
 薄く開いた扉から麻巳子の部屋に入る。数日ぶりに入る部屋には数日ぶりに出会うケイシがいる。
「こんにちは」
 てらいもなくケイシは微笑んだ。背中にじわりと汗が滲むのを感じる。麻巳子はケイシを気にしながらも黙ったままだった。
「どうですか、その後」
 なにを問われているのか分からなかった。麻巳子は俯いている。ケイシは立ち上がると俺を麻巳子の椅子に座らせた。その手にまたビニール紐が握られているのに汗は更に滲む。
「もう、もうしません。もう二度と、だから、あの」
「ええ、だから、今から確かめますから」
 動くなよ、と低く言われ身体が強張る。ケイシは俺を椅子に括り付けると麻巳子を呼んだ。
「ケイくん、私ほんとにもういいから」
「へぇ、兄貴にレイプされてもいいんだ」
「……違うけど」
「マミはどうしたいの」
「私は、別に」
「なに?」
「……なんでもいい」
 もう一度呼ばれて麻巳子はのろのろとケイシのもとへ寄った。ケイシは麻巳子の腰を抱く。あの日のリプレイだ。麻巳子は肩を押されベッドへ横たわる。ダメだ、また麻巳子が傷付いてしまう。
「……やっ、やめろ、やめろよ。まみ、麻巳子に、なにもするな」
 ケイシの気に触れようと出した大声は震えてかすれがちだった。最後は尻すぼみになっていった言葉にケイシは表情を変えなかった。麻巳子は俺の声を気味悪がっているように眉を顰めた。
「ほら、お兄さん全然治ってないだろ」
 ケイシは麻巳子に言った。骨ばった手は麻巳子の白い太ももを撫でていく。二人は二人の息遣いの範囲にいる。睦みあい、麻巳子は微笑むことでケイシを許容する。
 柔軟な曲線と硬質な直線が絡み合って男と女の臭気を発する。まつ毛と眼球の間に涙液が膜を張り二人の姿が見えなくなった。まばたきをすると涙は落ちた。麻巳子を犯すその仕方を俺は身をもって知っているのだ。歯を食いしばり顔を伏せるとケイシに注意を受ける。目を逸らすことも許されず、俺はまつ毛に涙を絡めたまま現実を見つめ続けた。
 行為が終わるとケイシは気だるげな麻巳子を呼んだ。
「麻巳子」
 ただそれだけで麻巳子は物分りよく部屋を出て行った。学習の成果なのか、教育の賜物なのか俺は知らない。俺はケイシの体罰を恐れて静かに身体を縮めている。叱責も暴力も嫌だった。ケイシが俺に向けるニタニタとした笑い顔が嫌だった。俺の最後のクラスメイト達は皆あの笑い方をしたのだ。俺を笑いものにするために観察し、俺が些細でも失敗しないか今か今かと待っていた。なにかしくじれば嬉しそうに目を細め、あいつはバカだと喜んでいた。彼らは俺を最下層に置くことで自分たちが偉いと信じられるようだった。俺しか見えていない時点で彼らの卑俗は疑うまでもなかったが、俺は監視の目に疲れてしまった。学校に執着するものはなにもなく、俺は俺自身もどうでもよかったから辞めてしまった。負けたのだと思う。どんな風に考えても勝ったとは思えなかった。
 二人きり取り残されてケイシはしばらく動かなかった。ベッドに座り脚を組み、腿に肘を置いたままぼんやりと一人の時間を過ごしていた。やがて立ち上がると俺に歩み寄ってきた。
「泣くほど辛い?」
 親指で頬を拭われて、思いがけない行為に身が強張る。はいもいいえも言えなかった。どんな仕草もできなかった。見下ろしてくるケイシの目の奥を覗いて、どう答えるのが正解か探る。黒目の中に答えはなく、瞳孔が微かに閉じたり開いたりするのを見ていた。
 ケイシはそれ以上なにも言わなかった。俺を縛り付ける紐を切ると、なにも言わないまま部屋を出て行った。
 その日俺は夢を見た。教室の中で俺は裸でガラスの檻に入れられているのだ。ニタニタと笑いながら俺を取り囲むクラスメイト達の中に、友達のような顔をして俺に親しげに話しかけてくるものがあった。そいつは親身な素振りで俺を貶めるための観察をしていた。友達の仮面が剥がれた瞬間に、誰でもいい誰かたちよりも醜悪な顔が露見されるのだ。薄々感じていたはずなのに、裏切りに俺は傷ついていた。傷ついたことにも傷ついていた。
 リプレイだ。嫌なことは何度でも反復される。反復学習により俺は憎悪だけが信じられる他人の感情だと覚える。
 クラスメイトの関心も、両親の無関心も俺には不快なだけだった。母が言うあなたのため、という言葉が母自身のためのものにすぎないことを俺は知っていたし、父は俺の失敗を己の失敗だと思いその失敗をなかったことにするために俺を黙殺する。麻巳子の憎悪と軽蔑だけが正しいのだ。麻巳子は俺を俺として認識し、俺だからこそ嫌悪を抱くのだ。ならばケイシは、と考えるとすぐに頭は行き詰った。
 チャイムが鳴っている。ゆっくりとした感覚で続く。窓からの外光は正午のものだろうか。時計も見ずにベッドの上で寝転がったままでいる。頭が痛くてたまらなかった。俺が応じる必要はないだろう。
 チャイムの間隔はだんだんと短くなっていく。止めどなく続く音にのろのろと部屋を出る。勧誘やセールスが鳴らすとは思えない連打に俺の在宅は知られているのだろうと思ったからだ。
 ドアスコープを覗かず薄くドアを開けるとケイシがいた。驚いて身を固くするとドアに手を掛けられ大きく開かれた。
「どうも」
「あの、麻巳子は学校に」
「知ってる。あんたに会いに来た」
 短く言うと玄関の中に入ってきた。そのまま階段を上っていく。俺はなにも言えないままあの、その、と口の中で蟠る言葉をどうにか形にしようと吐息を吐きながらケイシの後をついていく。
「あんたの部屋こっち?」
 麻巳子の部屋の隣を指さして問われ、頷くとすぐにドアを開けられた。
「あの、今日は、なんで」
「別に」
 ケイシがベッドに腰掛けたので俺は床に正座をした。なにも考えずに座った後で、どうして正座してしまったのかと後悔した。なにもせずともケイシに見降ろされてしまう。
「寝てた? ベッドじめっとしてる」
「あ、はい。あの、すみません」
「別にいいけど」
 ケイシの言葉は少なかった。外で鳴く蝉の声が聞こえるほど部屋は静まり返っている。ケイシの目的が分からず、俺は腿の上にのせた己の手をぼんやりと眺めていた。
「顔色悪くない?」
 顔を上げるとケイシの手がすぐ目の前に迫っていて思わず身を引いた。
「あ、ごめん」
 一言言っただけでケイシの手は更に伸び俺の額に触れた。
「熱あんじゃん。寝なよ」
 起こしたのは誰だ、と言えるわけもない。ケイシに腕を引かれベッドへ寝かされる。ケイシは俺の勉強机の椅子に座る。見られていることが分かって居心地悪かったが目を閉じて眠るふりをした。
 どれだけ時間が経ったのか分からない。それほど経っていないかもしれない。ケイシは一度部屋を出て、しばらくすると戻ってきた。
「アイスノン」
 小声に目を薄く開くとアイスノンにタオルを巻くケイシがいた。身体を起こそうとすると制されて、ケイシに頭を抱え上げられアイスノンを仕込まれる。冷たさが気持ちよかった。本当に発熱していたのだとその時ようやく気付いた。
 再度目を閉じて、ケイシが本を読む音やかすかに立てる物音を聞いていた。いつのまにか眠っていたのだろう。
 目を覚まし身じろぐとケイシは枕元にいた。
「ぬるいけど」
 そう言ってポカリスエットを渡される。喉が渇いていたから一気に半分ほど飲み干した。溜息をついた後で家にポカリがなかったことを思い出し、ケイシが買ってきたのだろうと気付かされた。
「ありがとうございます」
「別にいいよ」
 両手の中の冷たくないボトルに一体今何時なのかと時計を見ると、あと三十分ほどで麻巳子が帰ってくる時間だった。
「あの、もうすぐ麻巳子帰ってくると思うんで」
「ああ、うん」
 ケイシは上の空に時計を見遣るとしばらくそのままにぼんやりしていた。そのままの顔で帰るわ、と呟くと麻巳子を待つことなくさっさと帰って行った。
 それ以来ケイシはぽつぽつと昼間に訪ねてくるようになった。特に目的はないようで、なにということもなく途切れがちな会話をするくらいだが俺はケイシの来訪に驚かなくなっていった。麻巳子が介在しない中で話すケイシは物静かで暴力的な振る舞いは一つもなかった。
 俺の部屋でケイシは雑誌を読んだり携帯をいじったりする。その合間に時々思い出したかのように俺に話しかけてくる。不意に話しかけられて俺は問われるまま身の上の断片をいくつか話したような気がする。
「いつも一人でなにしてんの?」
「別に……、なにもしてない」
「しんどいでしょ、それも」
 さり気なく問われたことに正直に答えると、思いがけないほど優しい応えがあった。ケイシの視線が雑誌にあったままだから、気が緩んでいたのかもしれない。
「まあ、うん。……俺もこのままでいいとは思ってないけど」
 けど、の先が言えないのだ。行き場のない恥ずかしさを紛らわせようとてのひらの皺を眺める。言葉を続けなければケイシもそれ以上なにも言わないことは最近知ったことだった。
 ケイシは雑誌をめくる。俺も数日前にケイシが持ち込んだ漫画雑誌に手を伸ばしなんとなくページをめくっている。
「……今、どうにかしたくてできなくても、どうにかしたい気持ちがあるなら必要な時にやれるんじゃない」
 雑誌を眺めたままケイシは言った。日常会話のような素っ気なさだが励ましてくれたのだろう。
「そうだといいんだけど」
「できるよ」
「……うん」
 ケイシはきっと俺が麻巳子を害さなければ悪い奴ではないのだろうと思った。俺の不出来な半生を知って同情を寄せているのだろうか。ケイシが訪ねてくるようになって、俺は会話の仕方を思い出した。声の出し方を思い出した。俺は点として誰とも繋がらず線にならないことを思い出した。
 ケイシは麻巳子を訪ねるとき、俺を呼び出すことがなくなった。なにも不自然なことがない当たり前なことなのに、二人部屋に閉じこもった音を聞くでもなく聞いて、扉が開く音にそっと部屋から顔を覗かせてみるのだ。ケイシは一人のときには俺に小さく会釈をしてみせるが麻巳子といるときは目も合わせなかった。
 ケイシが俺を訪ねてくる頻度が上がるとそれに反して麻巳子と一緒にいることは少なくなった。ケイシが俺に見せる友達めいた仕草に慣れ始めていたから、あるとき麻巳子と喧嘩でもしたのかと問うてみた。ケイシは答えるより先に俺のすぐ隣へ座った。その勢いに怒らせただろうかと不安になる。
「そんなに麻巳子が大事?」
 顔色の見えない声が恐ろしかった。俺はケイシの執行する罰を忘れたわけではない。ここで答えを間違えたらいけない。そう思うと返事にまごついて、ケイシの顔が近付くのを気配で感じた。
「……っ」
 首筋に落ちたぬるついた刺激に身体が強張る。思わずひいた身体を逃さぬようにケイシの手はきつく俺の腕をつかんでいる。
「ねぇ」
 吐息による詰問はしかしすぐに歯の硬さを動脈の上に感じてうやむやになった。ケイシのてのひらが身体の上を行き来する。こんな風に身体を触られるのは初めてだった。麻巳子にするように優しい手付きに、これが今回の罰なのだと思った。
 緊張と恐れから硬くなった身体を慰めるように肌を撫でていく。腕や脇腹、ヘソの上を通って腿へ。皮膚刺激に震えながら俺はケイシと麻巳子の交情を思い出す。俺は身をもって麻巳子がどんな風に身体を温められたかを知らされる。出してはいけないと思うのに力の抜けた声が出る。聞かれないように口を押えたてのひらを取られ蒲団の上に押し付けられた。歯を食いしばっているとキスをされた。入り込んでくる舌の違和感に慣れなかった。
「あっ、あっ、……ん」
 撫でられたり擦られたり、舐められたり吸われたりするうちに息は乱れ、喉は緩み、身体は弛緩していく。アナルに挿し込まれたケイシの指は初めてのときより慎重に、丁寧に動いた。前立腺の刺激を覚えさせられアナルによるオーガズムを知った。
「痛かったら言えよ」
 そう言ってケイシは俺のアナルにペニスを押し込んだ。痛いと言ったら止めてくれるのだろうか。そんなわけがあるのだろうか。考えるでもなく考えていた疑問は奥へ奥へ入ってくる熱に散っていった。
 痛みよりも教えられた快感が強くなって、俺は痙攣じみた震えを走らせながら何度もいった。ケイシは震える俺をきつく抱きしめると脈動するペニスを深く潜りこませて射精した。ケイシはしばらくそのままでいたがやがて身体を離した。
 しばらく眠ったり眠らなかったりの微睡を繰り返していたが、麻巳子が帰ってくる時間が近付いてケイシが身支度を始めたので俺も部屋着を着直した。
「もう少し寝てれば?」
 ケイシの言葉は先程の行為にそぐわないほど柔らかかった。俺は大丈夫だと答えた。
「……あんたがどんなに麻巳子を好きでも麻巳子はあんたのこと好きにならないよ」
 思い出したかのようにケイシは言う。そんなことは俺だって分かっているのだ。
「麻巳子は俺のこと、嫌いでいてくれるから」
 きっと永遠に、誰からも好かれもしない嫌われもしない俺を、ちゃんと見て嫌ってくれるのは麻巳子だけだから。麻巳子がいなければ俺はいないのと同じだから。麻巳子だけが俺を見てくれるから。
「そんなの悲しすぎるだろ」
 ケイシは俺の頭を胸に押し付ける。
「俺は、あんたのことが好きだよ」
 心音を聴いている。ケイシがなにを言っているか分からなかった。
「俺のこと好きになってよ」
 なにを言っているのか分からなかった。世界が崩れていくのだけ分かった。
 ケイシは身体を離すと少しはにかんで、また、と言って部屋を出て行った。
 世界がポロポロと崩れていく。端の方から中央へ向かって、少しずつ崩壊の速度を速めていく。俺は部屋を出た。玄関の閉まる音を聞いた。扉の閉まる勢いに、母が防犯のためと隅に立てかけていたバットが転がる音を聞いた。あのバットは俺が子供の頃少年野球のチームに所属していたときに使っていたものだ。俺はプロ野球選手になりたかった。けれど、あのバットを握ったせいで俺はプロ野球選手になれないのだと知った。他の誰より俺は野球が下手だったのだ。あのバッドを握らなければ俺はもう少しだけ夢を信じることができたのだと思う。
 玄関を開けるとケイシが振り返った。笑顔だった。俺はバットを振りかぶった。乾いた音が鳴った。よろけたケイシの腕を引くと、ケイシは簡単に従った。上がり框に躓いて蹲ったケイシの頭に俺は何度もバットを振りおろした。何度も、何度も、何度も、何度も、どんな感覚も最早なかった。
 玄関の開く音に正気付いて振り返ると、麻巳子がいた。
「マミ、大丈夫。今、戻すから。ケイシくんちょっと病気なんだ。病気は治さなくちゃいけないから。すぐ治るから、麻巳子は安心して」
 麻巳子の目には軽蔑も嫌悪も浮かんではいなかった。見たこともないような色を浮かべて、俺から目を逸らすとすぐに走って出て行った。力の抜けたてのひらからバットが落ちる。疲労は一気に身体を重くした。ケイシが蹲る隣に腰を下ろす。
「だって、しょうがないだろ。ケイシくん俺を好きだって言うんだから」
 誰にともなく呟いた言葉は自分の胸に返ってきた。心臓に穴が開いてしまったようにむなしさを感じた。俺は間違ったろうか。隣には起き上がらないケイシがいる。俺はどうしてこんなに悲しいのだろう。寂しいのだろう。
 数分前俺に触れていたケイシの指はもう動かない。これが現実か。クリアになっていく頭は忘れていた感情を思い出させる。愛がほしい。今更。後悔がさざなみのように心臓を埋め尽くしていく。本当は俺は、なんて今更。両手に頭を抱えて考える。なにもかも今更で、澄んだ世界で俺はどんな言葉も見失う。
 遠くでサイレンが鳴っているのを聞くでもなく聞いていた。




(12.9.26)
置場